第4話 二つの足音

 地平線から上る太陽のまぶしさに目を開くと、小刀は夜に置いたときと変わらずそこにあった。

 

 眠りながらも女の気配を探っていたが、女が動く様子はなく、結局何事もなく朝を迎えることとなった。

 

 寝起きの身を切るような冷たい朝の空気に身震いすると、アトイはむくりと起き上がった。

 四肢を開放すると、冷たい空気が触れ合っていたところに吹き込み、より芯の深い寒さが身を削った。

 

 そのまま女の方に目を向けた。

 

 女は相変わらず、刀を抱きかかえたまま、毛布をかぶり、背を丸めて眠っている。

 

 アトイは自分の毛布を引っぺがすと、未だ夢の中にいる女の元へと近づいた。

 

 すぅすぅと小さく寝息を立て、刀にしがみつくように丸まっている。

 

 まだあどけなさの残る顔は、警戒心という言葉をまるで知らないように穏やかだった。

 

 背中が一定の間隔で深くゆっくり上下しているところを見ると、どうやら本当に眠っているようだ。

 狸寝入りをしている者は呼吸が不規則で浅いので、すぐにわかる。


 アトイは寝ている女を見下ろし、声をかけた。


 「おい、起きろ」

 

 しかし、女はただ深く呼吸を繰り返すばかりで、アトイに答えることはなかった。

 

 おい、おい、とアトイは何度も声をかけたが、それでも女が起きる気配はなかった。

 

 アトイはため息をつくと、女の直ぐ側にかがみこんだ。

 声をかけても起きないのならば、もう直接体をゆすって起こすしかない。

 

 穏やかに眠る女の肩に、アトイがそっと右手をのせると、びくっと女の背中が跳ねた。

 そして女はカッと目を見開くと、刀をつかんで跳ね起き、土煙を上げながら片膝を立て、抜刀の姿勢をとった。

 

 つかに左手をえながら、深く深く唸るように息をはき、鋭く目を光らせている。

 

 アトイは思わず息をのみ、そして、胸に鈍く思い針が突き刺さったような感覚を覚えた。


 その姿は怯えながらも、精一杯、毛を逆立てて威嚇する獣のようにあわれだった。


 この女はおそらく、このようにしていくつもの夜を超えてきたのだろう。

 たった一人きりで。

 

 アトイは思わず顔をそむけた。

 ——かつての自分の姿を見ているかのようだった。

 

 女はその鋭い目でアトイの顔を見ると、ひどく安心したように短く息をつき、柄からゆっくりと手を離した。

 

「……おはよう……ございます」

 

 そういって、女は曲げた膝を立てた。

 

「……もう出るぞ」

 

 アトイは女から貸した毛布を受け取ると、二枚の毛布を丸めて縛り、袋の下につるした。

 乾かしておいた鍋や湯呑も片していく。

 

 最後に焚火の跡を丹念に消した。

 焚火の跡を残すと、後を付けられる可能性があり、危険なのだ。

 

 紫色のリコリの実を小袋の中から取り出すと、いくつか女に渡し、口に放りこんだ。爽やかな酸味が口の中に広がり、頭が冴えわたっていく。

 

「あの……」

 

 アトイからもらった実を、両手ですくうように持ち、上目でアトイを見ながら女はつぶやいた。

 

「……なんだ」

 

 アトイは袋を背負いながら、顔をしかめた。

 

「あなたの名前、教えてほしい……」

 

「……」

 

 アトイはもう一つリコリの実を口に放り込むと、街へ向かって足早に歩きだした。

 あと4日ほど歩けば街に着くだろう。

 

 女が慌ててアトイの後ろをついて歩く。

 聞きなれない、自分とは異なる足音が、短い間隔で追いかけてきた。

 

 しかし、その足音はひどく洗練されていた。

 耳を澄まさないと聞こえないほどに音が静かなのだ。

 

 意識せず、音を立てずに歩くのは相当な訓練を積んだものにしかできない。

 アトイ自身、そういった訓練をうけたのでよくわかっていた。


 しばらく無言で森の中を歩いていると、突然、くいっと外套が軽く後ろへ引っ張られた。


 足を止めて振り返ると、女が遠慮がちにアトイの外套をつまんでいた。


 「あの……」


 すがるように、女が硝子細工のような瞳でアトイを見上げていた。

 

 しかし、アトイはそれを一瞥しただけで、かまわず前を見据え、再び歩きはじめた。

 

「あ……」

 

 女が短く漏らした声と共に、掴まれていたアトイの外套がピッと皺を伸ばし、女の指から離れた。

 

 静かな足音が二人分、静寂な森の中に響いた。

 

 明朝みょうちょうの白い光は、徐々に色を含み始め、生い茂る木々の葉のわずかな隙間かられ射していた。

 

 湿った土のにおいが肺の中にこもると、不思議と森の全体が見えてくる。


 木々の揺らめきや、森を住処すみかとする生き物の生業なりわい、鳥の羽ばたき……

 



 そして、己もまた、それを形づくる者たちの一つであるのだと。

 



 そう思うと、いつも心がなぐさめられた。

 

「……アトイだ」


 前を見据えたまま、アトイはふいに答えた。

 

「……え?」

 

「俺の名だ」

 

 そっけなく、アトイがそう言うと、女は半ば口を開いたまま、アトイをじっと後ろで見上げた。

  

 小鳥たちの歌声が聞こえる。なんとも美しい声だ。

  

 そよ風が吹き、木々の葉が柔らかく擦れ、木霊こだました。

 

 女はしばらく黙り込んでいた。

  

 しかし、やがて、自身の内に沁みこませるように呟いた。

 

「……アトイ」

  


 孤独な男の名をつぶやいた。

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