第31話 婚礼衣装
思わず目を細めてしまうような、蜜色の光が窓から差し込むと、リリィとロトルは椅子に腰を下ろした。ここはいつも、サーニャが刺繍を慈しむ席だ。
二人は部屋を覗いたり、庭に出たりなどして、存分に宿を探検し、そして、そんな二人の姿を、時折、サーニャは微笑みを浮かべて、眩しそうに、優しく見守っていた。
十二分に宿を満喫したので、サーニャを呼んで、ついに繕った作品を見せてもらうこととなった。
「うわぁ!」
机に目一杯広げられた作品を覗き込み、リリィは声を上げた。
広げられたその布には華やかに、けれど慎ましく咲き誇る、花や葉の刺繍が、存分に施されていた。
「凄い綺麗!」
椅子の上に膝で立ち、リリィは向かいに腰をおろしたサーニャに、尊敬のまなざしを送った。
リリィの隣に座ったロトルも、繊細な作品たちに、思わずため息を漏らした。
今まで見たことない作品ばかりだ。
植物の刺繍が多かったが、中には鳥や鹿などの動物や、果物など、類を問わず、様々なものが形づくられていた。
「まだまだありますよ」
サーニャはそう言って微笑むと、足元の袋の中から、さらに布を取り出した。
リリィは、その布を目にして、
「こんなに細かく縫うのに、いったいどれくらいかかるんだろう……」
サーニャの作品の驚くべきところは、その
例えば同じ花を縫うにしても、色合いや雰囲気にこだわるのか、写真のように、題材となるものを注視し、精密に再現することにこだわるのかで、ずいぶんと出来上がったものが異なってくる。
サーニャの場合は後者だ。
花弁の形や、葉脈まで正確に再現され、そのわずかに
「ユシパのとは全然系統が違うでしょう?」
サーニャがそう問いかけると、リリィは目を丸くした。
「お母さんを知ってるんですか?」
「ええ」
サーニャは懐かしそうに目を細めた。
「ユシパは私の幼馴染なのよ。私があなたの年より、ずっと前からのね。
あの子は昔からお日様みたいな子で、皆を笑顔にしていたわ。
私も随分とあの子に救われた……」
サーニャは少し目を伏せた。
「最近は……ちょっと事情があって、あまり顔を合わせることはできていないんだけど……彼女は今でも、私の一番の親友だわ」
そう言って、サーニャは眉を下げて、微笑んだ。
「お母さんの友達……」
リリィはそうつぶやくと、サーニャに尋ねた。
「どっちが先に、針を持ち始めたんですか?」
「ああ……実は、それは私なのよ」
「サーニャさんが、先に始めたの?」
「ええ」
サーニャは頷いた。
「ワッカに噴水のある広場があるでしょう?私が小さい頃、よくそこの腰掛に座って刺繍をしていたの。そうしたら、いつの間にかユシパが覗き込んでいてね。『いつも、ここで刺繍してるの?』って。
それからは良く、ユシパが隣で覗き込むようになったんだけど、ある日、あの子も刺繍道具と布を持ってきてね、——たぶん、あれはわざわざ買いそろえたんだと思うな。
それで突然、『刺繍教えて』って、言ったの」
「それじゃあ、サーニャさんはお母さんの師匠なんだ!」
「ふふ……そうなるかもね」
サーニャは楽しそうに笑った。
リリィと話すときのサーニャは、いつもよりも砕けたような話し方をする。
言葉遣いも、どこか、ロトルと話すときとは異なっていた。
「あの子は本当に不器用で、よく、糸を途中で切ってしまっていたんだけど……でも、あの、色や形に対する感性はすごかったわ。
途中まではすごくバラバラで、とりとめのない絵に見えるんだけれど、完成したものを見ると、色や形の配置が絶妙なのよ……きっとあれは才能ね」
サーニャがそう褒めると、リリィが誇らしげな表情をした。
「不器用だったけど、やり始めたことにはとことん熱心で……めきめきと上達して、いつの間にかお店まで構えてしまうんだもの。
あっという間に、追い越されてしまったわ」
遠い目をして、宙を見つめるサーニャに、リリィは首を傾げた。
「サーニャさんだってこんなに凄いものを作れてしまうんだから、作家さんとして、十分活躍できると思うんだけど……」
そう言うと、何か思いついたのか、リリィはぱっと顔を
「そうだ!私たちのお店で、一緒に働きませんか?
サーニャさんがいたら、絶対、もっといいお店になる!」
そう言ってから、リリィは少し首をすくませ、
「ちょっと今はこんな状況で、お店にあんまり、お客さん、入っていないんですけど……」
と口の中で、もごもごとつぶやいた。
サーニャは目を見開くと、一瞬くしゃりと顔をゆがませたが、やがて、穏やかに微笑みを浮かべた。
「……そう言ってくれてありがとう。
けれどね、私は案外、この女将という仕事が気に入っているの。
いろいろな人と会えるし……それにね、ここは大切な人と出会った場所でもあるから、失いたくないのよ」
そう言うと、サーニャは「ちょっと、待っていて」といって、どこかへ行ってしまった。
リリィと顔を見合わせ、しばらく座って待っていると、サーニャが衣を手に抱えて帰ってきた。
そして、それを机の上に広げた。
「わっ!綺麗!」
リリィは興奮して、感嘆の声を上げた。
それは、ありったけの花が見事に咲き誇った、真っ白な衣だった。
「これ、婚礼衣装でしょう!?」
「ええ……ちょっと恥ずかしいけどね」
サーニャはそう言うと、くすぐったそうに笑った。
ロトルはこっそり、リリィに耳打ちした。
「婚礼衣装って何……?」
リリィは目を丸くして、同じようにロトルにささやいた。
「婚礼衣装は祝言の時に着る服だよ」
「……祝言?」
首をかしげると、リリィは少し呆れた顔をして、再び耳打ちした。
「祝言は……えっと……すごく好きな人と、ずっと一緒にいるって約束する儀式のことだよ。
私のお母さんと……お父さんの顔は知らないけど、お母さんとお父さんも祝言を挙げて、ずっと一緒にいますって約束して、結婚して、それで私が生まれたんだよ」
ロトルはこくこくと相槌を打ちながら、リリィの話を聞いた。
ともかく、祝言というものは、大切な人と、ずっと一緒にいることを誓い合う儀式であることは理解した。
「内緒話は終わったかしら?」
サーニャが微笑みながら尋ねると、ロトルとリリィは顔を見合わせ、頷いた。
少し得意げな笑みを浮かべると、サーニャはその婚礼衣装を指さした。
「あのね、実はこれ、私がつくったのよ」
「え!?」
リリィとロトルは息を飲み込むと、再び互いに顔を見合わせ、
桃色や、赤色、金色の糸で作られた花が咲き乱れ、風が吹いているのか、花びらが至る所に散っていた。
そして、その花びらの中、一羽の銀色の鳥が
なんとも華やかで、美しい刺繍だ。
リリィは舌をもつれさせながら、サーニャに尋ねた。
「これを、ぜーんぶ……サーニャさんが、作ったの?」
「ええ。刺繍だけじゃなく、その衣も私が仕立てたのよ」
「……うそぉ」
瞳が落っこちるほど目を見開くと、リリィは再び衣を見下ろし、しばしそうして凝視すると、机の縁に顎をのせた。
「えぇ……服屋かたなしだよぉ、こんなの見せられたらぁ」
唇を突き出すリリィを見て、サーニャは声をだして笑った。
「ふふ、服屋さんにそう言ってもらえるなんて、光栄だわ」
「……やっぱりサーニャさん、うちで働きませんか?」
「いいえ、だめよ。私の居場所はここだから」
しきりに楽しそうに笑ったあと、サーニャは少しだまりこみ、目を細めてどこか遠いところを見つめると、ぽつぽつと語りだした。
「私ね……この衣を身にまとって、この宿で、小さな小さな祝言をあげたの」
サーニャは庭を指して、「ほら、あそこよ」と言った。
「え!サーニャさん結婚していたの!?」
リリィは身を乗り出し、サーニャに尋ねた。
「ええ……相手はもう、ここにはいないけれど……」
寂しそうにサーニャが目を伏せると、リリィは視線を泳がせ、首をすくめた。
「……祝言は親族も、友人もいない、二人だけのものだったけれど、生きていて一番幸せな瞬間だった」
そう言って、幸せそうに微笑むと、サーニャは水をすくうように手を合わせ、それを口元へと運んだ。
サーニャの長い睫毛が、淡い、蜜色の光の玉をはじき、掌に唇を寄せるその姿は、なんとも美しく、ロトルもリリィも、そのなめらかな唇に瞳を奪われた。
「……こうやってね、あの人の掌の上に唇を寄せて、息を吹きかけたわ。
お互いに、そうやって誓い合ったの」
——ロトルは知らなかったが、<言ノ葉ノ国>では魂をかけた誓いをするとき、このような仕草をした。
やがてゆっくりと唇を離すと、目尻に皺をよせ、サーニャはリリィを見つめた。
「だから、ここが私の居場所なの」
頼むまでもなく、二人のために、サーニャは
ユシパが寝込んでいることを、リリィがサーニャに話すと、サーニャはユシパのために、消化のよさそうなものを何品か作り、「これで一週間はもつはずよ」と言って、帰り際に大きな袋をリリィに持たせた。
リリィを家まで送って宿に帰ってくると、サーニャが帳場でロトルの帰りを待っていた。
腰を上げ、ゆっくりとロトルの近くによると、クシャリと顔をゆがませた。
「ロトルさん……今日はありがとう。本当に本当にありがとう……」
胸を押さえ、サーニャは今にも泣いてしまいそうな顔だった。
そして、うつむき崩れ落ちると、何度も何度も「ありがとう」と繰り返し
ロトルは状況を理解できず、とにかくサーニャを
ロトルの手が触れると、何かに耐え忍ぶように、サーニャはいっそう身体を震わせた。
小刻みに震える、温いサーニャの体温が手に伝わると、急に胸に何か熱いものがこみあげてきて、ロトルは唇を噛んだ。
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