第32話 月光
小鳥たちが盛んに花の芽を摘むようになり、サニアの花は、小さなつぼみが柔らかく解け始めていた。
今年の<
ロトルとアトイは、
見る者のいないぼんぼりが、虚しく風に揺れている。
機械的に足を繰り出しながら、アトイの頭の中は、なぜ?という単語で埋め尽くされていた。
最近、やたら、あの『におい』が発せられるようになったのだ。
それは、風で吹き飛んでしまいそうなほど微かなものだった。
しかし、その『におい』の川上には何もないのだ。血も死体も、何もない。
今もちょうど、そのわずかに発せられた『におい』を追ってきたところだった。
息を切らし、汗をびっしょりと身体にかいてたどり着いたが、やはり、そこには何もなく、鼻を霞んでいた『におい』も、知らぬ間にふっと消え、骨折り損に終わってしまった。
( 俺たちをおちょくっているのか? )
アトイはだんだんと腹が立ってきた。
こちらはすり抜けていく尾をなかなか掴めず、必死にもがいているというのに、相手は
隣では、空を撫でていく雲を、ロトルはぼんやりと眺め歩いている。
あれほど走ったというのに、汗一つかいた様子はない。
つくづく人間離れした女だ。
気が付けば、早いもので、ワッカに来てから、もう、ひと月半が過ぎようとしていた。
ようやく土の中から顔をのぞかせたばかりだった草花は、いまや立派に花を咲かせ、次の年に向けて子孫を残し始めていた。
( これほど誰かと共に時を過ごしたのは、あの頃以来だな…… )
無に近い足音を聞きながら、懐かしい日々が、走馬灯のようにアトイの頭を駆けていった。
そこに、アトイの真っ黒な髪を撫でる、細い手があった。
心から大切なものに触れるように、その手には、ありったけの優しさが込められ、小さなアトイの頭を撫でていた。
つんと鼻の奥が痛み、アトイは深く息をすった。
それは本当に偶然だった。
夜の闇に白い月が滲む晩、ロトルはふいに目を覚ました。
次第に、目を
むくりと、肘をついて、ロトルは身体をもたげた。
布団の上に、窓の障子の桟の影が落ちている。
眠れないのならば、眠くなるまで起きていよう。
そう思い、ロトルは温い布団から抜け出した。
階段を下りると、窓の外に人影が見えた。
こんな夜更けにどこに行くのだろう?
興を覚え、気配を消して、ロトルはこっそりその人影の後を追った。
外に出て、澄んだ夜気に触れると、ロトルは思わず笑顔になった。
空には真っ白な月がまんまるく、悠然と照っている。
もう明日には、満月となるだろう。
宿を抜け出して、夜の街を冒険しているような、少し悪いことをしているような、そんな気分になって、心が躍っていた。
商店街を抜け、広場を抜け、住宅街を抜け……そして、人影は林の中に入っていった。
木々の木肌の臭いや土のにおいが身を押し包む。
微かな風が吹くと、迫りくるように木々がさんざめき、迷い込んだ異物に警戒音をならして、威嚇しているようだった。
わずかに浮かんだ木々の黒い影が、檻のように見える。
ロトルは一人きりで森をさまよっていた時を思い出し、ブルリと身震いした。
ちらちらと、あの孤独感が見え隠れする。
(今は一人じゃない。宿に帰ればアトイがいる)
宿に帰ればアトイがいる、宿に帰ればアトイがいる……と言い聞かせるように心の中で復唱し、ロトルは檻の中を進んでいった。
やがて、林が途切れ、広々とした場所に出た。
月の光が草の葉で照り返り、淡い光が灯ったように、ほの白く浮かび上がっている。
しかし、その中で、闇に沈んでいるものがあった。陽炎のようにゆれている。
影はその中へと入り、そして見えなくなった。
ゆっくりと近づいてみると、闇に沈んでいたものが、徐々に淡い灯の中に滲みだしてきた。
それは小さな廃屋だった。
もうずいぶんと手入れはされていないようで、軒下には蜘蛛の糸がはり巡り、細い糸一本一本が不気味な光を放っている。
薄い板張りの壁には、黒々とした穴が大小ところどころに開き、近づくほどにカビと埃と金属が入り混じった臭いが強く漂った。
ロトルは壁に張り付くと、吹き抜けになった窓の障子枠から目だけをのぞかせた。
月が厚い雲に覆われてしまったせいで、中の様子がよく見えない。
仕方なく腰を落とすと、人が動く気配がし、ロトルは廃屋の裏へと身を潜めた。
やがて、
いや、その姿はもはや人ではなかった。
うねうねと、蛇のようなものが宙をはい回り、黒い靄が全体にかかっていた。
再び林の中へ入る直前に、それは人の姿へと形を戻し、そして闇の中に消えていった。
壁から顔をのぞかせて、呆然とその背中を見送っていたが、はっと我に返ると、ロトルは立ち上がり、扉の前に立った。
どうしてなのか、ひどく寒気がした。
心ノ臓がどくどくと脈打ち、呼吸が苦しかった。
ゆがんだ扉を開けると、中は身震いするほどの静寂が満ちていた。
冴えた月が、厚い雲から顔をのぞかせ、白い光が茫洋と廃屋の中を照らした。
ロトルは
そうしないと、叫んでしまいそうだった。
——そこには小さな娘の屍が、累々と横たわっていた。
ぼやけてよくは見えないが、身が裂けている者や、心臓を一突きされている者もいた。
皆、ぽっかりと、虚ろな目をしている。
震える足で後ずさると、何かを踏んだ。
ドクンと心ノ臓が跳ね、恐る恐る足を持ち上げると、鳥の骨のようなものを踏んでいた。
それは指だった。もげた細い指だった。
それを悟った瞬間、ロトルは駆け出した。
林の中を、あてもなくビュンビュンと駆けた。
鋭い梢が腕や顔に引っ掛かり、小さな傷をつくった。
脚がもつれて躓くと、ロトルはその勢いのまま吹っ飛んだ。
鼻の先が、冷たく湿った黒い土に沈む。
鼻から吸い込んだ、土の細かな粒子にむせると、ロトルはそのまま腕を振りあげ、仰向けになった。
木々の葉の隙間から、天に浮かんだ月が見える。
ゆがんだ景色の中、黒い天が
自分が今、呼吸をしているのかもわからない。
魂を抜かれたように、茫洋と天を見上げていると、次第に粟立っていた肌が、息をひそめ始めた。
明日にあの月は満月となる。
宿に帰ればアトイがいる。
その二つの言葉だけが、頭の中でぽつんと膝をかかえ、嫌になるほど白い月光が、天から降り注いでいた。
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