第29話 小さな職人
ネロはつかの間、目を閉じ、そして目をあけた。
瞳には驚きとも
頭のどこかで、ネロもうっすらと、アトイと同じようなことを考えていたのかもしれない。
「もしもお前の考えが、
そこでネロは口を結び、しばしうつむくと、再び口を開いた。
「私たちはいったいどうすればいい……?」
ネロは
震えた声は上擦り、泣き出してしまいそうだった。
「……変わらないさ」
アトイはネロを
底のない虚ろのような、感情を殺した目だった。
「俺たちは狩るだけだ……ウェンを根絶やしにするために」
ため息が出るほど温かく、晴れやかな空であるというのに、街は不気味なほど人通りが少なかった。
辛うじて開けている店もあったが、品数は少なく、営業時間を短縮している店がほとんどだった。
「……この街、どうなっちゃうのかな」
リリィは広場の腰掛に座りながら、ぼんやりと街の様子を眺め、不安そうにつぶやいた。
リリィにお尻をくっつけて座るロトルは、物憂げな表情を浮かべるリリィを、ふっと見下ろした。
「いつも私が眠った後に、お母さん、居間でお店の帳簿をつけているんですが……寝込む少し前、帳簿をつけながら、すごく深いため息をついていたんです」
リリィは曇った顔を伏せた。
「きっとものすごく売上が減っちゃったんだと思います……だって、お店に来るお客さんの数が全然違うもの……私たち、どうなっちゃうんだろう」
ロトルは何も言うことが出来ず、うつむいた。
この街にしばらく身を置くうちに、金銭と言うものが、ようやく最近わかってきたところだ。それゆえ、なおさら口を開くことはできなかった。
しばし、そうしてうつむいていたが、やがて、リリィは無理やり作った顔で、ぱっとロトルを見上げた。
——リリィのこういったところが、ひどく大人で感心するが、ロトルはどこか寂しくも感じていた。
「ロトルさんはずっと宿に泊まっているんですか?」
ロトルは頷いた。
「そうですか……当たり前ですけど、私、ずっとこの街に住んでいるので、この街の宿に泊まったことがないんです。——この街どころか、宿ってものに泊まったことがないんです。ちょっとロトルさんが羨ましい」
そう言って、リリィは歯を見せて笑った。
「……遊びにきてみる?」
ロトルが尋ねると、リリィは目を輝かせた。
「え、いいんですか!?」
ロトルが頷くと、リリィは心底嬉しい、というように笑って、
「ありがとうございます!……ちょっとドキドキしちゃうなぁ」
と言って、ふふ、と軽やかに鼻を鳴らした。
ロトルも笑みを浮かべると、ふっと、頭からすっぽり抜けていた夕餉のことを思い出した。
「……そういえば、私のご飯はいつも宿の女将さんが用意してくれるんだけど……
リリィも一緒に宿で食べる?たぶん、頼めば作ってくれると思う。
——それとも、街のどこかで一緒に食べる?」
「そうですねぇ……」
リリィは目線を上にあげてから、再び街を眺めた。
「街のお店も全然開いていないみたいだし……私もロトルさんの宿で食べてもいいですか?」
口の端をあげ、ロトルが頷くと、突然、強く風が吹いた。
街路樹が一斉に鳴きだし、木の葉が舞った。
「ひゃっ!冷たい!」
リリィが首の後ろを抑え、小さく悲鳴を上げた。どうやら、噴水の飛沫が風に流されここまで飛んできたようだ。
ロトルは頭巾がめくれないように、端をつまんでグッと前に引っ張ると、風で乾いた目をつぶり、瞼の中で潤した。
突然吹いた風は止むのも急で、ふっと勢いをなくした。
あたりが再び静穏な景色へと戻る。
ロトルはゆっくりと目を開いた。
隣では風で滅茶苦茶になった前髪を、リリィが上目で撫でていた。
「この時期はいつも風が凄いなぁ」
ため息をつき、そうつぶやいたリリィに、ロトルは首を傾げた。
「そうなの?」
尋ねると、リリィはこくんと頷いた。
「はい。いつもこの時期には急に強い風が吹くんです。
もう少し温かくなれば風も収まるんですが……」
そこまで話して、リリィは何か思い出したように「あっ」と、短く声を漏らした。
「そういえば、寺小屋で先生が言っていたんですが、この時期に吹く強い風は、冬と春の争いで生み出された風らしいですよ。
冬の冷たい空気と、春の温かい空気がぶつかりあって、新しい、ものすごく強い風が生み出されるんだそうです。
暖かかった気温が、この時期、突然寒くなったりするのもそのせいで、せめぎ合いでどちらが勝ったかで気温も下がったり上がったりするんだって……
あれ?そうしたら、冬が勝ちゃったら、春は来ないでずっと冬のままなのかな?
……今度、先生に聞いてみようかしら」
ロトルは苦笑した。リリィは途中から自分の口調が変わっていることに気が付いているだろうか?
得た知識を話すリリィはとても楽しそうだ。その感覚には身に覚えがある。
この世界のことを全くといっていいほど知らない自分は、日々、見ること聞くこと、食べることが新しい発見だ。
それは稲妻が落ちるように突然やってくる。
そして、それに気が付いたとき、一気に視界がひらけたように、心が高揚するのだ。
「寺小屋は良い場所だね」
ロトルがつぶやくと、リリィがぱっと顔を上げた。
「寺小屋の先生はとても物知りなんです。私が聞いたらなんでも答えてくれる。
たとえその時は答えてくれなくても、必ず、次の日か、何日後には調べてきてくれて、先生なりの考えを教えてくれるんです」
「……いい先生だね」
リリィは大きく頷いた。
「寺小屋に行けば友達にも会えるし……早く再開しないかなぁ」
リリィはつまらなそうに唇を突き出し、両手で腰掛の縁を掴んで、ぱたぱたと足を振った。
その子供らしいしぐさに、ロトルは思わずリリィの頭に右手をのせ、細く柔らかい麦藁色の髪を撫でた。
リリィはくすぐったそうに笑って首をすくめ、上目でロトルの手を見つめると、ふっと突然、その表情が消えた。
「……怪我、もうよくなったんですか?」
「怪我?」
「あのときの……」
しばし考え、ああ、あの獣と戦った時のか、と思い出した。
ロトルは微笑み頷いた。
「もうすっかり治ったよ。傷も残ってない」
そう言うと、袖をめくり、傷があったところをリリィに見せた。
その場所は跡すら残っておらず、真っ白だった。
覗き込んで、傷跡が残っていないロトルの白い腕を見ると、リリィはほっと胸をなでおろした。
「よかった。ひどい怪我だったから……」
ロトルはめくった袖を戻しながら、首を傾げた。
「そんなことなかったよ?全然痛くなかったし、傷もあっという間に治ったし……」
「あんなにたくさん血が出ていたのに?」
ロトルが頷くと、リリィは不思議そうに眉をひそめた。
しかし、まぁ、それならよかったと、一回頷くと、ロトルの袖を凝視した。
「破れて縫ったところも解れていないですね……よかった。
私が縫ったから、心配だったんです」
ロトルは腕を持ち上げ、リリィが凝視した部分を見た。
破れた箇所は、波打っていたり、皺が寄っていたりもせず、とても上手に縫われていた。外套に合わせて黒い糸で縫われ、よくよく見ないと、その跡すらわからない。
「……凄い綺麗に直ってる。縫ってくれてありがとう。破っちゃってごめんね?」
首を振り、リリィは照れたようにはにかむと、外套の裾に施された刺繍を指さした。
「……実は、その刺繍も私が縫ったんです」
ロトルはびっくりした。
これほど
「リリィがこれを縫ったの?」
問いかけると、リリィは誇らしげに頷いた。
「はい。だからロトルさんは、私が作った衣を買ってくれた、お客さん、第一号なんです」
リリィが笑ってそう言うと、ロトルは裾に施された、金の模様を見つめた。
ふと、脳裏に、サーニャの声がよみがえってきた。
——ロトルさんの外套の……その刺繍を施した人はとてもいい職人さんですね。
一針一針、とても丁寧で、美しい刺繍です。
少しかすれた、穏やかな声だ。
ロトルは目を細め、息を吸った。
「私が泊っている宿の女将さんがね……サーニャって名前なんだけど、その人がね、この刺繍を褒めていたよ」
そしてロトルが、サーニャが言った言葉をそっくりそのままリリィに伝えると、リリィは顔を真っ赤にして喜んだ。
「職人って言ってもらえるなんて……嬉しい!」
「サーニャもね、すごく綺麗な刺繍をするんだ。
その刺繍があんまり凄いから、いつも傍で見させてもらってる」
リリィは驚いて目を丸くした。
「その人も職人さんなんですか?」
「うーん……職人さんではないと、思う……
でも、リリィのお店で見た刺繍に負けないくらい、素敵な作品をつくる人だよ」
リリィはちょっとムッとして、口をへの字に曲げた。
「えぇ……お母さんより凄い刺繍、見たことないけどなぁ」
「……今日、一緒に宿に行くんだし、リリィも見せてもらったらいいよ。
頼めば作品、見せてくれると思う。リリィの方が私よりもずっと刺繍に詳しいから、サーニャと話が合うかもしれないね」
ロトルが苦笑しながらそう言うと、リリィは複雑な表情を浮かべ、うつむいた。
——まるい自分の膝小僧を見つめながら、何かいけないことをしてしまった後のように、リリィの心には
母とは異なる作品を見てみたいという気持ちはあった。
けれど、もしそれが、本当に今まで見た中で、一番優れている作品だと思ってしまったら、自分の母への尊敬の念が薄れてしまいそうで怖かった。
しかし、リリィもまた、職人であった。
どうしてもそのサーニャという人が作った作品が気になって仕方なかった。
良い作品をこの目で見て、己の感性を伸ばしたいと思うのは当然のことだろう。
まずいことを言ってしまったのかと、ロトルが不安げに、隣でじっとうつむく、小さな横顔を見ていると、突然リリィがぱっと顔を上げ、その顔に笑みを浮かべた。
そして、
「はい、見せてもらいます」
と言って、しっかりと頷いた。
朝の光が射し込んだように、その顔には、果断な表情が浮かんでいた。
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