第26話 祝詞
<
ネロは
あの
——それはロトルのことだ。
ロトルの存在については一切話していない。
二匹のウェンも、全てネロ達<
それは、何も手柄を独占したかったわけではない。
ネロは、
雪原にむき出した土のように、手甲や足袋も含めて全身を黒い衣で包み、顔には動物を
狐や狼、犬に兎など、ひな型にした動物は様々だったが、どれも
彼らは<
王直属の護衛人だ。
そのためだけに生きる武人。
その生の終わりは安らかなものではなく、血と痛みに満ちた終わりだ。
彼らの出自は、
親も友人も彼ら自身も……彼らが生きてきた軌跡は全て無になり、唯一あるのは、王を護るという義務のみ。
すべての<
その全てを照らす光に、ウェンも引き寄せられるかもしれない。
信じがたいことではあるが、人もまたそうである。
この世には、
そのような輩は<
貧しい出自が多い<
彼らはこの世に貧しき者が多いのは、権力が
そうして、<
それは、ウェンが貧しさや苦しさから死んでいった人々の
ネロは彼らがそう考えてしまうのもわかるような気がしていた。
孤児である自分も、育ての親であるグレゴに拾われなければ、彼らのようになっていたかもしれないのだ。
実際に、神官たちの中には己の権力をひけらかし、臣民たちから
そこはやはり
生臭さを完全に拭い去ることはできないのだろう。
しかし、ネロはアトイのことを思うと、<
この世には、生まれたそのときから信じられないような厄災を背負っている者もいるのだ。
しかし、その者は、ただ己が何者であるのか知りたいと、その切なる願いから旅を続けている。
<
ロトルのことを話せば、どんな手を使ってでも、ロトルは確実に<
大地を照らす、まばゆい神聖な光の影に、そういった芯まで凍り付かせるような冷たいものが潜んでいることを、ネロはわかっていた。
あの純粋な瞳を濁したくはない。
ロトルのためにも、アトイのためにも……
「何度来ようとも、ここの美しさは変わらないのですね」
いつの間にか目的地に着いていたようだ。
「……ええ、ここはワッカが誇る穢れなき泉ですから」
無理やり笑みを浮かべたネロの言葉に、
薄い雲が流れ、隠れていた太陽が顔をだすと、頭を撫でるような温かい陽光が泉に落ちた。
柔らかい風が頬をかすめると、泉の周りに咲いた花々が一斉に歌い始め、弧を描いた波紋が光の粒をはじいた。
<
やがて、ゆっくり後ろを振り返ると、綺麗に整列する神官たちに向かって、天へと大きく腕を広げた。
「さぁ、
高らかに声をあげた
そして、厳かな
横笛のかすれた和音が音を紡ぎだし、巫女たちは一斉に神楽を舞い始めた。
しゃんしゃん……と清白な鈴の音にのせるように、
この世の穢れや災厄を払う祝詞だ。
ネロはわずかな呼吸をしながら、この美しく清らかな儀式を見つめていた。
膜を張ったように、澄んだ声と音が遠くから聞こえる。
自分の体が宙に浮き、足先から溶けていくような錯覚を覚えた。
意識だけがぼつんとここに留まっている。
( いつかこの祝詞が、本当に神のもとに届けばいい…… )
そして、神が願いを聞きとげ、ウェンによる
そう願い、もう、わからなくなった瞼を、ネロはそっと閉じた。
林に落ちる陰にまぎれ、アトイもまた祝詞をささげる
金色の長髪があふれんばかりの光を受け、美しく輝いている。
こうして祝詞をささげる儀式をみるのは初めてだった。
透き通るように木霊する声を聴きながら、アトイは太い木の幹に手を添え、隣に立つロトルに目を向けた。
黒い頭巾に隠れ、表情は上からだとよく見えないが、祝詞の儀式に見入っていることは感じられる。
アトイの裾を掴むロトルの右腕に、もう傷はない。
破れた衣も縫ってもらったようだ。
ネロからロトルが右腕を負傷していると聞き、宿に帰ってロトルの傷を<
傷から手先にかけて、パリパリとした赤黒い血の膜がびっしりと腕に張り付いていたので、それなりに深い傷だったのだろう。
しかし、アトイが傷を見せろと言った時も、本人はあっけらかんとしており、そういえばと、アトイに木の枝を渡すように己の右腕を差し出した。
傷の治りの早さもそうだが、痛みに対する鈍さにも目を見張るものがある。
( ウェンを刀で切る、か…… )
ロトルの腕を見て、改めてあの時の光景を思い出した。
あの後、ロトルに頼んで刀を借り、それを手にもってよく観察してみた。
反りのある大きな太刀で、背筋をぞわつかせるような
あの刀を振り回すには、相当の筋力が必要だろう。
しかし、長い時をかけて観察してわかったのは、おそらく名刀であるということだけで、特に奇妙なものは見つからなかった。
<
ネロはロトルの姿が見えなくなった後、その場にいた<
ウェンは物理的に倒せる、という流言がはやるのを避けたい気持ちもあったと思うが、やはり一番は、ロトルのことを大事にしたくない気持ちがあったのだろう。
意外にも<
実際に己の目に映った異様な光景に、<
まるで雪が解けていくかのように、ロトルの異質さが徐々に明らかとなっていく。
異質と言えば、街を襲ったウェンもそうである。ウェンが複数現れたという話は聞いたことがない。
そして、やはりあの出来事と、——娘たちが消えたことと無関係と考えるのは、無理があるだろう。
体の底から、自分でもよくわからない震えが湧いて出てくる。
耳にささやき声がまとわりついていた。
お前は今、岐路に立っているのだと。お前の運命を変える、大きな曲がり角に立っているのだと。
気がつけば、ぞろぞろと神官たちが林の方へと向かってきていた。
祝詞をささげ終わったのだろう。
「……行くぞ」
隣で呆けたように立つロトルに声をかける。
しかし、ロトルはアトイの袖をつかんだまま動こうとしなかった。
訝しんでロトルの視線を辿ると、ロトルはじっと
「おい」
再びアトイが声をかけると、ロトルは目が覚めたようにアトイを見上げた。
「行くぞ」
アトイがそう言うと、ロトルはこくんと頷き、そっと掴んでいた裾を離した。
街へと踵を返したアトイの背を追いながら、ロトルは後ろ髪を引かれるように、ちらりと振り向いた。
目に映るのは、風になびく黄金の髪……
( なんだろう……? )
ロトルは小首を傾げた。
あの髪を見つめていると、言いようのない懐かしさが胸にこみあげてくる。
しかし、いったい何が埋もれているのかと、
ロトルは再びアトイに向き直った。
胸に淀んだその感情には気が付かないふりをした。
脳裏に少しだけ色が灯る。
どこか遠い記憶の彼方で、さらさらと花びらと共に風になびく、あの黄金が見えた気がした。
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