第25話 鎮魂詩

 春らしい優し気な風が吹き、隣で歩く言ノ葉ノ王レウ・シュマリの金の髪がなびいた。


 あの黒暗暗こくあんあんとした出来事など、まるで無かったかのような、優雅な時だった。


 歩きながら、ネロがワッカの街を、ちょっとした情報を添えながら紹介していくと、言ノ葉ノ王レウ・シュマリは子供のように目を輝かせて見たり聞いたりしていたが、その威厳はずっと静かに身をひそめ、消えることはなかった。


 後ろからは壮麗そうれいな龍と二匹の雪獣せつじゅうが大人しく後をついてきており、傍から見れば異様な一行だろう。

 ネロ自身も、未だに言ノ葉ノ王レウ・シュマリと共に歩いていることを信じられずにいた。


 しばらくそうして歩くと、突然、雪獣せつじゅうたちが威嚇するように唸り始め、龍も高らかに低く雄叫びを上げた。神獣たちの声に、ワッカの街がぶるぶると震え、沿道の人だかりがざわめいた。 


 そして、龍と雪獣せつじゅうは毛を逆立て、その歩みを止めてしまった。

 

 <獣ノ番人ヴァン・カーイ>と言ノ葉ノ王レウ・シュマリが、雪獣せつじゅうと龍をいくらうながそうが、彼らは頑としてその場を動かず、何かに怯えているようにも見えた。


( そうか…… )


 ネロは唐突に理解した。


おそれながら申し上げます。おそらく彼らは、この先に微かに残るウェンの『におい』に反応しているのではないかと思われます。

 

「におい?」

 

 ネロは頷き、道を指しながら説明した。


「この道を曲がって歩いた先に、例の出来事が起こった場所があります。

 ウェンは消えましたが、おそらくまだウェンの悪しき気配がよどんでいるのでしょう……龍と雪獣は神聖な生き物。ウェンのような汚れたものを敏感に感じ取り、嫌っているのではないかと存じ上げます」


「ああ……」


 何か思い当たることがあるのか、言ノ葉ノ王レウ・シュマリは納得したように宙を揺蕩たゆたう龍を見つめた。そして、ネロに顔を向けると、目を細め、笑みを浮かべた。


「そうですか……あなた方<ホロケウ>はウェンの悪しき気を『におい』と呼ぶのですね。面白い言い回しです」


 ネロは閉口し、やがて、ゆっくりと口を開いた。


「いえ……お許しください。私の知り合いに、そういった言い回しをする者がいたので……つい私も口にしてしまったのです」


 ネロが手を組み、頭を下げると、言ノ葉ノ王レウ・シュマリはネロの肩にそっと手をのせ微笑んだ。


「そう畏まらずにおもてをあげなさい。私は面白いと褒めたのであって、決してあなたが謝るようなことはないのですよ」

 

 そう言って、言ノ葉ノ王レウ・シュマリ翡翠ひすいの目を細め、じっと遠くを見つめた。


「そう……この先ですか」


 小さくつぶやくと、言ノ葉ノ王レウ・シュマリは宙を揺蕩う龍の鼻を撫で、帯に差していた扇をおもむろに取り出し、ゆっくりと一回だけ仰いだ。

 キラキラと光の粒が舞う。


 龍は大きく頭をもたげると、体をくねらせ、そして、天へと昇っていってしまった。


 小さくなっていく龍の姿を、ネロは呆然と見送りつぶやいた。


 「……よろしいのですか?」


 言ノ葉ノ王レウ・シュマリは微笑みながら去っていく龍の姿を見守り、答えた。

 

「ええ、あの子には帰るときにまた迎えに来てもらうこととします。ワッカの街にあの子の体は大きすぎますし……それに、あの子をここに置いていくわけにはいかないでしょう」


 そう言うと、言ノ葉ノ王レウ・シュマリは後ろを振り返り、雪獣せつじゅうをひいて歩く<獣ノ番人ヴァン・カーイ>たちに告げた。

 

「あなた方は雪獣せつじゅうと共に、ここにとどまりなさい」


 言ノ葉ノ王レウ・シュマリの意図を汲んだのか、一人の神官が身を乗り出し、頭を下げた。

 

「畏れながら申し上げます!これ以上セト様が悪しき淀みにお近づきになれば、玉体ぎょくたいが穢れてしまいます!」


 頭を下げる神官を、言ノ葉ノ王レウ・シュマリはまっすぐに捕らえると、やがて静かに言い放った。

 

「いいえ……私は参ります」

「セト様!」

 

 神官たちは焦ったように身を乗り出し、何とか思いとどまってくれるよう言ノ葉ノ王レウ・シュマリを説得し始めた。


 頑として聞かない言ノ葉ノ王レウ・シュマリに、ネロも頭を下げ、説得を試みた。


言ノ葉ノ王レウ・シュマリ様……畏れながら申し上げます。何があったのか、申し伝えることならば何処いずこでも可能です。どうか、その清らかな玉体を汚すようなことはなさらないでください」

 

 ネロは決して、あの惨劇の跡を言ノ葉ノ王レウ・シュマリに見せようとここまで歩いてきたわけではなかった。

 神聖な雪獣せつじゅうと龍は、消えそうなほど薄いウェンの『におい』を敏感に感じ取っていたが、あの場所はここよりずっと歩いたところにある。


 あそこにはまだウェンの爪痕が生々しく残ったままだ。

 

 半壊した建物の取り壊しもまだすんでいないうえに、こびり付いた血痕もまだ完全には消えていない。

 

 あのような惨たらしい跡を、清らかな言ノ葉ノ王レウ・シュマリに見せるわけにはいかなかった。


 言ノ葉ノ王レウ・シュマリは頭を下げるネロに、穏やかな表情で向き直ると、ゆっくりと諭すように口を開いた。


 「いいえ、ネロ。私は知るためにここに参上したのです。決してあなたの話を聞くためだけにここに参ったのではありません。話を聞くだけならば、あなたを<光ノ都カルト・ノア>に呼び寄せればそれで済むのです……

 しかし、私はここに参りました。

 それは、しかとこの目で見るため。己の目で見て、初めて知ることが出来るのです」


 言ノ葉ノ王レウ・シュマリは温和な表情で、しかしきっぱりとそう言い放った。

 

 水底のような瞳の奥に、なにか激しいものが、確かな光を放っていた。


 ネロは半ば口を開け、言ノ葉ノ王レウ・シュマリを見つめた。


( ……このお方はあたしが思っているよりも、ずっと『王』で有らせられるのかもしれない )

 

 決して偶像などではないのだ。

 かしずかれ、崇拝され、この国の象徴として神官たちに操られる道具などではないのだ。


 意思のようなものを目にした瞬間、不思議と言ノ葉ノ王レウ・シュマリの姿が明白に見えるようになった。


 もうネロが言うことは何もなかった。

 

 やがて、あくまで意見を変えない言ノ葉ノ王レウ・シュマリに神官たちの方が折れ、雪獣と<獣ノ番人ヴァン・カーイ>を残して、一行はあの陰惨いんさんな場所へと歩みを進めた。






 言ノ葉ノ王レウ・シュマリはかすれた声でつぶやいた。

 

「なんと惨い……」

 

 ゆっくりと腰をおり、破壊された壁に飛び散った血の跡へと、言ノ葉ノ王レウ・シュマリはおもむろに手を伸ばした。

 

 ネロはその骨ばった白い手首を、がしっとつかんだ。


 はっと我に返ったように、言ノ葉ノ王レウ・シュマリはネロへ顔を向けた。

 その顔には、まるで己が傷つけられたかのような、痛ましさが浮かんでいた。


 眉をひそめ、瞬かぬ瞳でネロを見つめる


「ご無礼をお許しください……どうかこれ以上は……」

 

 唸るようにそう言葉を切り、ネロは頭を振った。


 言ノ葉ノ王レウ・シュマリの伸ばした腕が、あの時、息絶え、床に転がった子供に伸ばした、己の腕のように見えた。


 言ノ葉ノ王レウ・シュマリは虚ろな瞳を、再び黒ずんだ血の跡へと戻した。そして、伸ばした腕をゆっくりとたたむと、その手で強く胸を押さえた。

 

 やがて、言ノ葉ノ王レウ・シュマリ静粛せいしゅくまぶたを閉じた。長い、長い黙祷もくとうだった。

 

 その姿を見て、誰もがこの時、自然と胸に手を当て、目を閉じ、無念にも天へと召された友人や家族の安寧を願い、祈りをささげた。


 そして、果実が柔らかな草の上に落ちるように、そっと小さく息吹くと、言ノ葉ノ王レウ・シュマリは鎮魂の詩を風にのせた。




 ——泣くな、泣くな、どうか我らをうれうなかれ。ともしびをあげよう其方そなたのために。遥かなる常春とこはるの地への灯だ。

 祈りをささげよう其方のために。祈りは鳥になり、其方を連れてゆくだろう。

 我らは語り継ごう、其方がここにいたことを。

 泣くな、泣くな、どうか我らを愁うなかれ……




 遠く、透き通るような祈りが紡がれ、光となり、そして蝶となった。

 蝶はひらひらと舞い、天へとのぼると、美しく天上を照らす陽の一部となった。


「……これは、私が亡き祖母から授かった死者の安寧を願う祈りの詩です」


 言ノ葉ノ王レウ・シュマリはゆっくりと立ち上がり、光の蝶が溶けた空を見上げた。


「私はこの歌がとても好きでした……どうか、苦しんだ人々に安寧を」


 そう唱えると、再び瞼を閉じ、言ノ葉ノ王レウ・シュマリは深く合掌した。

 

 そして目を開けると、ネロに向き直った。


 「ネロ。どうか私にお聞かせください……何があったのかを」


 射貫くような、強い眼差しだった。


 ネロは静かに頷くと、低い声でつぶやくように語り始めた。


 駆け付けた時の街の様子やウェンの様子、<ホロケウ>の戦い 。

 —— そして己が目にした、目を覆いたくなるような惨たらしい光景も含めて、できる限り細かく、言ノ葉ノ王レウ・シュマリに伝えていった。


 それが、命を失った者たちに、安寧を届けてくださった、言ノ葉ノ王レウ・シュマリへの、せめてもの礼儀だった。

 

 ネロが語り終えると、言ノ葉ノ王レウ・シュマリは深く、深く息をはいた。

 

 長い金色のまつげを伏せ、じっと何かを考えるように、黒ずんだ血痕を見つめると、やがて、ささくように問いかけた。


「……これほどの災厄をもたらすウェンとは……いったい何なのでしょうね……」

 


 しかし、その問いかけはうつろに響き、誰一人として答えることはなかった。

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