第27話 新たな犠牲者

 街に吹く風がいっそう暖かくなり、空気も春らしい暖かさになってきた夜、アトイはむちに打たれるように布団から跳ね起きた。

 

 かすかにだが、開け放たれた窓から『におい』がした。

 郊外にある集落の方から漂ってくる。

 

 すぐさま壁にかけてある外套をとると、ロトルが目を覚ました。

 

 アトイのぴりぴりとした殺気を感じ取ったのか、眉を小さくひそめると、布団からでて、同じく壁に掛けてある自分の黒い外套を手にした。

 

「わたしも行く」


 外套を羽織ると、ロトルは挑むようにアトイを見つめた。

 

 アトイはわずかに悩み、そして頭を縦に振った。

 


 がらんと暗い玄関を通り宿の外に出ると、空に青白い星がいくつも瞬いていた。

 

 息をひそめ、真っ暗な街の中を二人で駆け抜けていく。

 不気味なほど静かな街とは対照的に、アトイの心ノ臓はどんどんと胸を叩き騒がしかった。

 

 どこかで夜泣きをする赤子の声がする。

 力いっぱい体を震わせ泣き叫んだ声が、膜を張ったように聞こえ、頭に残った。

 

 狼の看板が見え、アトイは扉の前に息を切らしながら立つと、その扉を激しく拳で叩いた。

 

 中から眉間に深いしわを刻み、不機嫌そうな顔をしたネロがぶつぶつと何かを言いながらでてきた。


 しかし、扉の前で殺気立って立つアトイの姿を見ると、すっと真顔で目を光らせた。

 

「……ウェンか?」

 

 アトイはうなずいた。

 

「馬を貸せ」

 

 ネロは頷くと、店の奥に立つ馬屋へと二人を急ぎ足で連れて行った。

 

 馬屋には馬が数頭いた。

 どの馬も筋肉の浮き出たしなやかな肢体を持っており、利口そうな顔で鼻を鳴らしていた。

 

 その中の一頭に、ネロは手早くくら頭絡とうらくをくくりつけていく。馬は暴れることもなく、頭を下げ、大人しくしていた。

 

 ネロが馬具をつけ終わると、アトイはあぶみに足をかけ、手綱を左手で押さえながら鞍へと飛び乗った。


 呼吸や筋肉の動きなど、馬の生きている音ひとつひとつが足に伝わってくる。

 

 アトイが馬の首を撫でてやると、馬は房の尾を振り、ブルンと鼻を鳴らした。


「ほら、お前も乗れ」


 アトイは手を差し出し、ロトルを促した。


 ロトルは近づき、恐る恐るアトイへと手を伸ばす。

 アトイはその手首を強くつかむと、勢いよく弾んだロトルを引っ張り背にのせた。

 

 ロトルはもぞもぞと動き、ちょうどいい場所に腰を据えると、おずおずと遠慮がちにアトイの外套を掴んだ。


 背中に手を回し、ロトルの手をぐっとつかむと、アトイは自分の腹の位置までその手を移動させた。


「しっかり掴まないと振り落とされるぞ」

 

 そう言うと背後で頷いた気配がし、ロトルは両腕をアトイの腹まで回してぴったりと抱き着いた。

 

 手綱をしっかりと握り前を見据えると、同じように背にのったネロが馬を歩かせていた。


「あたしも行く」


 アトイは無言でうなずくと、もう一度馬の首を撫で、『におい』の源に向かって馬を走らせた。






『におい』が一番濃く漂うところにたどり着くと、アトイは馬の背から降りた。

 

 ロトルも馬の背から降りると、アトイは道端の木の柵に手綱を結び付け、馬の顔を撫でてやった。


 鼻を鳴らし、顔を振る馬を見て一呼吸すると、源へと足を向かわせた。

 

 いやに静かな建物が、ぼんやりと黒い闇に縁どられ、不気味な雰囲気を漂わせていた。

 

 無言でネロとロトルに扉の両端に立つよう指示を送ると、アトイは息を殺し、音が鳴らないようそっと扉を開けた。


 隙間からもふわりと鉄の臭いがし、アトイの心ノ臓がバクバクと騒ぎ始めた。

 

 アトイは覚悟を決め、一気に扉を引いた。


 中は恐ろしいほどの静寂で満ち溢れていた。

 

 青白い月明かりが、開け放たれた扉から斜めに射し、細長いアトイの影を落とした。

 

 アトイは壁に背をつける二人に身振りで指示をすると、三人は息を殺しながら慎重に家の床を踏みしめた。

 

 家の中は荒らされた様子はなく、居間に置かれた家具の位置も、そこにそう配置されたであろう場所にそのままあった。

 

 中は整頓され綺麗なままであるのに、『におい』が至る所にこびりついているのが、いっそう不気味に感じられる。


( 何なんだ一体…… )


 冷たい汗が頬を伝った。鉄の臭いがする。鉄の……


 居間の奥へ進むと、倒された障子が床に仄白く浮かび上がった。

 寝室と居間とを仕切る障子だろう。


 アトイは腰にぶら下げた旅灯のねじを回した。

 カチリと音が鳴り、火花が散ると、火がともった。

 円形にぼんやりと橙色の明かりが広がる。


 目に飛び込んできた光景に、アトイは目を見開いた。


「……くそっ!」


 布団の上に、喉から血を噴き出した男女の死体が眠っていた。

 三つ並んだ布団のうち、真ん中の布団はもぬけの殻だった。

 

「遅かったか……」

 

 そうつぶやくと、がくりと全身から力が抜けた。

 床につきそうになる膝を、必死に足で支える。

 

 間に合わなかった。


 床がきしみ、何者かがアトイの後ろ隣りに立った。

 ひゅっと短く息をのむ音が聞こえる。


 鉛のように重たい頭を傾けると、鬼火のように、紅い瞳が闇の中に浮かんでいた。

 ロトルは己の目に映ったものに、愕然がくぜんとしている様子だった。


( そうか…… )


 そうか、お前は初めて見るのか。


 あのとき、ロトルは服屋の娘を送り届けていたから知らないのだ。

 地に累々るいるいと転がる死体を。


 視界に広がる赤と、死にあらがうように伸ばした腕。

 己の運命を呪い、見開いた目と何かを叫びぽっかりと開いた口。

 苦しみ、悶え、そして息絶えた顔が、恐ろしいほど鮮明に見えた。


 しかし、あの者たちと比べると、この二人は比較的穏やかに死を迎えたようだ。


 口と喉からは今もなお、鮮やかな血液が鈍く流れ落ちているが、瞳は安らかに閉じられている。


 おそらく、一瞬の出来事だったのだろう。鷹が獲物を掴むように。


 眠っている間に、喉をウェンにかみ砕かれたのだ。

 この二人は自分が死んだことすら知らないだろう。


 そこまで思案し、アトイは目を見開き、喉元の傷口を凝視した。


 そう、これは明らかにウェンの噛み跡だ。噛みちぎられた肉の形がそれを示している。しかし、もう一人いたはずの家族の姿はない。


 家も嘘のように整っており、傷跡もあまりにも少ない。


 それは、血肉を喰らうために暴れまわるウェンの痕跡とはあまりにもかけ離れていた。


 ひっそりと一家が眠る深夜に忍び込み、致命傷のみを与え、そして目的のものを攫っていく。


 —— しかし、これら全てを、あのウェンが行ったというのだ。


( ありえない…… )


 しかし、この光景が現実であることを物語っている。


 今まではウェンの『におい』をもった何かが暴れ狂い、そして少女たちを攫って行った。


 だが今回はどう見ても……ウェンが、アトイのよく知っているあの獣がそれをやってのけたのだ。


 果たしてそんなことが可能なのだろうか?


 問いかけては否定し、問いかけては否定し……そして、光さす森の出口に出たように、アトイはある一つの考えにたどり着いた。


 もし……もし、何者かがウェンに指示しているのだとしたら?


( いや……そんなことはできるはずがない )


 しかし、アトイがそう否定しても、もう一人の自分が頭の後ろで叫んでいる。


 本当にそうだろうか? できる者がいてもおかしくないのではないだろうか?

 犬に芸を仕込むように、ウェンを操ることが出来る者がいるのではないだろうか?


 アトイは頭を振り、目に映る光景をただ見つめた。血を流した二人が横たわっている。


 何だ……何が起こっているんだ。

 俺は今、何を見ている……

 もう何もかもが解らない。自分はいったい何を追いかけているんだ?


 荒くなった自分の呼吸音を聞きながら、アトイはおもむろに外へと向かった。


 軋んだ扉の金具の音が、静まり返った夜の空へと飛んでいく。


 黒い空には片割れ月が浮かんでいた。半身をなくし、孤独に輝いている。


 冷たい光だ。


 アトイは立ち尽くし、茫洋ぼうようと夜空を眺めた。

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