第22話 黒狼の戦い
雨がひっくり返るように降っている中、アトイは息を切らしながら必死に腕を振っていた。
街に近づくにつれ、だんだんと『におい』が濃くなっていく。
( 間に合ってくれ……!)
『におい』はもう既に、今まで感じたことがないほど濃く漂っていた。
しかし、己の足がそれに追いつかない。
もう既にみぞおちが激しく痛み、足ももつれていた。
しかし、それを感じないほどまでに、アトイの心は
額から汗なのか雨なのかわからぬ雫が滝のように噴き出し、顔を伝う。
目に入ったそれをぬぐうと、ふと視界に馬小屋が映った。
懐から<
「なんだぁ」
中から気だるそうに中年の男性が出てきた。
男性の目の前に<
「すまない、街でウェンが暴れている。馬を貸してもらえないだろうか」
ウェンは一直線にロトルへと駆けていく。もうネロの姿など見えていないようだった。
( こんなウェンの姿は初めて見た…… )
一つのものに執着するウェンを目にするのは初めてだった。
奴らはあたり散らすように無差別に人を襲う。
目に入ったもの全てに噛みつき、人の血肉を食う。
ちらりとネロは左後ろにある家に目をやった。
この家の中には痛ましい死体が転がっている。
知り合いだった。
襲われたのはこの家だけじゃない。
何人もの知り合いがウェンに喰われた。
ワッカの<
身を裂かれ、内臓は飛び出し、腕はもげていた。
頭が喰われ、誰なのかわからない死体もあった。
目を見開いて事切れた子供の姿が床に転がっているのを見た時、ネロは思わず崩れ落ちそうになった。
その姿はあまりにも
どうしようもない無力感で足が震えた。
この子はこれからだったのだ。
たくさんのことを知り、学び、そして大人になり、また次の世代へと受け継いでいく……
(くそっ!)
しかし、悔しがる間もなくウェンの猛攻がネロ達にも襲ってきた。
信じられないことに、ウェンは一匹だけではなかった。
二匹のウェンが暴れ狂っていたのだ。
ウェンが複数現れたという報告は聞いたことがない。考えれば不思議だが、奴らは常に単独で行動する。
だから今まで何とかなってきたといってもいい。
ネロは呆然と黒く広がる淀みを見つめたが、ハッと我に返り、立ち尽くす<
さすがにこちらが多勢と言えど、一斉にウェンたちが襲ってきたらひとたまりもない。
全滅もありえた。
そのため、少人数になってしまっても、一匹ずつウェンを
<
一匹のウェンに対して、これだけの<
——しかし、なかなかウェンをしとめることはできなかった。
( なんだこいつは…… )
目の前のウェンは異様に
まるで訓練された牧場犬のようだった。
むやみやたらに暴れまわることはせず、こちらの出方を冷静に見定め、なかなか隙を見せることはなかった。
( こいつらは、今までのウェンとはまるで違う…… )
ネロは冷や汗をかいた。
自分が生き延びることに必死で、もう一組の<
いったいどうすればこいつらを倒すことが出来るんだ?
こちらが一斉に<
ウェンをここに留まらせるだけで、皆、精一杯だった。
怪我を負ったものもいた。
( このままあたしたちが全滅しちまったら…… )
このワッカはどうなってしまうんだ?
そう絶望しているさなか、ロトルが現れたのだった。
ロトルの身のこなしは常人のそれではなかった。
動きもそうだが、適切にウェンとの距離を測っている。
ウェンを熟知しているのか、それとも直感的なものなのかはわからないが、いくつもの修羅場を越えてきたようだ。
しかし、ウェンをたった一人で相手にするなど無謀なことだろう。
ロトル一人にあのウェンを押し付けるのはあまりにも残酷すぎる。
それでもネロは
下手に手を出すと、ロトルの邪魔になりかねなかったのだ。
そう思うほどに、ロトルの動きは洗練されていた。
他の<
誰一人動かず、皆、
まるで舞でも踊るかのように、ロトルはひらひらと宙をとび、迫りくる影を軽やかにかわしていく。
左手は刀の
「頼む……」
ネロはもう一度そう小さくつぶやくと、自然とリリィを抱きしめる腕に力がこもった。
雨音が静かに地を打ち付ける中、アトイはようやく街の中心部に辿り着いた。
馬は怯えたように鳴くと足で宙をかき、それ以上進もうとはしなかった。
仕方なくアトイは馬を下りると、近くの家の柵に手綱を括り付け、視線を激しく動かした。
( どこだ…… )
荒い呼吸を整え、額に噴き出た汗をぬぐう。
大きく息を吸い、瞼を閉じて、ウェンの『におい』を
堰を切ったように、薄気味悪い『におい』がむっと濃く漂い、アトイは歯を食いしばった。
やはりこの『におい』は街から来ていたのだ。
「くそっ!」
アトイは煉瓦畳を蹴り、再び駆け出した。
もう遅いかもしれない。
そう思っても、がむしゃらにアトイは腕を振った。
最悪の光景が脳裏を走る。
赤い血とそこに倒れるネロの顔。
アトイは必死に頭を振った。ネロはそんなに
そう思っても、未だかつてなく濃く漂う『におい』に、どうしてもその光景を
祈るような気持ちでアトイは街を駆け抜けていく。
遠くでいくつか人影が見えた。
アトイはさらに足に力を籠め、強く地を踏みしめた。
その人影の主は<
しかしどこを探してもネロの姿はない。
<
その視線の先を辿ると、一匹の大きなウェンが地を跳ね、歯をむき出しにしていた。
よく見ると、地に鮮血がしたたり落ちていた。
視界を広げると、人影から少し離れたところで、生きているのか死んでいるのか分からないが、<
「状況を説明してくれ」
アトイは飛び跳ねるウェンから視線を外さずに、近くにいた<
彼は驚いたように視線をアトイに向けた。
顔は血の気が失せ、真っ白だった。
「街に二匹のウェンが群れで出た。二組に分かれて一匹ずつ相手にしているが、あいつ等今までのウェンとは全然ちげぇ……まるで隙がない。<
そう話した声は震えていた。
「……後ろで倒れている奴は死んでいるのか?」
彼は軽く首を横に振った。
「いや、かなり重症だがまだ死んじゃいねぇ……でも時間の問題だ」
「そうか……」
アトイは少し考えると再び尋ねた。
「お前は<
彼はアトイが聞きたいことを察したのか、頷いた。
「ああ、血を止めるくらいの<
「……それなら一人か二人引き連れて、まずあいつの傷を癒せ。お前が癒している間、ここに残った者たちで何とかウェンを食い止める。
万が一の時のために、お前が直している間、連れて行った者たちにウェンを見張らせろ。止血を終えたら、あいつを安全なところまで運べ」
アトイがそう言うと、彼は震える唇を開いた。
「……俺だって何度もそうしようとしたさ。でも、皆、あのウェンをあいつから遠ざけるだけで精一杯なんだ」
アトイは少し悩むと、ばさりと頭巾を頭から外した。
彼の顔に
「……俺は<
そう言うと、彼はキュッと口を結び頷いた。
そして近くにいた仲間に事情を手早く説明すると、手当へと向かった。
( さて…… )
アトイは再び頭巾をかぶり、小刀を手に持つと、目の前のウェンに視線をおくった。
たしかに今までのウェンとは異なり、こちらの出方を窺うような素振りをする。
そして猪のように、ただ目の前の獲物に突っ込んでいくような真似はせず、冷静に<
観察していると、ウェンは急に方向を変え、アトイに向かって跳んできた。
アトイは素早く<
ウェンが身をひるがえして地に足をつけると、その足元から火柱が吹きあがったが、ウェンはそれも身をひるがえしてかわしてしまった。
火柱は周りの<
皆、様々な<
それどころか、跳びまわるウェンの猛攻を防ぐだけで精一杯だった。
( <
アトイは走り回りながら冷静に思考を巡らせた。
そして、ある案が浮かんだ。
アトイは隣の<
「おい、ここに<
「ああ……あいつらは確か使えたはずだ」
彼は、周りに散らばる何人かの<
「<
彼はそれぞれ指をさしてアトイに伝えた。
アトイは彼等の特徴を頭に刻み、頷くと、隣の<
「お前は他の者たちに、俺たちの中心に何とかウェンをとどめるよう、伝えてきてくれないか。俺たちもできる限りそうなるように動く」
彼が切羽詰まったように、「わかった」と頷いたのを聞くと、アトイは指を差された者たちに駆け寄り、講じた策を話していった。
アトイはほとんどの<
アトイが話すと、皆、
先程の<
そして、一瞬、一瞬だけ隙が出来た。
アトイはその隙を見逃さなかった。
アトイが腕を振り上げ、<
ウェンを逃がさないよう、外側から内側へといくつも壁が連なりたち、ウェンを閉じ込めていく。
そして、最後に土壁が伸び、空を覆う蓋ができると、ついにウェンを閉じ込める巨大な箱が出来上がった。
ウェンに壊されないように、念のためさらに壁を厚くしていく。
次に、<
幸運なことに雨が降ったおかげで、十分な水を手に入れることができる。
そして、ウェンが入った巨大な箱のわずかな隙間から、集めた水を滝のように注いでいった。
箱の中にどんどんと水が満ちていく。
しかし、アトイもさすがに、これだけでウェンを倒せるとは思っていなかった。
最後はアトイの仕事だ。
宙に浮かんだ金色の文字を読むと、バチリと音が跳ね、アトイはその<
中からくぐもった、身を刺すようなウェンの叫び声が聞こえた。
もがき苦しみ、狂ったように絶叫している。
しばらくウェンの
皆、顔を見合わせ頷くと、ウェンを囲んでいた<
水が川のように流れ出て、地面が見えてくると、——地面の上に、大きな黒い結晶が落ちていた。
一斉に歓喜の声が沸き上がった。
——その黒い結晶はウェンの核であり、ウェンが消え失せた証だった。
アトイも深く息をついたが、ハッとすると、隣にいた<
「おい!ウェンはあと一匹いるんだよな!」
アトイがそう尋ねると、喜びに満ち
再びアトイの瞼に、血を口から流したネロの姿が浮かんだ。
アトイは舌打ちをすると、再び『におい』を追って駆け出した。
ドクドクと心ノ臓が跳ねる。
後ろを振り返ると、周りの<
先ほど歓声を上げていた者たちも、皆、こわばった表情をしている。
アトイは前を
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