第23話 ***
『におい』の源にたどり着くと、アトイは思わず足を止めた。
目を見開き、呆然と立ち尽くし、息をのむ。
出口をなくした息が行き場を失い体で暴れまわり、ただでさえ上がった息がせき止められ、ひどく苦しかった。
——しかし、そうせざるおえなかった。
心ノ臓が耳の奥でなり、うるさかった。
目の前に、
そうではなく、そこにはロトルがいた。
ロトルは左手に持ったその太刀で、ウェンを切っていた。
左膝をたて、刀を持った腕は水平に左へと振り抜いている。
その動きに無駄はなく、まるで時が止まってしまったかのようにすら感じた。
おそらく、一瞬で勝負はついたのだろう。
刀にまとわりついていた黒い煙は、刀の白く鋭い輝きで
黒い結晶が、ロトルの足元にカンッと乾いた音を鳴らして落ちた。
ロトルはゆっくりと膝を立てると、振り抜いた刀を腰の
その姿を後ろから見つめながら、アトイは信じがたい光景に、未だ激しく胸を打ち鳴らしていた。
( ウェンを切るなんて……! )
遠くにネロの姿が見えた。
ネロもまた、目を大きく見開いている。
ウェンを物理的に切ることなど出来ないはずだ。
もしそれが出来るのならば、もっとずっと死人は減るだろう。
ウェンは<
——それが<
しかしたった今、ロトルはその真実を<
大きく息を吐き出し、ロトルはゆっくりとかがむと、足もとに落ちた結晶を拾い、その結晶を空へと掲げ、陽の光に透かした。
いつの間にか雨はやみ、厚い雲の切れ目から夕陽が覗き込んでいた。
まぶしそうに結晶を透かし、口元に笑みを浮かべるロトル。
その横顔を遠くから見つめ、アトイは森での出来事を思い出していた。
——あの時も、ロトルは
「ロトルさん!」
小さな女の子がロトルに駆け寄った。
どこかで見た顔だと記憶を辿ったら、あの服屋の娘だと気が付いた。
そのまま彼女はロトルに勢いよく抱き着いた。
「ロトル、さん、怪我……怪我、ない⁉」
ぼろぼろと大粒の涙を流し、しゃくりあげながらロトルに尋ねる。
ロトルは微笑みながら
娘は
ロトルの背中に腕を回し、必死にしがみつく。
オロオロしつつも、ロトルはそっと娘の背中に腕をまわした。
その奥で、アトイに気が付いたのかネロが腕を大きく振った。
「アトイ!」
その声に打たれるように、ロトルもパッとアトイに顔を向けた。
目が合うと、キュッと唇を噛み、ロトルは微笑んでいたはずの顔を少しゆがませた。
アトイは地に
そして、ロトルの前で立ち止まると、じっとその顔を見つめた。
紅い瞳がアトイを映している。
「お前は……」
そうこぼして、アトイはふっと口を結んだ。
尋ねたいこと、言いたいことが色々とあった。
しかし、いざそれを言葉にしようと口を開くと、喉を占められたように、声が掻き消えていった。
「アトイ、お前も無事でよかった!」
ネロが駆け寄ってきた。
特に大きな怪我を負った様子もなく、いつものネロの溌剌とした顔を見て、アトイはほっと胸をなでおろした。
ネロはアトイの後ろにいる<
「どうしてお前らとアトイが一緒にいるんだ?」
アトイはネロにこれまでの経緯を話した。
ネロは安堵の表情を浮かべ、ほっと胸をなでおろした。
「それじゃあ何とか、二匹のウェンをしとめることが出来たんだな」
しかし、そう言うと、ネロはどこかを見つめ、ひどく
しばらく黙り込んでいたが、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「たくさん人が死んだ……」
血を吐くような、短い言葉だった。
しかし、その虚ろな声にすべてがつまっていた。
ネロは死んだような表情で宙を見つめていたが、ゆっくりとロトルに顔を向けると、その目に徐々に生気が戻ってきた。
「あんたのおかげで多くの命が助かった……皆を代表してお礼を言わせてくれ。
ありがとう……」
ネロはギュッとロトルの手を両手で強く握った。
そして、ロトルから手を離すと、右拳を額に当て、右膝を折り、ゆっくりと腰を真下に落として頭を下げた。——最大の感謝を示す辞儀だった。
急に
ネロはぱっと立ち上がると、ロトルに抱き着く少女の肩に手をのせた。
「この子の命はあんたが守ったんだよ」
ネロがそういうと、娘ははっとしたようにごしごしと涙をぬぐい、「ありがとうロトルさん」とネロと同じように頭を下げ、くしゃくしゃの笑顔を見せた。
ロトルは
ネロは
「アトイ、あんたは私と一緒に後処理を頼む。……ロトルはその子を家まで送ってやんな」
ロトルは頷くと、アトイに駆け寄り、右手首を掴んだ。
アトイが眉をしかめると、手首を持ち上げ、その手に黒い結晶を置いて握らせた。先ほど、ロトルが拾い上げたウェンの核だ。
そして、満足げに頷くと、娘の手をとり、歩き始めた。
ゆっくりと指をほどき、アトイは己の手に置かれた黒い結晶を見つめた。
かなりの大きさだ。
つい先ほどまでロトルに握られていたせいか結晶は生暖かかった。
顔をあげ、徐々に二人の背中が小さくなり、そしてついに見えなくなるその時まで見送ると、ネロは小さな声で絞り出すようにアトイに尋ねた。
「アトイ、あの子はなんだい?」
何も答えないアトイにかまわず、ネロは話し続けた。
「ウェンは明らかにあの子を狙っていた……それに、常人離れした動きに」
ふっとネロは言葉をきり、大きく息を吐いた。
「ウェンを刀で切るなんて信じられない……でも、確かにこの目で見た」
あの瞬間の光景が、ありありとアトイの脳裏に浮かびあがる。
陽の光を鋭く反射させた刀と、膝を立て左手を振り抜いた姿。
そして、消える影を静かに見送る紅い瞳……
( たしかにあの光景は異様だった )
結晶を握る手にぐっと力がこもった
すぅっと口を開く音が聞こえ、アトイは肩よりも低い、隣のネロの顔にゆっくりと目を向けた。
「……アトイ、あの子はいったいなんだい?」
ささやくように、再び同じ言葉で、ネロはアトイに尋ねた。
重苦しい沈黙の末に、アトイは淡々と答えた。
「俺もそれを知りたい」
アトイとネロが後処理のために家に入っていく姿を***は遠くから眺めていた。
血で汚れた壁、半壊した家々をぼんやりと眺めながら、あの時の光景が胸を強く突き、***は思わず顔を覆った。
( ソンなつもりジャなかった…… )
大切なあの子に襲い掛かったあのウェンを見たとき、息が止まるかと思った。
顔を覆っていた手をゆっくりと離すと、その手をじっと見つめた。
靄の中では、細かな墨で描いたような無数の文字が、己を
( 気持チ悪い… )
他人の腕を見つめるように、***は冷ややかな目で自分の腕を見下ろした。
ようやくウェンを従わせることが出来るようになったが、まだ完全に制御することが出来ない。こっそりとウェンに訓練を
***はギュッと拳を握った。
あの子を傷つけるようなことがあったら、畜生に成り下がった自分は、いよいよ生きる意味をなくしてしまう。なんのためにこんな外道な行為をしているのか……
( もう、コんナことがないヨウニしナいト…… )
一度初めてしまったからには止められない。
もう狂ってしまったのだ。
自分が何だったのかも、もうぼんやりとしか思い出せない。
わたシは……ワタシ……?
***は頭を振った。早く、早く戻らねば……
街に背を向けて、***は
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