第21話 現れた黒い影
草笛を吹いていたリリィが空を見上げた。
「なんかちょっと雲が怪しくなってきましたね」
ロトルもつられて空を見上げると、晴天そのものだった空に、山の向こうから灰色の厚い雲が押し寄せてきていた。
「もうすぐ日が暮れてしまいますし、お母さんも待っているから、そろそろ戻りましょう」
リリィはそういうと軽やかに立ち上がり、衣についた泥や草を叩いて払った。
ロトルも頷くと、差し出されたリリィの両手に手を重ね、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう」
お礼を言って衣についた土を軽く払うと、リリィはにっこりと笑った。
林を早足で歩いていると、雫が葉を打つ音が聞こえ始めた。
「あ、降ってきちゃった!」
リリィは手で顔に傘を作りながら叫んだ。
小さかった雨音は徐々に勢いを増し、林が一斉にざわめき始めた。
斑点模様だった土も、一面濃い色となり、曇天の空がごうごうと鳴る。
容赦なく頬を打つ雨粒に、二人はついに駆け出した。
リリィは叫びながら走っているが、その声には少し笑い声が混じっていた。
「あはは!急いで急いでロトルさん!」
桶をひっくり返したように降る雨に、はしゃぎながらリリィがロトルを振り返る。
街につくと、ひっくり返したように降っていた雨は、地を静かに打つ雨に変わり、厚い
リリィは
「え……何?」
ロトルは眉をしかめた。
街は異様な雰囲気に包まれていた。
—— 人の姿がどこにも見当たらなかったのだ。
歩いても歩いても、どこにも人の姿が見当たらない。
二人の
しばらく歩くと、商店街の広場に、群がるような人影が見えた。
ようやく人に会えた喜びから、ロトルとリリィは顔を見合わせて安心したように息をついた。
そして、その人影へと駆け出した。
事情をあの人たちからきこう。
ぼんやりとしていた人影の姿がだんだんと鮮明になり、その中で、見覚えのある、茶色いふわふわとしたくせ毛が見えた。
ロトルは嬉しそうに名を呼んだ。
「ネロ!」
しかし、名を呼ばれ、振り返った人影の顔は、ロトルが思っていたものとは異なっていた。
鬼のように目を
しかし、そんな鬼の形相に、ちらちらと灰のような
ネロは切迫した声をあげて、ロトルを振り向き叫んだ。
「おい!こっちに来るんじゃねぇ‼」
その声と同時に、真っ黒い影が二人に向かって跳んできた。
叫び、身を守るようにして屈みこんだリリィを、ロトルは抱き込んでその影をかわした。
腕に抱いたリリィごと、ごろごろと煉瓦畳を転がる。
しかし、すぐに体を起こすと、ロトルは己を襲った影を見据えた。
その影は獣だった。
黒い……全てを飲み込むような真っ黒い獣だった。
地に音もなく足をつけた影は、すぐに身をひるがすと、再びロトルへと跳んできた。
ロトルは背中でリリィを突き飛ばし、後方へ跳ぶように下がった。
しかし、もはや完全にかわすことはできなかった。
とっさに右腕で我が身をかばう。
影の爪がロトルの右腕を引っ掻いた。
そこの衣は焼け焦げ、腕に焼けるような鋭い痛みが走り、ロトルは歯を食いしばった。
影はさらに、ロトルの喉元に噛みつこうと、再び黒い牙をむきだして跳びかかった。
その時、影を
じりじりとした熱気が、ロトルの肌を刺す。
影は、
背筋をなぞるような、思わず耳をふさいでしまいたくなる声だ。
そして、そのまま後ろへ一回転すると、ロトルから遠く離れた場所で
左から、ごうごうと熱気を漂わせる巨大な火の玉がいくつもいくつも放たれた。
猛烈な追撃に、しかし、影はそれをものともせず、ひょいひょいと軽やかにかわしていく。
火の玉はそのまま地面ではじけ、黒い焦げた跡を煉瓦畳に丸く残した。
顔を少し傾け、盗み見るように目だけで左を確認すると、
旅灯の火を種にして、片手鍋の先に火をありったけ集め、それをじわじわと丸めていき、巨大に成長した火の玉を影へと放っている。
ロトルは思わず口の端を上げた。
緊迫した状況に片手鍋を持ったその姿が、あまりにも不釣り合いでおかしかったのだ。
笑っているのもつかの間、影はひらひらと火の玉をかわしながら、一気に距離をつめてきた。
キュッと顔を引き締めると、ロトルは軽やかに後方転回して距離を取り、右腰に差した刀の柄に左手を添えると、そのままタタタと音を立てずに弧を描くように走った。
影は飛んでくる火の玉をかわしながら、
(……やっぱり )
ロトルは確信すると、リリィに叫んだ。
「そのままネロのところまで走って‼」
影は明らかにロトルを狙っていた。
がたがたと震え、凄まじい恐怖から涙も出ず、顔をゆがませたリリィは、ロトルの声を聴くとはっと短く息を吐いた。
そのまま荒い呼吸が短く繰り返される。
( ネロ…… )
眉根を寄せて、恐怖でかすんだ視界で、必死に無数の人影からネロを探した。
やがて、火の玉を放つ褐色の女性が色をもって視界に映りこんだ。
たしか、ロトルさんはあの人のことをネロと呼んでいた。
再び顔をロトルへと戻した。
体はがたがたと震え、脚に力が入らない。
ロトルは自らをおとりにするように、リリィから離れたところへと真っ黒い影を引き付けてくれていた。
獣を睨みつけながら走っているが、ときどきリリィの様子を心配するようにこちらに目を向けている。
リリィはギュッと拳を握り、唇を結んだ。
そうすると、冷たくなった体がめらめらと熱くなり、やがて血が通ってきた。
息を止め、グッと体に力をいれて無理やり震えを収めると、勢いよくロトルへ頭を縦に振った。
抜けてしまった腰を精一杯持ち上げる。
力が入らず何度も何度も硬い煉瓦畳に腰を打ち付けた。
ふらふらとようやく立ち上がれると、力を振り絞り、息を止め、全力でネロへと駆け抜けた。
ネロの元にたどり着くと、リリィは抱き着くようにその背中にしがみついた。
背中に手を回し、ギュッとしがみつくリリィの震える腕を、ネロはそっと外した。
リリィは
ネロは体をくるりと回転させ、その柔らかい細い手首を折りそうなほど強く握りひくと、リリィをそのまま強く抱きしめた。
「もう大丈夫だ」
ネロがそういうと、緊張してこわばった顔で呆然と宙を見つめていたリリィは、くしゃりと顔をゆがませた。
体を小刻みに震わせると、やがて、その大きな瞳から涙がこぼれ始めた。
ギュッと背中に手を回し、ネロに抱き着く。
顔をうずめて、必死に声を殺しながら泣くリリィの頭を、ネロは
「怖かったね」
と優しく声をかけながら撫でた。
腹に顔をうずめ、泣きながらコクコクと頷くリリィの頭を撫でながら、ネロはいまだウェンと対峙するロトルの方へ顔を向けた。
ロトルは身をひるがえしながら、ウェンとの距離を測っている。
ちらりとロトルがこちらに視線を送ったのが見えた。
ネロはギュッと口を結び、すすり泣くリリィの肩を抱き寄せると、しっかりとロトルに頷いた。
( こっちは大丈夫だ )
ロトルは瞳に
そして、つかず離れずの距離を保ちながら、再び目の前のウェンへと全神経を集中させた。
探るようにウェンを睨みつけるロトルを、ネロは息を殺して見つめた。
そうすることが、この場において一番良いと思ったのだ。
「頼む……」
祈るようにネロはつぶやいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます