第20話 神ノ泉

 なだらかな斜面を登り、鬱蒼うっそうとした濃緑こみどりの林を抜けると、二人は開けた場所にでた。


 風がぴゅうっと吹き、白い花びらがぶわりと舞い込む。


「うわぁ……!」


 ロトルは感嘆の声を上げた。


 視界には大きな湖と、その周りを囲うように白い花畑が一面に広がっていた。


 リリィが得意げにロトルを見上げた。


「すごいでしょ!」


 ロトルは大きく頷いた。


 白い花びらが舞う中、ひと際ロトルの瞳を奪ったものがあった。


 —— 澄んだ湖の中で、美しい獣がその雄々しい角をかかげ、天に向かって鳴いていたのだ。


 ホロロロロロ……と尺八のような低く掠れた音が木霊こだまし、あたりに響き渡った。


 リリィがはしゃいだようにその獣を指した。


「あ! 水鹿すいろくが鳴いた!」


 水鹿すいろくと呼ばれたその獣は、均整の取れた雄々しい姿とは対照的に優しげな表情をしていた。

 角は長く大きく、いくつも枝分かれしており、長い睫毛まつげと大きな眼が、天上に輝く太陽を見つめている。


 天へと鳴いていた水鹿すいろくが、ゆっくりとその頭を下ろした。


 するとしばらくして、奥からもう一匹、角のない水鹿すいろく水面みなも小波さざなみを立ててゆっくりと歩いてきた。

 水面に反射した光の粒が小波に揺れチラチラと舞っている。


 角のない水鹿が、ホロロロロロ……ともう一匹より少し高い声で天に向かって鳴くと、ゆっくり頭を下げ、角をもった水鹿にすり寄った。

 二匹は互いをいつくしみあうように鼻の先をしきりにこすり合わせている。


 角のない水鹿はおそらくめすなのだろう。

 その光景は思わず瞳が潤むほど、深い愛に満ち溢れていた。


「綺麗ですね」


 隣でつぶやいたリリィに、ロトルは二匹から目を離さず、そのまま頷いた。


「……水鹿はこうして日に何度もこの<神ノ泉ウ・ラ>につかりにくるんです。でも、誰もその住処は知らないんですよ。私たちが知っているのは、こうして水を浴びている姿だけ」

 

 おすの水鹿が鼻で水をすくい、勢いよくその鼻を振り上げた。

 大きな水滴がはじけ、音を鳴らして水面へと落ちていく。


「一度だけ……お母さんには黙っててほしいんですけど、一度だけ水鹿の住処すみかを知りたくて、後を追いかけたことがあるんです」


 リリィは悪戯っぽく笑いながら、内緒に、と言うように人差し指を口の前に立て、ロトルを見上げた。


「でもダメでした……気づかれちゃって。ものすごい速さで逃げられちゃって、見失ってしまいました」


 リリィはしょんぼりと肩を落とした。その姿を見てロトルはくすりと笑った。


( でも…… )


 ふと、ロトルは思った。


「でも……それでいいのかも」

「え?」


 ロトルはたわむれる二匹の獣を見つめ、目を細めて微笑んだ。


 なんて、なんて美しい姿なんだろう。


「人に荒らされることがない……だから、あの獣はあんなに自由で綺麗なのかも」


 水鹿を見つめ、そうつぶやいたロトルを、リリィは目を丸くして見上げてたが、なんだかその言葉は、ストンと心の中に落ちていった。


 そうなのかもしれない。


 リリィも湖に浸かる二匹の獣に目をやった。


 そうなのかもしれない。

 彼らは人に家を荒らされる恐怖を知らない。


 だからこんなに伸びやかで清らかなのかもしれない。


 いつだったか友達のザリアが、寺小屋に内緒で小鳥を連れてきて、見せてもらったことがあった。

 色とりどりの鮮やかな羽をはばたかせ、歌うように鳴いていた。


 はじめはその珍しい鳥を見て、リリィも興奮して美しい歌声に耳を傾けていた。


 でも次第にどこか小骨が引っかかったように、もやもやとしたものが腹のあたりから湧いてきたことを覚えている。


 ようやく今、その正体がわかった。


 「そっか……」


 リリィはそうつぶやくと、もう一度、


「そうかぁ……」


 とつぶやいた。


 二人とも、互いに体を擦り合わせる二匹の獣の姿を静かに見つめた。


 しばらくそうしていると、リリィが、唐突とうとつに腰に下げた袋を探りはじめた。


「ロトルさん、ちょっと見てて」


 袋の中から枝のような小さな杖を取り出すと、じっと何かを見つめ、その杖でくるりと宙に円を描いた。


 突然、湖に一筋の水が線を描いてぴゅっと噴き出した。

 二匹の水鹿が驚いたようにパッとそれに顔を向ける。


 リリィが丸い円を宙に描くたびに、ぴゅっぴゅっぴゅっと細い水の柱が建っていった。


「あ……」


 ロトルは小さく声を漏らした。

 二匹の水鹿が噴き出る水を追いかけ始めたのだ。


 細かな水しぶきが水面に落ちると、再び別の場所で透き通った水の柱が上がる。

 すると二匹はまるで競い合うように、その水の柱に鼻をつけようと、ぴょんぴょんと水の中を高く飛び跳ね、駆け回りはじめた。


 ふふ、と笑いながら、リリィは楽しそうに、いくつもいくつも宙に円を描いた。

 そのたびに場所を変えて、糸でつられるように水が細く柱を作った。

 

 舞い上がる水の玉が、光をため込み、再び水面へと落ちるそのわずかな時間で、貯めた光を一身に放つ。


 二匹の獣の姿は、傾きかけた陽の光で黄金に輝き、生命の尊さを語っていた。


 ロトルはその光景を、いつまでも眺めていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る