第18話 青い花

 耿々こうこうと白い朝日がまぶたをたたき、ロトルはゆっくりと瞼を開いた。

 

 まだ重い瞼を数回瞬きさせると、ぐるりと背を床に擦り、アトイの寝ていたはずの場所を目覚め切っていない頭のままぼんやりと眺めた。

 いつの間にか、朝に残っていた身震いするような寒さもなくなっている。


 そこにはがらんとした空白がたたずんでいた。


 布団はすでにきれいにたたまれ、壁にかけてあったはずの外套がいとうもなくなっていた。


 ロトルは寝ぐせのついた石のような頭をもたげると、薄墨色うすずみいろの己の影をみつめ、睫毛まつげを伏せた。


 もうずっとアトイの姿を目にしていない。


 たたまれた布団の様子が日によって違うため、部屋に帰ってきてはいるのだろう。

 ロトルの眠った後に部屋へ戻り、そしてロトルの目覚める前に部屋を後にしているのだ。


 パキリと膝の関節を鳴らしながらゆっくり立ち上がると、ロトルは部屋の机へと向かった。


 机の上には『必要だったら使え』とそっけない文字が書かれた紙と共に、お金の入った麻袋がいつものように置かれている。

 毎朝アトイが残していくものだ。


 その袋を見下ろし、ロトルは唇を噛んだ。

 ぽつんと置かれた褪せたそれを見るたびに、いつも心ノ臓がギュッと締め付けられる。


 アトイが姿を見せないのは、ネロに頼まれたことをずっと調べているからだ。

 それはわかっている……決して自分を避けているわけではないのだ。


 手を伸ばしその袋に触れると、チャリっと金属のこすれる音が空虚な部屋に響き、言いようのない無力感がこみあげてきた。


 街をぶらついたりすることはあったが、昼餉と夕餉を買う以外特にお金を使うあてもないので、多くを余らせたまま、毎晩机の上に袋をそっと戻していた。

 すると、次の朝にはいくらか中身が補充された状態で、再び机の上に置いてあるのだ。


 —— 最近では昼餉をネロが、夕餉をサーニャが用意してくれる。

 二人はお金なんていらないなんて言うが、それでも申し訳程度のお金を無理やり押しつけていた。


 しかし、これらのお金はアトイが身を削って作ったものだ。


 ギュッと袋を握りしめ、ロトルはアトイと歩いたあの森を脳裏に描いた。


 アトイの後ろをついていくばかりだったが、あの時は自分も狩りを手伝って二人分の食料を調達していた。

 今と違って時間もかかり手間もかかるが、あの時の方がよっぽど生きやすかったように感じる。

 

 街に来てからは完全にお荷物になってしまった。


 惰眠だみんをむさぼり、ただ不毛な時を過ごすのみ。疲れて帰ってきたアトイを労うことすらできない。


 ロトルは両手におさまった麻袋を呆然と見下ろした。


 身を喰うような虚しさが、水が滲みていくようにじわじわと身の内に広がっていった。



「あら、おはようございます」


 縁側を仕切る引き戸をガラガラと開けると、庭でサーニャが花に水をやっていた。


「おはようございます」


 ロトルは軽く頭を下げ挨拶を済ませると、板敷いたじきをおり、庭の石畳に置かれたつっかけを履いた。

 そして、そのまま石畳を踏んで、サーニャの元へ向かった。


「今日も手伝ってくれるんですか?」


 ロトルがこくりと頷くと、サーニャは顔に笑みを浮かべた。


 手に持っていた柄杓ひしゃくを水の入った桶に浮かべると、どこかへ行き、もう一式、水桶と柄杓をもって戻ってきた。


「それじゃあ今日は水まきを一緒にお願いします」


 ロトルは頷きながら、差し出された空の水桶を受け取った。

 何度も何度も水が滲みこんでいるせいか、取っ手は黒く柔らかくなっていた。

 

 サーニャは微笑んだ。

 

「ありがとう、ロトルさん」

 

 ロトルはサーニャに小さく笑みを作ると、さっそく水瓶みずがめへと向かった。

 以前も汲んだことがあるので場所はもうわかっていた。

 

 水瓶は縁側に向かって歩いた庭の左隅にある。

 腰ほどまである土色の大きな水瓶だ。


 のぞき込むと、水面には光沢のある緑の葉と、爪半月ほどの小さな山吹色の花がたくさん浮かんでいた。

 ちょうど水瓶に覆いかぶさるように枝を伸ばした樹木のものだ。

 もう葉の根元に細かな花をいくつもいくつもつけている。


 サーニャに教えてもらったのだが、この花はリリィというらしい。


 春の頭に咲き、実際に嗅がせてもらったが、その小さな花からは想像もできないほど強く鼻をくすぐるような甘い香りを放つ。


 凪いだ水面に自分の姿が揺らいでいる。


 ロトルは柄杓を手に持ち桶へと水を汲み始めた。


 柄杓を水瓶の中へ差し込むたびに、ごうからあふれた水が長い柄を伝い、指先を濡らす。

 徐々に指先の感覚がなくなっていったが、黙々と桶へと水を汲んでいった。


 水桶の半分より水が入ったところで、思い桶を手に持ち、サーニャの元へと戻った。


 サーニャは座り込み、庭の雑草を抜いていた。


 声をかけると、サーニャはロトルを見上げた。


「ああ、ロトルさん」


 サーニャはまぶしそうに目を細めそうつぶやくと、土をぱんぱんと払って立ち上がり、花壇を指さした。


「ありがとうございます。それじゃあ、あそことあそこの水まきをお願いします」


 ロトルは頷くと、以前教わったように弧を描きながら花に水を撒いていった。

 —— 花に水をやりすぎてしまうと、根が腐って枯れてしまうのだそうだ。


 色とりどりの花々が冴え切った水を一身に受けようと、目一杯に花弁かべんを広げている。


 水をくたびに嬉しそうに揺れ、水晶のような澄んだ水滴を表面につけた。


 一度、花についた水滴があまりにも甘そうに見えて、指ですくって舐めてみたことがあった。


 結局ただの水でがっかりしたのだが。


 その様子を眺めていたサーニャは肩を震わせて笑っていた。


「ふふ……それはさすがにただの水ですよ」


 そう言うと、低木に咲いた花を一つ摘み、ロトルに手渡した。


「この花の、花弁の下のところをくわえて吸ってみてください」


 大きな白い五枚の花弁の根元には房のようなものが生えていた。

 言われた通り口にくわえて吸ってみると、じゅわりと花弁から甘い蜜が染み出てきた。


 口に花をくわえたまま、ロトルは目を丸くした。


「んまい!(あまい!)」


 サーニャはロトルを見て目を細めて笑うと、かがんでもう一つ花を摘み、その花を口にくわえた。

 

 ——花をつまむサーニャの、ほっそりとした白い指が花弁に溶け込み、もうどちらが花びらなのかわからなかった。


 充分蜜を楽しんだのか、やがて、サーニャは口を花から離し、花を見つめて微笑んだ。


「……うん、甘い。小さい頃、口にした甘さと同じだわ」


 そう言うと、未だ花をくわえるロトルに顔を向けた。


「……小さい頃、よく道端でこの花を摘んで蜜を吸っていたんです。甘い香りが鼻一杯に広がって……すごく心が落ち着いて……

 この花はギョクロといって、あまり世話をしなくても花を咲かせるので、よく家の庭先に咲いていたりするんですよ」


 サーニャは手に持った花をくるくると指で転がし、その花を懐かしそうに見つめ、つぶやいた。


「こうやって蜜を吸うのは何年ぶりかしら……」


 それからサーニャは庭に咲く花の名をロトルに教えてくれるようになった。


 一見同じように見えた花も近くで見るとそれぞれ特徴があって、その違いに気が付くたびに嬉しかった。


 サーニャは尋ねれば何でも答えてくれた。


 今、水をやっているこの花の名も、以前教えてもらったことがある。

 ロトルがしゃがみ、控えめに咲く薄紫色の花を人差し指でつつくと、花が振り子のように揺れた。


 ——その花は『アイル』。

 羽みたいにひらひらとした花びらが可愛いでしょう……ワッカでは求婚するときに、その花を束にして渡す風習があるんです。


 懐かしそうにそう説明したサーニャの声が、耳の奥でよみがえった。


 そうやってジッと座り込んで花を眺めていると、ひらひらと一匹の小さな蝶が花の香りに誘われて飛んできた。

 蝶はしばらく花と戯れると、やがて、一輪の赤い花の上にとまり、白い花びらのような羽をゆっくりと揺らしながら、口を伸ばして美味しそうに蜜を吸い始めた。


 蝶の邪魔をしないように、ロトルは静かに立ち上がった。


 そして、そっと目を閉じ、頬を撫でるような穏やかな風を感じながら、美しい天国のような空色の花畑を瞼の裏に描いた。


 さらさらと風が花をこする音が耳の奥でよみがえる。




 

 髪の毛が鼻の頭をこすり、くすぐったさで目を覚ますと、何処までも広がる青い花畑の上で寝そべっていた。


 美しい美しい青だった。

 まるで空に浮かんでいるかのようで。


 何もわからなかった。

 ここがどこなのかも、自分が誰なのかも。


 ゆっくりと頭をもたげ、ぼうっと、風に身を任せ揺れる青い大地を見つめていると、ふと自分の体が溶けていくような感覚にとらわれた。


 身を寄せ集めていた細い糸がほどけ、己の体が徐々に光の粒となり崩れていく。

 その粒は風に吹かれ、遠い遠い見知らぬ地へと飛んでいった。


 少しずつ少しずつ自分の存在が消えていく。


 それに抗いもせず、身を任せていた自分に気が付き、ひどく恐ろしくなった。


 そして素早く立ち上がると、そばに置いてあった刀をつかんで、ひたすら走った。


 自分がどこに向かっているのかもわからず、それでも、ひたすら走った。


 去っていく自分を留めるかのように、ひどく頭が痛んだ。


 それでもグッとこらえ、失いそうになる意識の中で、必死に足を動かした。


 激しい頭痛がやみ、意識が明瞭になってくると、いつの間にか森の中を歩いていた。深い深い森の中を。






 ロトルはゆっくりと目を開け、頭上に広がる空を見上げた。雲一つない澄んだ青空だ。


( たしか、こんな色だった )


 そうやってしばらく空を見上げていると、サーニャの声が遠くで聞こえた。


 ロトルはすっかり軽くなった水桶を手に持つと、サーニャの元へと向かった。


 視界にはまだ、青い花が揺れていた。



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