第46話 サニアの花
宿に戻るとその日は一日中、二人とも泥のように眠った。
疲労が溜まっていたせいか、アトイの目が覚めたときには、すでに空は明るくなっており、日付も変わっていた。
( 本当に一日中寝ていたんだな )
寝すぎてしまったせいで、ぼんやりとする重い頭をもたげると、ロトルが窓際に座り、外を眺めていた。
「……おはよう」
「ああ……お前、いつからそうしてたんだ?」
「アトイが起きる、ほんの少し前からだよ」
ロトルがそう言うと、突然、グギュルルと獣の鳴き声のようなものが部屋に響いた。
ロトルの腹の虫の音だ。
「……朝飯、買いに行くか」
ロトルは恥ずかしそうにはにかんで、小さく頷いた。
祭りの騒がしさも忘れて、街はすっかり大人しくなっていた。
アトイは出店で
ロトルが首を傾げたので、アトイは、
「ランコだ。辛く炒めたキトビロ(ギョウジャニンニク)を、甘味噌を塗った焼餅で巻いたものだ。旨いから喰ってみろ」
と言って、自分の分に
もっちりとした食感に、ピリリと芳ばしいキトビロと、コクのある甘味噌の香りが鼻に抜け、空腹も相まって、たまらなく美味しかった。
ロトルも隣を歩きながら、目を輝かせてハグハグと齧り付いていた。
食べ終えて満足したのか、ふぅと一息つくと、ロトルはアトイに尋ねた。
「……アトイ、今日は何か用事ある?」
「いや、無いが……なんでだ?」
アトイが尋ねると、ロトルは少し目を伏せた。
「今日、リリィと……それから、ユシパと一緒に<
アトイはしばし考え、
「わかった」
と頷いた。
「わっ!本当だ!焦げてる!」
リリィは目の前に広がる光景を見て、声を上げた。
——泉の周りには、獣との闘いの爪痕が、未だにありありと残っており、痛ましい焦げた大地が広がっていた。
隣にいたリリィが駆け出し、黒い草原へと足を踏み入れると、ユシパがリリィに叫んだ。
「リリィ!あんまり遠くに行っちゃだめだからね!」
「わかってるよー!」
リリィはユシパに大きく手を振って答えると、目線を下に向けて、しきりに何かを探し始めた。
その様子を、ユシパは茫洋と眺め、つぶやいた。
「……こうやって実際に目にすると、本当に凄絶な出来事が、知らぬ間に起こっていたのだと……わかりますね……」
ユシパの言葉に、アトイもロトルも、何も答えることができず、口をつぐんだ。
三人がリリィの様子をじっと立って眺めていると、さぁっと風が吹き、白い小さな花びらが、<
サニアの花びらだ。
掌に落ちた丸い花びらを見つめ、ユシパは口の端をあげた。
「……サニアの花が全て散ってしまう前に、<
サニアの花の、独特な甘い香りが三人を押し包み、一面に舞う白い花びらが、まるで幻のようだった。
ロトルはぼうっとその景色を眺めた。
しきりに舞い散る白の先に、リリィの姿が小さく見える。
麦藁色の髪の毛の、小さな女の子。
ロトルは口を強く結んだ。
「ユシパ」
声をかけると、ロトルはアトイから、両手に抱えていた大きな箱を受け取り、それをユシパへと渡した。
その箱は土で汚れ、ずいぶんと古びていた。
ユシパはロトルから箱を受け取ると、首を傾げた。
「なんですか?」
「……開けてみて」
不思議そうに頷くと、ユシパは受け取った箱を地面に置き、しゃがんで蓋を開けた。
——そして、中身を見ると、ユシパは目を大きく見開き……やがて、崩れ落ちた。
「ああ……ああ……」
唇を震わせ、言葉にならない声を漏らすと、
箱の中には、サーニャの作品がぎっしりと詰まっていた。
ユシパは
「ああ……不思議な旅人さん。
あなた方は、全てを、——全てを知っているのね……」
あの悲痛な戦いの後、ロトルとアトイはもしかすると、と思い、娘たちの
そして、廃屋を囲んでいる林の中へと潜ると、ある場所の地面を掘りだした。
あの不思議な光景の中で、サーニャが宝物を隠していた場所だ。
アトイが<
変わらず、宝箱は今もそこに隠されていたのだ。
箱を土の中から掘り出し、悪いと思いながらも蓋を開けると、中にはぎっしりとサーニャの宝物がつまっていた。
麦藁色の髪の毛の、小さな女の子。
どの布にも、その女の子の姿が、写真のように
布の中で恥ずかしそうにはにかみ、こちらを向いている。
この世の憂いも、悲しみも、そんなもの知らない、と言うように、ただ幸せそうに笑っていた。
ロトルとアトイはそれを見ると、唇を噛み、そっと蓋を閉じた。
「ああ、サーニャ!どうして!どうしてなの!」
ユシパは箱を抱きしめ、
「どうして逝ってしまったの!あなたの娘は、ここにいるのに!どうして、娘を置いていってしまったの!
あたし、あなたと本当に久しぶりに会った時、あなたの顔を見て愕然としたわ。
だって、あんまり寂しそうな顔で笑うんだもの……。
だからあたし、決めたの。
あなたの宿で、リリィとあたしとあなたの三人で暮らそうって……。
あなたが大切にしていた庭に、三人で花を植えて、笑って、春先になったら、リリィの木を慈しんで……そうやって暮らそうって。
そして、あたしの店を、三人でやっていこうって……」
ひたすら泣き続け、震えるユシパ背を、ロトルもアトイも見守ることしかできなかった。
やがてユシパは、ふっと頭をもたげると、地面にへたり込み、舞い散る白い花びらを、まるで魂が抜けてしまったかのように、呆然と眺めた。
見ていられなかった。
ロトルはユシパから目をそむけ、開け放たれた箱の中身に目を向けた。
すると、しばらくして、ロトルの耳の底に、懐かしいサーニャの声がよみがえってきた。
——こうして刺繍をしていると、様々なことが頭を駆け巡るんです。
懐かしい記憶や、今日は何をしようか、とか、後悔、寂しさ、嬉しさなんかも……。
でも不思議と、それは強烈に押し寄せてくるわけではなくて、何処か遠いところから眺めるような……そうゆう風に、少し身を引いたところから見つめることが出来るんです。
針を刺すたびに、心の中を無秩序に占めていたそういったものを、少しずつ少しずつ消化してやって……そして、もう一度整えてやるんです。
きっと、そうしているのは私だけじゃないはず。
だから、ロトルさん。
きっと刺繍には、その人の思いが込められているんですよ。
優しく穏やかな声だ。
ロトルは唇を強く結ぶと、ユシパの目の前にしゃがみ、自分が抱えていたもう一つの箱をユシパの側に置いた。
「これを、リリィにあげてほしい」
それはサーニャの刺繍道具だった。
そして、懐から腕輪を取り出すと、ユシパの手を掴み、掌にそれをのせた。
「それからこれも……」
掌に置かれた麦藁色の腕輪を、ユシパは静かに涙を流しながら見つめた。
「……これは?」
「……それは、サーニャがロウの髪の毛で編んだ腕輪……」
ロトルがそう
あの不思議な光景の中、刺繍の他にもう一つ、サーニャが編んでいるものがあった。
苦しそうに、哀しそうに……けれど、毎日毎日、少しずつそれを編んでいた。
そして、完成すると、サーニャはそれを、そっと、引き出しの中にしまった。
小豆色の帳簿が入った引き出しだ。
なくさないように、けれど、毎日目にすることが出来るように、それを引き出しの中にしまった。
「あたし、あの子に何て言えばいいの……!
あの子の本当のお母さんのこと、何て言えばいいの!?
このままあたしは、サーニャのことを隠し続けるの……?」
悲痛なユシパの表情に、ロトルは眉を下げてうつむいた。
しばし沈黙したあと、ロトルは口を開いた。
「わからない……けど、リリィが知りたいと言った時、ユシパは全てを正直に話せばいいと思う。隠さず、尋ねたリリィを責めず、正直に、本当のことを。
——本当のお母さんのことを……」
ロトルがそう言うと、ユシパは手で顔を覆い、泣き崩れた。
やがて、リリィが笑顔で手を振りながら、こちらに走ってきた。
「ロトルさーん!」
リリィはボロボロと涙を流すユシパを見て、目を見開いた。
「……あれ!?お母さんどうしたの!?」
ユシパは必死に手で涙をぬぐい、大きく深呼吸して息を整えながら、鼻声で答えた。
「ああ……大丈夫、大丈夫よ。
ちょっとサーニャのことを思い出して悲しくなってしまったの」
リリィは心配そうに眉を下げた。
「サーニャさん、お母さんの幼馴染だったんでしょう?悲しいよね……。
私も一回しか会ってないけど、サーニャさんが死んじゃって、凄い悲しいもん……」
「ええ……そう。そうなの。
サーニャは、——あたしの幼馴染だったの……」
最後は声が震えて、うまく言えていなかった。
しきりに涙をこぼすユシパの背を、リリィは心配そうにさすり、慰めた。
小さなリリィの手にさすられながら、ひとしきり涙を流すと、ユシパは涙をぬぐい、天を見つめて大きく息を吐き出した。
そして、背をさするリリィに笑いかけた。
「ふぅ……もう大丈夫。ありがとう、リリィ。
ロトルさんに何か用事があったんでしょう?」
リリィは眉を下げ、小さく頷いた。
「うん……でも……」
縮こまるリリィの頭を、ユシパは優しくなでた。
「お母さんはもう大丈夫だから。
ロトルさんと一緒に行ってらっしゃい」
「……うん、わかった」
しぶしぶ頷くと、リリィはロトルの手を掴み、「ロトルさん、行こ」と言って、手を引いた。
リリィに引っ張られながら、ロトルがユシパに目を向けると、ユシパはいつもの、凛とした笑顔で手を振っていた。
リリィに引かれ、ロトルは黒い大地に足を踏み入れた。
「ロトルさんに見せたいものがあって……」
「見せたいもの?」
「はい……あ、あった!」
立ち止まり、パッとロトルの手を離すと、リリィはしゃがみ込んだ。
じっと地面を見つめると、ロトルに顔を向けて、ニッと笑った。
「ほら、これです」
しゃがんで、リリィが指しているものを見ると、それは小さな緑の芽だった。
焼け焦げた大地に、新たな生命が宿っていた。
ロトルもそれを見て微笑んだ。
「……凄いね」
リリィは大きく頷いた。
さぁっと風が吹き、再びワッとサニアの花びらが舞った。
暖かな陽の光に包まれ、二人は風に乗る白い花びらを、夢心地で見つめた。
やがて、リリィが口を開いた。
「今年も勝ちましたね」
ロトルは首を傾げた。
「……何が?」
尋ねると、リリィは小さくはにかんだ。
「春が冬に、ですよ」
リリィが誇らしげにそう言うと、ロトルは目をぱちぱちと瞬かせたが、やがて、ふっと微笑み、頷いた。
「そうだね」
突然、辺りに、ホロロロロロ……とかすれた音が響いた。
泉に目を向けると、二匹の
やがて、ゆっくりと頭を下ろすと、二匹は白い花びらの中で、愛しそうに互いの鼻をすり合わせ、じゃれつき始めた。
どこかで見たその
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