第45話 春の訪れ
天に欠けた月が
ピラリラと高調子の笛の音が鳴り響き、人々のざわめきと鐘の音が、ひっきりなしに外から聞こえた。
ごった返した人ごみの中で、ゆらゆらと、ぼんぼりの赤黄色い灯が、闇の中で揺れている。
今日は<
あともう少し経てば、
道の両側にはいくつもいくつも屋台が建てられ、皆、今か今かとソワソワしていた。
高い竹馬に乗った曲芸師の芸を眺めながら、アトイの意識は、まったく別の方に向いていた。
あの日、ロトルの肩に触れた時、頭の中に直接入り込んできたあの光景。
( あれは……あの女将の記憶だったのか? )
——アトイはゆっくりと
鮮明な色と明瞭な声を
ありありと目の前に映っているのに、手を伸ばしても、触れることは叶わなかった。
不思議な空間だった。
周りには光の粒が至る所に飛んでいて、それがワッと集まると、場面が変わり、また別の映像が写された。
ひたすら映写され続ける記憶の波を、アトイは呆然と見つめていたが、ふと、隣に人の気配を感じた。
顔を向けるとロトルが立っていた。
紅い瞳を見開き、半ば口をあけながら、ロトルもまた、同じ光景を見ていた。
アトイはロトルに声をかけようと、口を開いた。
しかし、声は出なかった。
幾度も試したが、結局声は出ず、仕方がないため、アトイは顔を戻し、映し出される映像を再び見つめた。
そこで、サーニャは泣いていた。
泣いて、笑って、喜び、哀しみ、苦しみ、憎み、微笑んでいた。
ただ、一人の人間がそこに映っていた。
——アトイは瞼を開いた。
( あれはいったい何だったのだろう )
あの日から、アトイは繰り返し繰り返し思い起こしては、考えていた。
しかし、結局答えは見つからないままだ。
ただ、一つ言えるのは、あの光景は、あの時ロトルに触れたからこそ見えたものだったということだ。
あの後、ネロに尋ねてみたが、
「あたしは見てないよ」
と言って、首を振られてしまった。
あの化物は確実に、サーニャであり、ウェンであった。
そのことが指し示すものを、アトイとネロは、しばし二人の身の内にのみ、留めることに決めた。
「このことを話しちまったら、<
アトイもそれが最善であると思い、ネロの言葉に頷いた。
そして、二人は、サーニャは突然現れたウェンによって殺されたと、そういう話を作り上げた。
今まで街の家々が襲われていたのも、そのウェンの仕業で、そして、もう既に、自分たちがそのウェンを倒したと。
賢く、
全てを話すことが善ではない。
こうして二人は共犯になった。
<
「お前も部外者じゃないからな。……むやみやたらに話すなよ」
ロトルは目をぱちくりさせると、やがて、コクンと頷いた。
ロトルのその様子に、アトイは小さくため息をついた。
サーニャが亡くなったことで、二人は宿場を失い、新しい宿場へと移った。
アトイが今いるこの場所こそが、その新しい宿場だ。
窓枠に肘をのせて、アトイが物思いにふけっていると、ガタリと音がして部屋の扉が開いた。
振り向くと、「リリィと一緒にお祭り、遊んでくる」と言って、出ていったはずのロトルが帰ってきていた。
「どうした?」
アトイが尋ねても、ロトルは答えず、無言で
そして、長靴を脱ぎ終えると、硬い顔をして部屋に上がり、壁に掛けてあるアトイの外套をサッと取ると、それを抱えてズンズンとアトイの方へと歩いてきた。
目の前で立ち止まると、キュッと口を結び、アトイを見下ろした。
「なんだよ……?」
アトイが眉をひそめて尋ねると、突然、ガッとロトルに手首を掴まれた。
「行こ」
ロトルは口の端をあげて、短くそう言うと、凄まじい力で手首を引き込み、アトイを立ちあがらせた。
そして、手首をつかんだまま、アトイを引っ張り、部屋の扉へと向かっていく。
「お、おい!」
アトイは足をもつれさせながら、ロトルに引きずられていた。
もがいても、凄まじい力でつかんでいるロトルの手を、振り払うことはできなかった。
「行くってどこに!?」
アトイが尋ねてもロトルは無言を貫き、
そのまま扉を開けて、部屋を出ようとしたのを、アトイは必死に何とか止めた。
「おい!裸足の俺を連れ出す気か!?」
ロトルはピタリと立ち止まり、アトイの足元を見つめた。
「……せめて靴くらい履かせろ」
諦めて、アトイが低い声でそう言うと、ロトルは頷いた。
腰を下ろし
( 何なんだいったい…… )
居心地の悪さに眉をしかめ、長靴を履き終えると、ロトルに外套を渡された。
それをバサリと着て、しっかり頭を頭巾で隠すと、再びロトルに手首をつかまれ、アトイは部屋を出た。
ロトルに引っ張られ、宿をでて、人ごみの中へと入っていく。
人いきれと人々のざわめきが、アトイをムッと押し包んだ。
ぼんやりと浮かんだ、ぼんぼりの明かりが、闇の中を泳ぎ、過ぎ去る二人を見守る。
雑踏の中、アトイの目には、己を引っ張るロトルの姿だけがうっすらと浮かび上がり、形を保っていた。
微かに漏れたロトルの息遣いが、耳の底に響く。
自分より背の低い、ロトルの後姿を茫洋と眺めながら、アトイは思った。
(……ずいぶんと、人ごみの中を歩くのがうまくなったな )
不思議と、そんなことを思った。
やがて、二人は長蛇に並んだ提灯行列の中に
ロトルはそこで立ち止まると、アトイの手首をつかんだまま、静かに出発の時間を待った。
掴まれた手首がひどく熱い。
しばし、そうして二人とも口を閉じていると、雑音の中で、聞き覚えのある声が聞こえた。
気のせいか、とも思ったが、その声はだんだんと近くなり、はっきりと聞こえるようになった。
「……アトイ!ロトル!」
パッと顔を向けると、少し距離のある場所で、ネロが大きく手を振っていた。
人を掻き分けて、二人の元へとやってくる。
手には、白い花をいっぱいにつけた、サニアの枝を持っていた。
二人のもとにたどり着くと、ネロは額にうっすらとかいた汗を、首にかけた手ぬぐいで
「ああ、やっとたどり着いた!相変わらず、凄い人だな」
パタパタと手で仰ぎ、そう呟いたネロを、ロトルが呆けたように見つめていた。
ネロはそんなロトルの視線に気が付くと、ニッと笑った。
「言ったろ、『必ず見つける』って」
ネロがそう言うと、目をぱちくりと瞬いた後、ロトルは満面の笑みを浮かべた。
「ほら」
ネロは、アトイとロトルに持っていたサニアの枝を渡すと、歯を見せて笑い、片目をつぶった。
「<
やがて太鼓の音が鳴り響くと、ワッと歓声が湧きおこり、行列が動き始めた。
先頭から、調子のついた歌声が聞こえ、皆、一斉にサニアの枝を手に持って踊り始める。
ゆらゆらと、赤い提灯の灯が、群れになって闇の中を泳ぎ、光の河が広く長くワッカの街に
その上を、仄白いサニアの花が、蛍のように飛びまわり、その光景はなんとも幻想的だった。
「夢のようだな……」
「夢みたいだね……」
二人は同時にそうつぶやくと、顔を見合わせて目を見開き、そして、力が抜けたように、ふっと笑った。
初めて参加した<
二人は光の河の一部となって、緩やかに夜の街を流れ、春の神の通り道を作っていった。
道の両脇で、願いの書かれたぼんぼりが、流れゆく河を優しく見守る。
皆、笑い、踊り、春の訪れを祝福し、そして、光の河は、夜明けまで消えることはなかった。
白い光に照らされた帰り道、アトイの目には二つのぼんぼりが浮かんでいた。
行列の中で目にした、闇に浮かぶそのぼんぼりには、同じ願いが書かれていた。
アトイは口の端をあげ、思わず、書かれていたその言葉をつぶやいた。
「『リリィが、どうか、幸せでありますように』か……」
前を歩くロトルが立ち止まり、振り向いた。
「何か言った?」
首をかしげるロトルに、アトイは首を振った。
「いや、何でもない」
「……そう?」
二人は再び歩き出した。
アトイは大きく息を吸い、胸をつんと突く、言いようのない息苦しさを堪えた。
しかし、その息苦しさは、決して、悪いものではなかった。
アトイは
( あの光景は、女将の『思い』そのものだったのかもしれない……)
そう。
きっと、そうなのだろう。
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