第48話 ネロの記憶

 活気が戻りつつある商店街の賑わいを耳にして、ネロは微笑を浮かべた。


( ……この日はいつも、少し寂しくなるよ。特に、今日は余計に……)


 それは、見送る人が、もう一人増えたからかもしれない。


 見上げるほど大きな街門に、腕を組んで寄りかかりながら、ネロは過去の記憶を瞼の裏に浮かべた。






 しんと冷たい夜気が街を覆っていた夜、突然、こんこんと家の扉が叩かれた。


 珍しく夜更けまで本を広げていたネロは、その音にパッと顔をあげ、ぱたりと本を閉じた。


 この頃、ネロは14歳。

 ようやく、世の中というものがわかり始めたころだった。


 椅子から腰をあげ、そっとグレゴの部屋を覗くと、グレゴはゴーゴーといびきをかき、深い眠りの中に落ちていた。


 静かに部屋の扉を閉め、玄関にでて扉を開けると、アトイが立っていた。


 伸びた月影が、部屋の中へと入っていく。


 かすみのように闇に浮かび上がったアトイを見て、ネロは思わず息をのんだ。


 最後にワッカで見た時とは、ずいぶんと面変わりしてしまっていて、別人のようだった。


 ひどくやつれた様子で殺気立ち、目を伏せている。


 ネロはしまった喉を無理やりこじ開け、ささやくように尋ねた。


「アトイ……こんな夜更けにどうしたんだ?一人か?ユクは……?」


 アトイは何も答えない。

 人形のように無表情だった。


 ひたすら足元を見つめていたが、やがて、アトイはゆっくりと口を開いた。


「……グレゴを……グレゴを呼んできてくれないか?」


 魂がぬけてしまったように、淡々とつぶやいたアトイに、ネロは気をのまれてしまって、聞きたいことは山ほどあったが、小さく頷くことしかできなかった。


 駆け足でグレゴが眠る部屋の中に入ると、ネロはのんきに鼾をかいているグレゴをゆすって起こした。


「グレゴ!グレゴ!」


 無理やり夢の中からたたき起こされたせいで、グレゴは不機嫌そうに低くうなると、やがて、ゆっくりと瞼を開けた。


「んん……なんだぁ?」

「グレゴ!アトイが呼んでる!」

「……アトイ?」


 目をこすりながら、グレゴはその巨漢をのっそりと布団から起こした。


 ふわぁ……と、なんでも飲み込んでしまいそうな大きな口を開けると、膝をつくネロを見下ろし、眠気眼ねむけまなこで尋ねた。


「アトイが来ているのか?」

「うん……グレゴを呼んできてくれって」

「俺を?」

「うん」


 グレゴは首を傾げ、「わかった」と頷くと、のっそりと立ち上がった。


 ずしんずしんと床を鳴らし、廊下に出ると、闇に揺蕩たゆたうアトイの姿を見て、グレゴはピタリと立ち止まった。


 カッと目を見開き、完全に夢から覚めきった様子でアトイを見つめている。


 グレゴは低く唸ると、ネロを見下ろし、優しく言った。


「お前は自分の部屋に入っていなさい」


 ネロはグレゴを見上げた。


「え、でも……」

「アトイはどうやら、俺にとても大事な話をしたいみたいだ……わかるね?」

「……わかった」


 唇を尖らせてしぶしぶ頷くと、グレゴは「いい子だ」と微笑んで、ネロの頭をポンポンと撫でた。


 二人は扉の前で、ぼそぼそとしばらく何かを話すと、やがて、グレゴの部屋に静かに入っていった。


 ネロはグレゴに従い、自分の部屋で二人が話を終えるのを、大人しくじっと待っていたが、どうしても話が気になってしまい、そっと部屋を抜け出し、グレゴの部屋の扉にぺったりと耳をつけ、側耳そばみみをたてた。


 中から二人の低声が聞こえてきたが、その声はくぐもっていて、何を話しているのかはわからない。


 どうにか聞こえないかと、しばらく耳をつけていたが、やがて、椅子が床をする音が聞こえたため、ネロは慌てて自分の部屋に戻り、床に投げていた本を手に取って広げた。


 こんこんと扉を叩く音が聞こえ、ネロはふぅと息を吐くと、さもずっと部屋で二人を待っていたかのような、退屈そうな表情を作り、扉を開けた。


 ——しかし、扉の前に立っていたグレゴの顔を見て、せっかく作ったはずの表情は、どこかに飛んで行ってしまった。


 アトイの姿が感染したように、グレゴもまた悲愴な表情を浮かべ、ひどくやつれていた。


「……グレゴ?」


 尋ねると、グレゴはハッとしたように顔を戻し、ネロに言った。


「……アトイがもう帰るから、見送りにいこう」


 ネロは首をかしげたが、小さく頷いた。


 アトイは玄関で腰を下ろし、長靴ちょうかを履いていた。

 立ち上がり、トントンとつま先を打ち鳴らすと、振り返り、アトイは目を伏せた。


「……グレゴ、色々すまない」


 グレゴは優しく微笑みを浮かべると、アトイの頭を撫でた。


「お前は俺の息子同然だ……困ったことがあったらいつでも頼ってきなさい」


 グレゴがそう言うと、アトイは小さく頷いた。


 しばらくアトイの頭を撫でていたが、膝を折り、アトイと目線を合わせると、まっすぐ見つめながら、グレゴは静かに言った。


「いいか、アトイ。負けるんじゃないぞ。負けるな。

 世界がお前を孤独にしようとしても、決して負けるな。

 自分を責めるんじゃないぞ。しぶとく生きろ。

 生きて、生きて、生きて……生き抜いた先に何かがある。

 お前ならそれを掴むことが出来るはずだ。……いいな?」


 グレゴがそう言い聞かせると、アトイは再び小さく頷いた。


「いい子だ」とグレゴが微笑み、頭をポンポンと撫でると、アトイは唇を強く結び、拳を握りしめた。


 しばらくそうしてうつむいていたが、やがて、

「それじゃあ……」

 と顔をあげて、軽く会釈すると、アトイは闇の街に溶けていった。


 消えていくアトイの背を二人で見送っていると、隣でグレゴが悲しそうにつぶやいた。


「……幸福ってもんは、こんなにもろいものだったのか?」


 ネロが見上げると、グレゴは眉を下げ、ネロの頭に大きな手を置いた。


「アトイは何の用事だったの?」


 ネロが尋ねると、グレゴはしばし考え、答えた。


「……アトイは<ホロケウ>になるんだそうだ」

「<ホロケウ>?」


 グレゴは頷いた。


「ああ、それで、俺にいろいろ聞きに来たらしい」


 ネロは首を傾げた。


「どうして突然、<ホロケウ>に……?」


 ネロが尋ねると、グレゴは少し困った顔をしたが、

「……お前ももう、いい歳だもんな」

 とつぶやき、ネロに言った。


「……あのな、ユクが死んだらしいんだ」


 ガツンと頭を殴られたように、ネロは目を見開いた。


「俺の家に住まないかと誘ったが、断られちまったよ……一人で旅をしながら生きていくんだそうだ」


 ユクが死んだという衝撃で、耳に膜が張ったように、なかなかグレゴの声が入ってこなかった。


 「……どうして死んじゃったの?」

 

 震える声で絞り出すように尋ねると、グレゴは小さく首を振った。

 

「わからない……アトイは答えてくれなかった」


 グレゴは目を伏せ、黙り込んだ。

 

 やがて、膝を折り、小さなネロに目線を合わせると、グレゴはネロの肩をしっかりとつかみ、そして言った。

 

「ネロ……頼む。アトイを一人にしないでやってくれ」


 懇願こんがんするような声だった。

 

 その様子にたじろいてしまったが、ネロがしっかりと頷くと、グレゴは優しく微笑み、頭を撫でた。


 ワシワシと髪を乱す丸太のような太い指から、グレゴの温かな体温が伝わり、よくわからない物哀ものがなしさが、胸の底から湧き出し、ネロはギュッと拳を握った。





( ……グレゴと約束したのに、結局あたしはアトイを一人にしちまってる )


 グレゴは息を引き取るその間際まで、アトイのことを気にしていた。


 地面を見つめ、物思いにふけっていると、視界に足先が見えた。


 顔をあげると、まさに待ち人が立ってた。

 

 ネロはニッと笑い、腕をほどき、街門から背を離した。


 「待ってたよ、——アトイ、ロトル」

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