第6話 常識と知恵

 宿場の中はうっすらと暗く、行灯あんどんの優しい明かりが、ぼんやりとつつましく揺れていた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 少しかすれた、ささやくような声が、勘定台の奥の暖簾のれんの向こうから聞こえた。

 

 扉の音を聞きつけたのか、宿場の女将が暖簾をかき分け、顔をのぞかせる。

 まだ30代ほどの、宿場をもつ女将としては若い顔立ちをしており、物静かな雰囲気を身にまとっていた。

 

 女将が勘定台に立つと、アトイはさっそく宿泊の手続きを始めた。

 

 とりあえず7泊分、部屋を借りたいが、長期で滞在する可能性がある旨を女将に伝えた。

 女将は笑顔で大丈夫だと頷いたので、アトイは背負っていた袋の中から小袋を取り出し、その中から7泊分の部屋代を女将に払った。

 

 代金を受け取った女将は背後の棚に収められた、正方形の小さな引き出しの金具を引くと、鍵を取り出し、


「お部屋までご案内しますね」

 

 といって勘定台から出てきた。

 

 先に階段を上がっていく女将の後を二人で後ろからついていく。

 年季が入っているのか、階段は踏みつけるとギシギシと軋んだ音を鳴らした。

 

 二階は思っていたよりも奥行きがあったが、部屋数は少なかった。

 あまり客をとらず、こじんまりとやっている宿場なのだろう。

 

 女将は突き当りまで歩いていくと、かど部屋の前で立ち止まった。

 

「お二人の部屋はこちらになります」

 

 アトイは軽く会釈し、女将から鍵を受け取った。

 

 女将は微笑んで深くお辞儀をすると、階段を降り、1階へと戻っていった。

 

 部屋は窓から薄く差し込む西日で、飴色に染まっており、余計な家具はなく簡素ではあったが掃除が隅々まで行き届いていた。


 部屋の床には畳がひかれており、独特の安らぐような香りが部屋の中に立ち込めていた。


 土で汚れた長靴ちょうかを脱ぎ、部屋の中へと上がる。

 

 机の上には一枚の紙がおかれており、『ごゆっくりおくつろぎください』と女将の手書きらしい言伝ことづてが、丁寧な細い字で書かれていた。


 アトイは荷物をドサッと無造作に置くと、壁に寄りかかり深く息をはいた。

 

 女もアトイと同じように大きさの合わない長靴を脱ぐと、裸足で部屋の床を踏みしめた。

 

 一瞬女に驚愕の色が走り、女は目を見開いて、自分の足元を見下ろした。

 そして、足に伝った新しい感覚を確かめるように、何度もその場で足踏みしはじめた。


 じゅうぶん楽しんだのか、足を止め、ようやく部屋の奥まで入ってくると、腰に差していた刀をおろし、アトイと少し距離をとった場所で、向き合うように腰を下ろした。

 膝を抱え小さく座る。

 刀は抱き込むように脇の間に挟んでいた。

 

 飴色の光に透け、女の白い髪がだいだい色に色づいている。

 

 今は粗朶そだがはじける音もなく、部屋は森閑しんかんとしていた。

 

 やがて、女が吐息を漏らすように呟いた。

 

「あの……さっきあの人に渡していたものって……?」

 

 女の言葉に、アトイは女将とのやり取りを思い起こした。

 女将に渡したものと言えば宿の代金くらいだ。


 「あれは金だが……」


 女は首を傾げた。

 

「金……?」

 

 アトイは愕然とした。あまりにも予想外の質問だったからだ。


( おいおいまさか……金まで知らないとは言いださないよな )

 

 いや、<エピカ>を知らないといったくらいだ。金銭を知らないと言いだしても不思議ではないのだろう。

 

 深くため息をつくと、女の体が怯えたように小さく跳ねた。


「……金は取引をするのに必要なものだ」


 顔をしかめながらもアトイは目の前の女に説明し始めた。


「……例えば、お前は今日、街中で野菜を押し付けられていたが、お前がそれを手に入れたいと思っても相手はそれをなんの利益もなくお前に渡すわけがない。

 そこでお前は、相手がその野菜の価値として設定した金……これを『金額』というが、その金額分の金を相手に払うことによってその野菜を手に入れることが出来る。

 相手はその金を受け取り、その金を使って別のほしいものをお前がしたのと同じようにして手に入れることが出来る。

 その金を渡す行為を『買う』といい、金額を設定してものを渡すことを『売る』という。

 そういった『売り買い』の流れの媒介物として『金』が流れている」

 

 ふんふんと頷きながら、女は真剣にアトイの話を聞いていた。

 

 アトイは背負っていた袋の中からわざわざ金の入った小さな袋を取り出すと、ジャラっと畳の上に通貨を広げた。

 錆びた金属の匂いが漂う。

 

 硬貨のつるつるとした表面を一枚一枚確かめるように撫でる。

 長いこと外にいたせいで、硬貨はひんやりと冷たくなっていた。

 

 日の光に照らされ、散らばった硬貨は鈍く光を反射させている。


 ——いつだったかこんな光景を見たことがあった。

 

 どうしようもない懐かしさが、アトイの胸の中で、絵の具が滲むように広がっていった。

 


 かつてアトイも幼いときに、こうして金を広げて見せられたことがあった。

 人の中で生きていくための常識と知恵を教えてもらったことがあった。



( こいつの言葉に振り回されて、俺は何をやっているんだろうな…… )


 言い表すことのできない切なさに胸が締め付けられ、じっと目の前に広げたものをひたすら見つめた。

 

 自分は過去を懐かしむようなたちではないが、ここ最近は、やたらと過去の情景が目の裏に浮かぶようになっていた。

 この女と出会ってからだ。

 

 掌で硬貨をもてあそんでいると、いつの間にか傍に来ていた女が、その様子をジッと見つめていた。


「これが『金』だ」


 アトイは硬貨を掌で転がしてみせた。


「それぞれ色や形が違うのは価値が異なるからだ。金額に合わせてそれぞれ金を払い、金額分丁度なかったときは、余分に払って相手から超えた金額分の金を返してもらう。金額は数で記されていて……お前、『数』はわかるのか?」

 

 女は無言で頷いた。

 

 文字も読めたようだったので、読み書きに関してはいないようだ。


 そう考えている自分にハッとし、アトイは首を振った。

 頭の中に浮かんだ、忘れる、という言葉を必死に追い出すと、再び目線を床に広がる硬貨へ戻した。


「……金にはそれぞれの価値に合わせて異なる数字が設定されている。数が大きくなるほど価値が高くなる」


 アトイは広げた硬貨に覆いかぶさるようにして、一枚一枚指していっては、その価値を数で女に教えていった。

 

 数を唱えながら、ちらりと目線だけ上げると、女はアトイと同じように背中を丸め、頭が付きそうなほど近くで、真剣にアトイが指した先をにらんでいた。

 

 宿についた時よりも空は一層群青色に染まり、窓の外から強烈に差し込んでいた光も、いつの間にか影を落としていた。


 部屋の壁には腕をついてかがみこむの二人の影が、消えそうなほど薄く長く伸びている。

 その影は頭が重なり合い、一つの生き物のように揺れていた。

 

 アトイはぼんやりとその揺れる生き物を眺めた。



 手で埋めたはずの芽がもう一度顔を出し始めていた。

 


 再び目線を手元に戻すと、かつて自分もそうしてもらったように、人の世で生きていくために必要なことを、1つ1つ女に伝えていった。

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