第7話 ロトルになった日

 話がひと段落つくと、いつの間にか窓の外は静寂せいじゃくが包み込んでいた。にぎわっていた街も今は嘘のように静かに息をひそめている。

 

 女は計算もでき、飲み込みは早かった。

 

 あとは自分を見てやり取りを覚えろと女に言うと、立ち上がり、部屋の行燈あんどんに灯りをともした。

 鈍い行燈の灯りが、ぼんやりと丸く部屋を包み込む。

 

 そのまま無造作においた袋の中から紙袋をとりだした。

 宿へ向かう途中、街の露店で夕餉ゆうげにと買っておいたのだ。

 

 <アーイ>を出来る限り弱く調節し、掌の上で、二人分のチパタ(豚のひき肉を炒めたものを、米粉の生地で包んで蒸したもの)を温める。


 手で持っていられないくらい熱くなったところで、一つを女に手渡した。

 

 女は両手でチパタを受け取ると、目を丸めて興味深そうに見つめた。


「チパタだ」

 

 そう言うと、アトイは自分の分にかぶり付いた。


 外側の白い生地はもっちりとしており、中心に向かうほど肉汁がしみ込んでいた。中のひき肉はほろほろと口の中で崩れ、その粒をかみしめると肉汁が口の中ではじける。

 

 久しぶりに、こうして手の込んだ食べ物を口にしたので、アトイは思わず顔をほころばせた。

 

 目を輝かせて、女も顔の半分ほどもあるチパタに、小さな口で齧り付いていた。

 口を上下に動かすたびにひどく幸せそうな顔をしている。

 

 食べ終えると、アトイは包み紙を丸め、部屋の屑籠くずかごに投げいれた。


 そして袋の中から着替えの服を取り出し、部屋に備え付きの風呂場へと向かった。


 風呂場の戸を開け外套がいとうを脱ごうとしたころで、ふと手を止めた。


「お前……風呂はわかるか?」


 女はキョトンとした顔で首を傾けるので、アトイは思わず顔をおおった。

 尋ねれば、この女は知らないと答えるに決まっているのだ。

 

 自ら余計な仕事を増やしてしまったことに後悔し、ため息をついた。

 この女と行動を共にしてから、一体どれだけのため息をついたのだろうか。

 

 しかし、女が裸になってから尋ねられるのは困る。


「……こっちにこい」


 女は首を傾げつつもうなずき、小走りでアトイのもとへときた。


 アトイはついさっきそうしたように風呂の使い方、石鹸についてなど一つ一つ指しながら説明していった。

 

 説明し終わると、実際に使い方を見せてくれと女が言い出したので、アトイは何度目かのため息をつき、


「これは一人でやって覚えろ!」


 と怒鳴りつけ、風呂場から女を追い出した。



 部屋の窓を開け、腰に小刀をさしたまま<レミラ>を使って湿った髪を乾かしていると、何とか湯浴みを終えた女がアトイの服を着て出てきた。

 女の服があまりにも痛んでいたため、かなり大きくはあるが、自分の服を渡し、湯浴みを終えたら服を着て出てくるよう女に指示したのだ。

 

 一応手ぬぐいで拭いたのではあろうが、長い女の白髪からポタポタと水滴が落ち、畳に染みを作っていた。


「……畳が腐る。こっちに来て座れ」


 首をかしげながら、女はコクンと頷くと、パタパタとアトイの傍により、むかい会うように座った。


 突然正面に女の顔が来て、アトイは少し面食らう。


 逆を向け、と女に指示すると、女は言われた通り、アトイに背を向けるように座りなおした。


 再び<レミラ>で窓から風を部屋に送り込んだ。夜の静けさが混ざった冷たい風が吹き込んでくる。


 女はいきなり吹き込んだ風に、「わっ!」と短く声を上げて驚いていたが、髪をなびかせる風が心地よいのか、次第に手を腰の後ろにつき、足を延ばしてくつろぎ始めた。


「気持ちぃ……」


 息を漏らす女の白髪を、すくうようにして乾かしていく。

 

 湿って束になっていた髪は、風を受けると絹のようにほどけ、するすると指の間から落ちていった。

 

 月明かりが窓から線を描いて差し込み、外を歩く人のささやく声が聞こえる。


 行燈の灯りは吹き込む風にゆらゆらと揺らめき、壁にうつるぼんやりとした二つの影を揺らした。


( 本当に何をしているんだか )

 

 思えば、誰かの髪にこうして触れたのは初めてかもしれない。

 

 人から生えているものなのに、髪が熱をもたないことを、こうして初めて知ったような気がする。


 柔らかそうに見えた髪の一本一本は、思っていたよりも芯があり、しっかりとした線を描いていた。


「お前、名は……」


 何でもいいから別のことに意識を向けたかった。

 しかし、選ぶ言葉を間違えた。

 

 アトイはスっと氷がつたったように、心ノ臓が冷たくなった。


「……ああ、、んだっけか」

 

 投げやりにアトイがつぶやくと、女は小さく頷いた。

 

 急に手の中の髪が、どうでもいいもののように思えて仕方なくなった。

 もしも許されるならば、この手でめちゃくちゃにしてしまいたい。

 

 しかし、女は何を思ったのか、


「あの……」


 とつぶやくと、体をぐるりと回転させ、アトイと向き合うように座りなおした。

 

 女の突然の行動に驚き、アトイはつい手を引っ込めた。

 

 なびいていた髪が勢いをなくし、ぱらぱらと女の肩に落ちていく。

 

 女は唇をぎゅっと結ぶと、挑むようにアトイをみつめた。


「あの、名前……つけてほしい」


 アトイが何も答えないでいると、女は首を傾げ、聞こえていなかったのかと思ったのか、


「私に名前を……」

 

 と再び言い始めたので、アトイはその言葉を、


「聞こえている」


 と遮った。

 

 アトイの言葉に女は再びぎゅっと唇を強くむすんだが、それでも視線はそらさなかった。

 

 不思議と自分の手に力がこもるのを感じた。爪が掌にくいこむ。


「……向こうをむけ」

 

 女が眉を下げる。


「え、でも……」


「いいからむけ」


 低くかすれたアトイの声に、女は渋々頷き、再び体を回転させた。

 

 アトイは再び風を送り込んだ。

 

 女の髪はもうほとんど乾いていた。

 それでも、手元の髪を、アトイは躍起やっきになって乾かした。

 

 真っ白い髪が行燈の灯に透けて赤色に色づいている。

 出会った時も、焚火の光をこうして反射させていた。


 ぼんやりと、アトイは親指で掌の髪をなでた。


( ……俺がこいつに名を付けるのか )

 

 名は『はじまり』だ。

 

 名を呼びあう、ということは、できる限り人と関りを持たぬようにしてきたアトイにとって、それなりに覚悟のいることだった。

 

 そして、さらに、この女はその『はじまり』を自ら作れとアトイに言っているのだ。

 とんでもないことだ。


 しかし、アトイは自然と頭の隅で女の名を考え始めていた。

 

 そんな自分にもう一人の自分が驚きつつも、特に何か口を出すこともなく、じっとその姿を見つめていた。

 

 やがて、アトイは低く穏やかにつぶやいた。


「……ロトル」


 1拍子遅れて、女はゆっくりと首を横にひねった。


「……え?」


「名がないと、俺もお前を呼ぶのに困るかもしれない」

 

 何に言い訳しているのかは分からないが、そういうと、アトイは女の髪から手を放し、ゆっくりと立ち上がった。

 

 ふすまをあけ、押し入れの中から布団を二組引きずり下ろす。

 ボフンと、木香のこもった風が舞い、アトイの前髪を揺らした。

 

 一組を壁際に寄せ、敷布しきぬののしわを手で伸ばす。

 木綿のなめらかな生地が手の甲を撫で心地がよかった。

 

 そうして布団を敷き終わり、腰をおとすと、女は零れ落ちそうなその大きな瞳でぼうっとアトイを見つめていた。


「……お前も敷け」


 それだけいうと、アトイは掛布団をかぶり、女に背を向けて寝っ転がり瞼を閉じた。

 

 布団で寝るのは久しぶりだった。今夜からはいつもより、体を休めることが出来る。


 しばらくすると、畳をする音が聞こえた。女が見様見真似で布団を敷き始めたのだろう。

 

 やがて、部屋に沈黙が降りた。


 ぼんやりと目を開くと、アトイは身体をぐるりと回転させた。


 仰向きになり、まるで、母に見守られ眠りについた赤子のように、穏やかな表情で瞳を閉じた女を見つめた。


 グッと身体を持ち上げ起こすと、手を伸ばし行燈に触れた。

 揺らめいていた灯はアトイの手によって、蛍の瞬きが消えていくように勢いをなくした。

 

 再び布団にもぐり、アトイはぼんやりと暗闇に白く浮かび上がる壁を、じっと見つめた。


 壁には自分の外套がかかっていた。<ホロケウ>の象徴である狼が、その背にしるされている。



 そして、あることにようやく気が付き、アトイは目をいた。



 些細ささいなことだった。

 しかし、アトイにとっては信じられぬことだった。

 

 震えそうな手をゆっくりと持ち上げると、自分の頭をゆっくりと撫でた。

 

 壁には外套がかかっている。

 

 洗いたての柔らかな髪が掌をくすぐった。


 アトイはそのまま手を下ろし、顔を覆った。


( なぜ……! )


 なぜ、今頃気が付いたのだろうか。

 

 誰かの前でこの忌まわしい髪色をさらしたことなどなかった。

 何よりも気を付けていたことだった。

 

 なぜ自分はこのことに、今の今まで気が付かなかったのか。

 ——それは、女が白眼で己の髪を見つめるようなことをしなかったからだ。

 

 しばらく、呆然と顔を覆っていると、やがて、隣からささやいたような声が小さく聞こえた。


「ロトル……」

 

 ハッとしてアトイは手を顔から離した。

 

 そして、雀が飛び跳ねるように、何度も何度もその名はつぶやかれた。

 

 そのこもり声には、噛み締めるような歓喜の色が込められていた。

 

 アトイは掛布団の端を掴むと、それを頭の上まで引き上げた。

 

 しかしこの夜、外套はもう、着ることはなかった。

 

 安寧あんねいにつつまれた暗闇の中、アトイは再び瞼を閉じ、解放され自由になった柔らかな髪を布団に擦り付けた。




 みようみまねで何とか敷けた布団の中は、存外柔らかく、暖かかった。

 土の上で寝ることしか知らなかった己の体が、その柔らかさに陶酔とうすいしていることがわかる。

 

 掛布団を首の下まで引き上げ、女は天井を見つめた。

 

 そこには月も星もなく、碁盤ごばんの目に組まれた吊り木が、闇の中にぼんやりと浮かんでいた。

 

 呆けていた頭が、まるで雲が晴れたように色を取り戻していく。

 そして胸の中から、とてつもない喜びがじわじわと湧き上がってきた。


( ロトル…… )

 

 アトイが付けてくれた自分の名を心の中でつぶやくと、体が震え、顔が上気した。


「ロトル……」

 

 今度は声にだしてつぶやいた。

 

 その名はより一層確かなものになった。


 そして、布団の中にもぐりこむと、女は何度も何度もその名をつぶやいた。

 

 つぶやくたびに、陽炎のようにあいまいだった自分の存在が、少しずつ線を成し、形づくられていくような気がした。


 熱いものがこみ上げ、胸がつまり、体がふるえる。喉がしめられたように苦しかった。


 それでも何度も何度も、己を確かなものにするように、女は名をつぶやき続けた。


 このままだと咽び泣いてしまいそうで、ギュッと体を小さく抱いた。

 

 またいつか記憶をなくしてしまうことがあっても、この出来事だけは輝きを残す星のように、きっと抜け落ちることはないだろう。

 

 根拠はないがそう確信していた。


 ( ロトル…… )

 

 もう一度だけ心の中でつぶやくと、息を大きくはいた。

 

 そうすると、高ぶっていた気持ちも、池のように落ち着きを取り戻していった。

 

 手や足を投げだし、羊水にくるまれるように身を丸くしたまま、女は深い眠りの中へと沈んでいった。




 こうしてこの日、女はロトルとなった。



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