第54話 薬
朝日が
高くなってきた気温に、肌がうっすらと汗をかいている。
むくりと起き上がり、アトイは渓流のそばに寄ると、光をはじく透明な水を手ですくい、そのまま顔を洗った。
冷たい水で顔が引き締まると、立ち上がり、未だに寝息を立てている二人の顔を見下ろした。
( 面倒臭いことになった )
ロトルは小さく丸まり、静かな呼吸を繰り返し、タジカはゴウゴウと喉を震わせ、大きく
こんなはずではなかった。
予定通りにいけば、今頃、自分はトロイかザガンの近くで野宿をしていたはずだ。
それが今は、どちらの道からも外れた、こんな渓流の側にいる。
( それもこれも…… )
心の中で舌打ちをすると、アトイはロトルの寝顔を見下ろした。
アトイの心中とは対照に、ふっくらと白い頬を無防備にさらし、ロトルは安らかな表情を浮かべている。
その表情を見つめながら、アトイはワッカでの出来事を思い返した。
ウェンを切り裂く白刃。
異常なまでの身体能力。
治癒力の高さ。
そして、肩に触れた時に流れ込んできたあの光景——。
胸の中を暴れまわる濁流に、アトイは拳をにぎり、唇を噛んだ。
( やはりこの女は、何もかもがおかしい )
「おじさん、何塗ってるの?」
ロトルはタジカの手元をのぞき込み、尋ねた。
「ん?ああ、薬だよ」
タジカは大きな葉の表面に、小さな壺から脂のようなものを指ですくって塗っていた。
「一晩中、川に足をつけて、流水で冷やしてやったから、腫れもだいぶ引いたけどな」
ペタペタと葉の表面に脂を塗布すると、タジカはそれを右足の患部に張り付けた。
「
そう呟くと、タジカは右足を伸ばしたまま上半身を捻り、薬の入った壺を、背負い箱の引き出しの中にしまった。
ロトルはその様子を眺め、つぶやいた。
「なんか、不思議な箱だね」
タジカの背負い箱は、金具が取り付けられた前板を開くと、中にぎっしりと、小さな引き出しが収まっていた。
タジカは背負い箱の頭を、ぽんぽんと叩くと、微笑んだ。
「この中に、ぎっしりと薬がつまってるのよ」
「薬?」
「おう、俺ぁ薬師だからな」
タジカがアトイを見つめて、そう言うと、アトイは目線を逸らした。
アトイのその様子に、可笑しそうに笑うと、タジカはロトルに尋ねた。
「中身、見るか?」
ロトルは目を輝かせた。
「いいの?」
「おう」
タジカは頷くと、どうぞ、というように、背負い箱の前板をロトルに向かって開いた。
ロトルが恐る恐る、一番下の大きな引き出しを引き出すと、中から船上のすり鉢と、取っ手のついた車輪のような金具が出てきた。
不思議そうにそれを見つめるロトルに、タジカは言った。
「それは
「ヤゲン?」
「そう。嬢ちゃん、一番上の段の左から二番目の引き出しを引いてみな」
言われた通り、ロトルが引き出しを引くと、底に敷かれた紙の上に、木の欠片のようなものが沢山のっていた。
「薬研と、そいつを紙ごと俺に渡してくれ」
タジカは掌に乗った紙の両端を、さっと片手でつまみ持ち上げると、サラサラと中身をすり鉢の上へと落とした。
そして、取っ手のついた車輪を取ると、それをすり鉢の上に置き、体重を乗せて、両手でゴリゴリと車輪をひき始めた。
「こいつはな、チチョウ(テンダイウヤク)っていう植物の根を乾燥させて、刻んだもんだ。身体の痛みを抑えてくれたり、気の流れを良くしてくれる。でも、こんな塊、
いつの間にか、アトイはタジカの直ぐ側に座り、薬を作るタジカの手元をじっと見つめていた。
「でも、薬ってのは奥が深くてな。こうやって引いたら、はい、おしまい、というわけにゃいかないんだ。どこら辺が痛い、とか、咳が出る、
例えば、身体がしびれたり、四肢が痛かったりして、そんで、体力がそこそこある奴には、このチチョウの他に、あと9種類の薬を混ぜてやんなきゃいけねぇ」
「そんなに……」
ロトルが言葉をこぼすと、タジカはニッと笑った。
「薬が面白いのはそこだけじゃねぇ。毒草が薬になるっていうのも、よくあることなのよ」
タジカはアトイの方を見た。
「アトイ、上から三段目の左から二番目の引き出しを引いてみな」
アトイはじっとタジカを見つめ返すと、やがて、ゆっくりと立ち上がり、背負い箱の引き出しを引いた。
中には、からからに乾ききった、鳥の爪のようなものが入っていた。
「そいつ、何だと思う?」
「……何かの根か?」
「その通り。それじゃあ、何の根だと思う?」
アトイはじっと引き出しの中身を見つめたが、やがて、首を振った。
「いや、わからない」
タジカは微笑むと、言った。
「そいつはキト(トリカブト)の根さ」
「キト!?」
アトイが目を見開くと、タジカは可笑しそうに笑った。
「もちろん、何もしなければ、キトの根は猛毒さ。でもな、そいつを塩につけた後、圧力をかけて蒸気で加熱してやると、毒がある程度抜けて、関節痛なんかに効く薬になるんだ。
……あ、でも素人は絶対に手を出すなよ!この加熱する時間を見誤ったり、摂取量を間違えると、普通に毒として働くからな!」
ロトルは息を漏らした。
「すごいね。タジカは凄い物知りだ」
タジカは照れたようにはにかんだ。
「毒っていうのはな、使いようなんだ。使い方によれば、千金の価値のある薬にもなる」
タジカの言葉に、アトイはぱっと顔をあげ、目を見開いた。
膜を張ったような耳の底に、確かな息遣いとともに、柔らかい声が木霊する。
——お前がどう使うかによって、その『力』は毒にもなるし薬にもなる。
結局は、使う者次第なんだ。
懐かしい言葉だ。
その懐かしさに、胸を刺すような痛みとともに、じんわりと、温かなものが満ちていく。
アトイはロトルの方を見た。
( こいつと初めて出会った時も、この言葉を思い出したな……)
アトイは自分でも気が付かぬうちに、目を細め、微笑んでいた。
「……あんた、本当に薬師なんだな」
アトイがそう呟くと、タジカはアトイを見つめ、数回瞬き、そして、
「だから、昨日そう言っただろ!」
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