3 大切な人のために

13 茂みの中

 山に入ってから、随分歩いたと思う。木々の隙間から覗く空は、だいだい色に染まり始めていた。


 広めの獣道、といった雰囲気の歩きにくい道を、ざくざくと進む。

 橙色の光は、あたしたちのところまでは届かない。あたりはほの暗く、好き勝手に生い茂る草木で道の両脇の向こうは全く見えない。

 湿った空気がひんやりとまとわりつく。息をするたびに濃厚な緑の匂いが押し寄せてくる。


 皆、他愛ない雑談を交わしながら淡々と歩き続けている。歩く速度は加減してくれているようだが、それでも前を歩く凱と焔に、やっとの思いでついていく。


 情けない。

 あたしはただでさえ脚の弱い鳥人なうえに、ずっと檻の中で生きていた。自分の弱点が脚だとわかっていたからこそ、なるべく歩いたり走ったりするようにしていた。おかげで一日中お子様たちを追いかけまわしてもなんともないくらい力がついた。

 自信があった。あたしは脚が強い。鍛えている。だから鬼退治の役に立つって。

 それなのに、たかが半日の山歩きで、こんなに疲れるなんて。


「小夜姉、疲れた? 休もうか」


 隣を歩いていた憲が気づかわしげにあたしを見る。その視線に妙な反抗心を掻き立てられ、あたしはふんと鼻を鳴らしてからわざと声を張り上げた。


「は? 何言ってんの。ああでもごめん、歩くの遅いよね。あたし小さいからその分脚短いじゃない。だからさ」


 自分の弱さを全部背丈のせいにする。


 そうだ。憲や凱の一歩があたしの二歩なんだから、彼らの倍歩いているんだ。だからちょっと歩くのが遅くて、ほんのちょっと疲れるのが早いだけなんだ。

 あたしは強い。きちんと剣術を習ったことはないけれど、坊ちゃんたちの鍛錬を真似して毎日鍛えている。きっと鬼退治では大活躍できる。


 心の中のもう一人のあたしが、あたしをあざ笑う。


 ばっかじゃないの。この程度の山歩きでびいびい喘いでいるのに、鬼退治で役に立つわけないじゃないか、このうぬぼれ女。


 あたしの目の前を歩いていた凱が立ち止まった。振り向いてあたしを見る。その視線が嫌で目を逸らす。憲は少し怒ったような表情で声を上げた。


「脚の長さなんて、そんなの関係ないよ。焔は小さくないのに脚短いけど歩くの速いよ」


 いやそれは何かが違う、とあたしが言う前に、焔は歯をむき出して憲に顔を寄せた。


「おいてめえ失礼な。それに問題は歩く速度そのものじゃねえだ」

「しっ、ちょっと待ってっ」


 憲は自分に突っかかる焔の言葉を遮り、目を茂みの方へ向けた。

 柔らかだった憲の周囲の空気が瞬時に鋭く変わる。彼は口を強く結び、薄茶色で三角の耳をぐっと前方に傾けた。

 その姿を見て、皆動きを止める。憲が鼻をわずかに動かした。

 形は人間やほかの亜人と一緒でも、犬人の鼻は敏感だ。何を捉えたのか、彼は顔をしかめて鼻を指で押さえた。

 

「なにか、いるのですか」


 凱が憲に近寄りささやいた。憲が頷く。あたしが周りを見回しても、なにも変化を捉えられない。ただ空の橙色が深くなっただけだ。


 風が吹く。氷の粒のように冷たい風。


「はい。動物じゃなくて、たぶん、人間の男です。何人かいる」


 鼻をつまんだまま、口で何度か息をする。


「凄く臭い。なんだろう、濡れ雑巾と古い油の臭い」


 つまり、この茂みのどこかに、汚れた男どもが隠れている、ということか。


 意識を茂みに集中する。なんの音も匂いもしない。

 目を閉じる。右の耳が微かに葉の擦れる音を捉える。


 傍らの憲が、ざく、と草を踏んで一歩踏み出す。

 指先から血が引く。刀に手をかける。指先がこわばっている。指の関節のひとつひとつを曲げて力を込める。

 心の臓が低く轟く。


 頭上の空気が揺れる。それと同時に焔が振り向き、低い唸りが耳をかすめた。


「うわっ」


 叫び声とともに背後で重いものが落ちる音がした。振り返ると、手の甲に小さな刃物を刺した男が、こちらを睨みつけている。男の傍らには弓が落ちていた。


 気がつかなかった。何もわからなかった。こんな近くに、人が潜んでいたことに。

 喉が詰まる。息が苦しい。

 自分たちに弓を向けられていたのに、あたしは。


「ありがたいねえ。こんな山奥に、のこのこ来てくれるんだもんよう」


 茂みの中から声がする。一人の男が、抜身の刀をぶら下げて出てきた。

 その後ろからもう二人。道の反対から一人。木から落ちてきた男をあわせると五人だ。

 

 皆、あたしたちを見、笑っている。

 茶色く垢じみた顔と伸びきった蓬髪ほうはつ、ひび割れた唇からのぞく歯は黒ずんでいる。まとっている着物は、着物というより重ね合わせたぼろきれだ。

 

「でもよう、思ったより貧相ななりの若造じゃねえか。金目のものなんかねえんじゃねえか」

「刀くれえか」

「つまらんなあ」


 にやにやしながら雑談をしている風を装ってはいるが、皆、一定の距離を取り、視線を外さない。

 抜身の刀を持っている男が四人。先ほど木から落ちてきた奴も手に刃物を持っている。

 奴らがろくでもない意図を持ってあたしたちの前に出てきたのはあきらかだ。でも今の状態では逃げることができない。あたしは刀を握る手にさらに力を込めた。

 

 一昨日、初めて手にした真剣。扱い方は教わったし、お屋敷の裏庭で何度も振ってみた。だがもちろん、人に向けたことはない。

 こわい、という言葉が頭の後ろから湧き上がる。それを全力で押しつぶし、奴らを睨む。

 息がうまく吸えない。


「あっちの山の人鬼ひとおにじゃあねえだろうな」

「そうっぽいのが混じってんけど、違うだろう」


 苦しい息の中、「人鬼」という言葉に引っかかる。

 なんだそれ。聞いたことない。「鬼」ではないのか。

 よく分からないが、男どもはあたしたちが「人鬼」ではないと思ったらしい。


「じゃあ簡単だ」

「でも金目のもんが」

「いや」


 奴らの一人と目が合う。

 そいつはあたしを見て、赤紫色にただれた口角を釣り上げた。


「女がいる」

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