8 君の幸せを願う

 その答えを、頭の中のどこかはすでに知っていたように思う。「やはり」という声が、頭の中の奥で響く。

 心の臓が動きを速める。脚が震える。手に力が入らない。無理やり力をこめ、握りしめる。


「な、んで」


 どこに向けられたのか分からない怒りの感情が口から吐き出される。


「それって、村を挙げて、行くってことなの? いっぱい人を雇って、とか、そういうのの、一人として」

「違いますよ。小夜さんもお聞きになっていたでしょう。私と、出水の家のもの何人かで行きます。焔とけんの二人に話そうかなとは思いますが、危険なことですので、私一人で行くかもしれません」

「ちょ、ちょっとあんた、焔と憲とって、普段の散歩とはわけが違うんだよっ!」


 いつもの口調であんまりなことを言うので、思わず彼の着物を引っ張って声を荒らげてしまった。

 髪に挿された桃の花が怯えたように震える。


 焔と憲って、いつもふらふらしているときに一緒にくっついている、使用人の亜人だ。もっとも凱は、二人のことを友達だと思っているが。

 猿人の焔はすばしっこくて頭が回るし、犬人の憲は大柄で力が強い。そのうえ二人は凱が大好きだ。

 だから頼りになる人たちではあるが、彼らが「頼りになる」のは、せいぜい数頭の鬼を退治する場合くらいだろう。

 いつもの散歩の面子だけで、どこにいるかも、どのくらいいるかもわからない鬼を退治しようなんて、どうかしている。


「そうですね。ですから私も彼らに強制する気はありません。一人で行く覚悟はあります」

「何わけのわかんないこと言ってんだよ! それこそ散歩じゃないんだよ、相手は鬼、鬼、それも」


 視界の端で下男がうろうろしているのが見える。あたしが騒いでいるので、何事かと見に来たのだろう。だがそんなものに関わっている場合ではない。


「旦那様っ!」


 表情を失ったまま立っている旦那様に噛みつく。


「なんでこんなもん受けたんですかっ! おかしいでしょう。断るなり、流すなりすれば、そうすれば」


 旦那様はあたしに言われるがままになっている。なんの反論もしない。その態度が癇に障り、凱の着物から手を放し、旦那様に掴みかかろうと手を伸ばす。

 その手に、凱がそっと触れた。


「父は断ってくれました。長様に向かって、かなり厳しい言葉を使って断ってくれたのです」


 行き場を失ったあたしの手を軽く握り、ゆっくりとおろす。

 凱の手が離れる。その手で自分の胸に触れる。


「私が、長様に行くと言ったのです」


 風が吹く。

 若い緑の匂いがする風が、あたしたちの間を通り過ぎる。

 頭の中のすべてが停止する。

 旦那様が深く息を吐き、両手で顔を覆う。


「……で」


 停止した頭の中から、少しずつ言葉を拾って絞りだす。


「なんで、そんなこと、言ったの」


 その言葉をきっかけに、頭の中で何かが切れる。


「なんで、なんでよっ! なんで凱がそんなことしなきゃいけないんだよっ! 意味わかんないし。あんなん無視すりゃいいんだよ。わかってんだろうが、あんた、そんなことしたら」

「そうですね。もし『鬼をすべて退治しろ』と言われたら、それは難しいでしょう。だから鬼の数によっては、居場所と大まかな数の特定をしたうえで、多少の打撃を与えるくらい退治すればよい、ということになりました」

「んなもんで『はいそうですか』って言えるかよっ!」


 そんなの、なんの譲歩にもならない。鬼の住みかを探しだして探りを入れ、何頭か退治する。そんなの、鬼の懐に入った時点でおしまいだ。


「凱、だって、そんなの、絶対に生きて」


 生きて帰って来られないじゃない。

 そう最後まで言うことはできなかった。

 わけのわからない怒りが頂点に達し、涙となって目ににじむ。

 凱は目を伏せ、息をついた。


「長様のおっしゃる通りです。私は本来、生きるはずのない命でした。それなのに、この村の中でずっと幸せに暮らしてきた。もう、充分です。そろそろ私の周りのすべての方に恩返しをしなければ」

「だからって鬼退治なんかしなくていいじゃないか。あたしはさ、ずっとろくでもない人生だったよ。それが凱に助けてもらって、そこそこ幸せに暮らせるようになった。だからこそ、この暮らしは手放したくないよ。そういうもんでしょ。幸せなら、このままずっとって。ね。ずっとずっと」

「……私はあの時、鬼に突き飛ばされたり、蹴飛ばされたりしていただけです。『私に助けられた』なんて言っていただけるようなことはしていない」


 あたしに向かって左手を伸ばし、頬に触れる。

 頬を包まれる。その掌はしなやかな見た目に反して硬く、ごつごつとしている。


 ふ、と思う。

 もしかしたらこの人は、ただふらふらとしているわけではないのかもしれない。

 この村の多くの男たちのように、声高に努力自慢をしないだけなのかもしれない。

 今だって、微笑みながら鬼退治の覚悟をしている。


 触れられた恥ずかしさが霞むほどの、何か大きな感情のうねりが広がる。


「小夜さんが幸せでよかった」


 掌が頬を滑り、離れてゆく。

 眩しそうに目を細める。


「どうか、ずっとずっと、幸せでありますように」


 軽く頭を下げ、表情を失った旦那様を門の外へ促す。

 二人の背を見て、脚の力が抜ける。

 そこに長様の甲高い声が響き渡った。


「門の所で何を揉めておる! みっともないぞ」


 じゃりじゃりと大きな足音をさせてこちらへ来る。長様はあたしと凱たちをにらみつけた。

 長様の後ろで、下男が隠れるようにしてこちらを伺っている。どうやら彼が長様を呼んだらしい。

 凱は優雅に頭を下げた。


「これは長様。お屋敷の前で失礼いたしました」

 

 それに長様はふんと鼻を鳴らした後、あたしを見た。


「なぜ小夜がこんなところに。お前はうちの使用人だろう。出水の家の者とは関係ないは」

「長様、出水様に鬼退治を押しつけたんですかっ!」


 長様の言葉を遮って怒鳴った。長様は一瞬ひるんだが、眉間に縦皺を寄せて怒鳴り返す。


「なんだお前、その口の聞き方は! 押しつけたとは人聞きが悪い。儂はただ、文句ばかりの恩知らずな上に村人を守る気概のない家には、山や特権は与えられないと言っただけだ。当然だろう。そうしたらこいつが自分で鬼退治へ行くと言ったんだ」

「な……んだよそれ。蔑みと脅迫で追い込んでいるだけじゃないか! 汚いな」


 言った後でしまったと思ったがもう遅い。それにもう、あたしは自分を止められない。


 長様のこと、信じていた。信じていたかった。

 それなのに。


 一気に顔色が白くなる長様に向かって、さらに声を上げるべく口を開く。


 凱が、鬼退治へ行く。村の人と、自分を助けてくれた家のために。

 穏やかに微笑みながら。

 あたしの幸せを願いながら。


 それならば。

 叫ぶ前に少しだけ言葉を選ぶ。この人に伝えるには、この言い方にすればいい。


「毎年貢物だけもらって、この家ではなんにもしないんですか。それじゃあ村の人から見たら、この家は腰抜けです。だから」


 大きく息を吸う。

 

「長様の家からは、あたしが鬼退治へ行きます」

 



 ねえ、凱。

 あたしには、自分の幸せよりも、大切なものがある。

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