50 決戦(2)

 突然現れた翼に対して一瞬思考が停止し、驚きは一足遅く襲ってきた。

 上体を起こす。背中の上にある骨を寄せるように動かすと、翼は空気に抗いながら閉じる。骨を離すように動かすと、優雅な舞のように広がる。


 鬼どもは足を止め、様子を窺うようにあたしを見ている。凱はあたしの翼を指して喉の詰まるような声を上げた。


「小夜、さ……」


 何かを言いかけた凱は、急に立ち上がって身構えた。背後から鬼が襲ってくる気配がする。翼に何かが触れる感触を覚え、咄嗟に翼を動かした。

 背中を吊られるような感覚と共に、体が持ち上がる。

 もう一度羽ばたくと、足が地面から離れる。

 あたしのすぐそばで、棍棒を手にした鬼が体勢を崩して転倒した。

 翼を広げたまま羽ばたきを止めると、空気の抵抗を受けながら再び地面に足がつく。


 物凄く、物凄く久しぶりの感覚だ。

 このくらいの羽ばたきは、昔やったことがある。しかし、そんなものを懐かしんでいられない。方々から槍のような邪気が飛んでくる。


「凱!」


 刀を収める。かがんで背中を丸め叫ぶ。


「あたしの背中に乗って! 飛んでみる!」


 凱は頷き、あたしの後ろに回った。

 不安が心に溢れる。あたしより体の大きな凱を乗せて戦えるかわからないし、そもそも今まできちんと空を飛んだことがない。

 でも鬼のように翼を出し入れする方法がわからない以上、あたしにできる戦い方はこれしかない。


「小夜さん、無理はしないでくださいね。重かったら言っ」

「気ぃ遣ってる暇があんなら、さっさとしがみつけよ!」


 自分が吐き出した乱暴な言葉にぎょっとしたが、今更仕方がない。肩と背中に凱の感触を覚えると同時に、思いきり羽ばたいた。

 体が浮かび上がる。翼を動かすごとに地面が離れていく。


 不思議なほど凱の重さを感じなかった。

 というより、彼が「乗っている」という感覚すらほとんどなかった。敢えて例えるなら、自分の目方が少し増えたような感じ。あたしの肩を掴み、体を背中につけているのだけれども、その状態も含めて「あたし」という一つになったみたいだ。


 だが、どうも上手く飛べない。空に浮かんだもののどうしても体が左側に傾いてしまう。凱も傾いた体にしがみついて動けないみたいだし、こんなことでは飛ぶ鬼どもと渡り合えない。

 やはりいきなり飛ぶなんて無理だったか、と思いかけたが、すぐに原因に気づいた。

 地上で鬼どもと見合っている憲に向かって叫ぶ。


「憲!」


 欠けた刀を手にした憲と目が合った。


「あたし、これいらない! 使って!」


 腰に佩いた刀を憲めがけて落とす。途端に体がふっと軽くなり、傾かなくなった。

 翼のある鬼どもが刀を持っていなかったのは、飛んだ時に均衡が保てなくなるからだったのか。

 あたしの刀を受け取った憲が笑顔を見せる。それが合図になったかのように、地上の鬼どもと自警団員たち、そして憲と焔が一気にうねりだす。あたしは空を見上げ、翼を動かした。


 空気があたしの両頬にぶつかり、体を流れていく。空気を切り裂く低い音が耳に響く。飛んでいた鬼どもの姿がどんどん大きくなる。鳥というより鉄砲の弾になったみたいだ。

 上昇を止める。凱の手があたしの肩を離れた。背中の向きを変えると、彼はあたしから胸を離し、立ち上がった。

 翼があるから、あたしの背中から腰にかけての僅かな隙間に足を置いている。普通に考えれば不安定なことこの上ない。だが凱の足はあたしの体の一部になったかのように貼りついている。その体勢のまま目の前を飛んでいる鬼に向かい合う。


 凱の体が僅かに前に傾いた。それに合わせて前に突っ込んでいく。目の前の鬼が刀を振り上げる。飛ぶ鬼めがけて飛び、かする直前でかわし、すり抜ける。

 背後で悲鳴が上がる。凱の重心が動く。それに合わせて高度を下げる。凱が低い声を上げた。あたしたちを狙っていたらしい矢が、行き場を失って落ちていく。


 大きく羽ばたく。自分の思った通り、そしておそらく凱の思った通りに空を飛び回る。

 一度高度を上げ、向かってきた鬼どもの方へ墜ちるように向かう。また矢を射かけられた。体を大きく傾ける。肩を矢がかすめる。弓を構えた鬼めがけて突進する。


 怒号が聞こえる。あたしたちのすぐ後ろ、斜め下からだ。体の向きを変えるには近すぎる。


「小夜さん、私の脚を掴んで!」


 背中から凱の感触が消える。それとほぼ同時にあたしの目の前を凱が飛んだ。咄嗟に彼の足首を掴む。その勢いのまま彼を振り下ろす。斜め後ろ下に迫っていた怒号は悲鳴となって遠ざかる。


 この調子でどんどん行くぞ、と思ったが、そうはいかなかった。

 飛ぶ速さががくんと落ちる。たった今まで自由自在に飛んでいたのに、翼が言うことを聞かない。

 目の前を灰色の羽根がよぎった。自分の翼を見ると、先端の羽が灰色に変色し、はらはらと抜け落ちていった。

 息が詰まり、苦しい。自分の意志と無関係に高度が落ちていく。翼の付け根がじくじくと痛む。


 何してんだよ、あたしの翼。もう一息、もう一息頑張れよ。背中に乗った凱が危ないじゃないか。


 翼に喝を入れ、「気を張る」。灰色に変色した羽が僅かに白さを取り戻す。

 胸が痛くなる。羽ばたく力が弱くなる。翼の動きに合わせて、灰色の羽根が金赤色の空に舞う。

 胸の奥からごぼごぼとあぶくのようなものがこみ上げる。胸が踏みつぶされたように苦しい。喉が詰まったので咳込んだら何か出てきた。よだれかなと思って口元を拭ったら手の甲に真っ赤な血がついた。


「小夜さ……」

「ごめん揺れるよね! 気をつけて! 次あいつん所へ飛ぶから!」


 あたしが血を吐いたところなんか見たら、凱は気を散らしてしまうだろう。こっそり手を着物で拭い、潰れた胸の隙間に無理矢理空気を送り込んで声を出す。

 風が吹く。翼を広げると、風に乗って標的の鬼ども目がけてまっすぐに飛んでいけた。

 これは楽だ、と思っていると、背中で凱が咳込んでいるのが聞こえた。


 あたしも、凱も、限界が近づいていた。

 凱が膝をつく。荒い息遣いが聞こえる。真っ白だったはずの翼はみるみるうちに灰色に染まっていき、はらはらと羽根が舞い散る。

 空中で鬼どもが集まり、押し寄せてくる。凱が手を差し出してきたので握る。気を放ち、鬼を蹴散らす。背中に激痛が走り、ぼろぼろと翼が崩れていく。


 もう、だめだ。

 いや、だめなんて言っていられない。あたしは空の上で凱の命を預かっているんだ。


 凱は次々と鬼を斃していく。鬼の殺気を受けながら、自らの体力と魂をすり減らしながら。

 あたしは奥歯を強く噛みしめた。「気を張って」翼を元に戻そうとするが、もはやどうにもならない。

 柔らかな風が吹く。風を受け、ふわりと浮かぶ。だが風はすぐに弱くなり、羽ばたけど羽ばたけど落ちていく。

 丘の上空に差し掛かる。地上ではあちこちで鉄砲が煙を吐いている。鬼どもが大量にうごめいている。落ちていくにつれ、その様子がはっきりと見えてくる。


 丘の近くで、自警団員の一人が大人数の鬼に取り囲まれているのが見えた。

 あたしは凱に向かって手を差し出した。彼が握り返してくる。地上に向かって気を放つ。鬼どもが一斉に倒れる。


 目の前が真っ白になる。

 次いで真っ黒になり、頭の中が大きく渦を巻く。

 ばらばらっ、と音を立てて翼が崩れる感触。

 頬が空気を切り、墜ちてく感覚。


 だめだ。墜ちちゃだめだ。

 凱が危ない。このまま地上に激突したら、凱が危ない。

 あ、あたし、刀ないんだった。もしうまく地上に降りられても、鬼の餌食になっておしまいだ。


 風が吹く。僅かに残った翼が風を受け、ふうわりと浮き上がる。

 目の感覚が蘇る。地上の光景が映る。

 石の器があった丘、自警団員たちと鬼、煙。

 右の翼は完全に崩れていた。背中で凱が動く。また、ふうわりと浮かぶ。

 彼の手が見えた。頭を上にして浮かび上がる。彼が背中からあたしの目の前に移動した。


 その姿に言葉を失う。

 いつも丁寧に結われていた髪は乱れて顔を覆っており、全身、赤黒い血に染まっている。着物は以前見た野盗のようにぼろぼろだ。

 彼は赤黒く染まった顔の中の、澄んだ蜂蜜色の目を細めて微笑んだ。


 あたしを柔らかく抱きしめる。

 糸が切れたように風が止む。

 終わりを悟り、目を閉じる。


 空気を切って墜ちていったかと思うと、轟音と共に全身に激しい衝撃を受けた。

 墜落した衝撃か、と思ったが、どうも違う。墜ちた、というより、何かに弾き飛ばされたかのような衝撃なのだ。第一、地面にたたきつけられたのなら、こんな衝撃では済まないだろう。


 頬と掌に岩の感触を覚える。地上に墜ちるには墜ちたようだ。頭を上げると、瞼を閉じていてもはっきりとわかるような白い光が目を刺した。

 目を開く。

 目の前の光景に、体の痛みがふっ飛んでいく。


 石の器があった丘の上に、巨大な光が柱のようにそびえていた。

 目が潰れそうなほど眩い光は、空に向かってまっすぐに伸びている。そしてその中から、小さな光がいくつも飛び出していた。


 光は滑るように飛び回り、次々と鬼に張りつく。光に捕らわれた鬼は、もがき、叫びながら光の柱の中に消えていく。

 光の中を上昇していく鬼が、微かに見える。


 凱は上体を起こし、その光景に見入っていた。

 彼と目を合わせる。また光の柱に目を向ける。

 飛ぶ光は、ただの光ではなく、時折ちらちらと白い翼や人の顔のようなものが見え隠れする。

 何が起きているのかわからず光の柱を見ていたら、一頭の鬼が手に黒いものを抱えて、自ら光の柱の中へ飛び込んでいった。

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