55 ありがとう

 桃色の中でたゆたう。

 ここに来てから、どれだけの時が経っただろうか。空間がゆったりと振動した。


 ――ごめんなさい。幼い二人に、酷い重荷を背負わせてしまいました


 空間がしっとりと湿る。涙に濡れた頬のように。


 ――鬼となった子を裁きの子が捕まえられたのも、私や幼い子が救われたのも、あなたたちのおかげです。しかし、そこまでのことを、こんなにちいさな二人にさせてしまった


 女神の言葉に凱と顔を見合わせて微笑む。きっと彼も、あたしと同じ気持ちだ。

 繋ぐ手に力を入れる。


「ヒトの世を、いつも見守って下さっている女神様や神様のお役に立てたのでしたら、嬉しく存じます。お気になさらないで下さい。それよりもお疲れのことでしょう。どうぞ心安らかに、御身おいといくださいませ」


 凱がそう言った後、少し不安そうにあたしの顔を見たので、笑顔を作って頷いた。


 空間が揺れる。ぬくもりが頬に触れる。

 桃の香りがあたしたちを抱きしめる。

 体だけじゃない。怒りとか、苦しみとか、悲しみとか、あたしを作るそういったものまでも含めて、すべてのものが大きく大きく包み込まれる。


 なんだろう、これは。

 柔らかくて、あたたかくて、甘い匂いがして。

 そうか。これがきっと。


 ――なんと、いい子たちなのでしょう


 穏やかに振動する。力が抜け、その場に座り込む。

 目の裏が熱くなり、鼻が痛くなる。


 そんなあたしを、空間はふんわりと微笑むように包み込む。


 ――生まれてきてくれて、ありがとう


 光が大きく広がっていく。


「……か……」


 果てしない安らぎとぬくもりの中で、あたたかな涙があとからあとから溢れてくる。


 これが。


「かあちゃん……」


 これがきっと、母のぬくもりなのだ。




 あたしたちは女神に別れを告げ、強烈な光を抜けた。待っていてくれた使いたちにそれぞれ抱かれて地上へ向かう。

 あたしたちと逆方向に、鬼どもが流れている。女神に「いのち」を食べさせようとする鬼がいないかと目を凝らしてみたが、壺らしきものを持っている鬼は見当たらなかった。振り向いても脇道は見えない。

 あたしを抱えてくれている使いに訊いてみる。


「これでもう鬼は完全にいなくなるんでしょうか」


 使いはゆらりと首をかしげた。


「今いる鬼は全て捕えますし、今後罪を犯した神が逃げないよう、策は講じています。けれども永久に鬼となるものがいなくなる、とは、私の口からは断言できません」

「そうかあ……」


 心のどこかで「もちろん! もう二度と鬼なんか出てこないよ」という言葉を期待していたので、この答えを聞いて「えー……」と思ったのが正直なところだ。だがこれ以上は何も言わなかった。

 神は強い。しかし万能ではないのだ。


「ところで幼い風の神の使いと風の神よ」

「お、おう」


 使いの言葉にがっかりしていたのを見透かされたのかと思い、焦ってしまった。


「これからは人間として生きていくのですよね」


 使いの言葉に、あたしと、別の使いに抱かれている凱は大きく頷いた。

 凱を抱えている使いが彼に訊く。


「風の神は、これからも風の神としての力を使う気持ちはありますか?」


 凱はゆっくりと首を横に振った。


「いいえ。鬼退治が終わった今となっては、風を吹かせられても洗濯物を乾かすくらいしか役立ちそうにありませんから」

「そうだよねえ。梅雨時の軒下で風を吹かせてくれると、おもらしした八郎坊ちゃんの着物が乾いていいかもしれないけど」


 仮にも出水家の跡取りに対して失礼極まりないかもしれないけれど、いいや。あたしの言葉を聞いて、使いたちはゆるりと揺れた。


「わかりました。そのことを私たちの神に伝えておきます」


 やがてうっすらと地上が見えてきた。岩ばかりの中、ぽつりぽつりと人影が見える。


 自警団員らしき人がうずくまっている。

 焔と憲は見当たらない。

 途端にどす黒い不安が胸の中に膨らみ、体が震える。


 皆、無事だろうか。

 あれだけの戦いだったのだ。全員無傷ということはないだろう。けれでも、せめて、せめて……。


 光の道から飛び出す。するとあたしたちを抱えている使いたちの姿は消え、二つの光となった。


「ここでお別れですが、女神も、私たちも、二人をずっと見守っています」

「私たちは、二人への恩は決して忘れません。ありがとう」


 光の奥から翼のようなものが見える。二つの光はあたしたちを地上に下ろすと、光の道に向かって飛んでいった。




 足裏に岩の感触を覚えると同時に、今まで失っていた痛みが一気に押し寄せてきた。

 腕の痛み。脚の痛み。背中の痛み。

 焼ける臭い。鉄砲の臭い。血の臭い。

 硬い岩。呻き声。叫び声。


 ああ、そうだ。これが人間として地上で生きる感覚なのだ。


 あたしたちは少しの間蹲っていたが、先に凱が立ち上がり、声を上げた。


「女神様の所より戻ってまいりました! あとの鬼は全て神様が退治してくださいます! 皆さん、ご無事ですか!」


 あたしも立ち上がる。ぐらりと視界が回ったが、両脚を踏ん張って叫んだ。


「女神様、無事だったよっ! 鬼退治はおしまい。さ、とっとと鬼の舟かっぱらって帰ろう!」


 その声に応えてもらえるとは思っていなかった。

 今、あたしたちに目を向けている人たちは、皆傷つき、顔や着物を真っ黒にして、鉄砲を支えにようやく立っている状態だから。

 あたりを見回す。斃れた鬼どもに囲まれるようにして倒れ込んでいる自警団員と目が合った。彼は赤黒い血糊にまみれ、うつろな目であたしを見ていた。


「凱さん」


 背後から弱々しい声がする。後ろを向くと、抜身の刀を杖にした憲と、彼に支えられ、引きずられるように歩いている焔がいた。


「二人ともご無事でしたか!」

「は、はい。あの、僕は大丈夫なんですけど、焔が」

「いや、俺も無事っちゃ無事です……」


 焔は口元を笑みの形にしたが、その表情を見て、彼が凱の思う「無事」ではないことを知った。


 胸が痛い。苦しい。でもここで心を潰してはだめだ。左手で拳を握る。


 焔に声をかけようと口を開いたが、彼があたしを見て先に声をかけてきた。


「あ、あれ、小夜。せ、せっかく生えた翼、なくなっちまって」

「ああ、そんなのいいんだよ。それより焔、その脚……」


 焔の脚。敏捷な身のこなしの彼を支えていた左脚は、垂れ下がるようにだらりと力を失っていた。


「ああ、ちょ、ちょっと、怪我してな。……が凱さん、あっちに、ロンがいます。さっさと、皆を集めて、帰っ」


 呂律が回らなくなり、目が泳ぎ始める。

 憲の腕から滑り落ちる。凱は両腕を伸ばして焔を受け止め、抱きかかえた。

 瞼が落ちる焔に、そっと囁く。


「はい、帰りましょう。皆が待っていますから」

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