54 鬼とヒトの境

 鬼が消えた後の空間には、清らかな光と香りが満ちていた。

 上を見上げ、光と香りを味わうように感じる。

 そうだ、ここに鬼はいないのだ、と思う。

 凱に寄り添う。そっと指先を絡ませる。

 魂がぞくぞくと震えて膨れ上がり、破裂しそうなほどの安らぎに圧倒される。


 光は淡い橙色から桃色へと滑らかに変わっていった。

 きっと、産まれる前の子供たちは、胎内でこういう色に包まれながら夢を見ているのだろうな、と思う。


 ――ありがとう。こんなにも弱い私なのに


 あたりが――女神の体内が振動する。細かな振動のひとつひとつがぬくもりとなって沁みてくる。あたしたちが見上げると、桃色の光が、とくりとくりと脈を打った。


 ――「いのち」の壺を、開けてしまうところでした。産まれる子たちに障るかもしれないというのに、産みの疲れから逃げる誘惑に、負けそうになってしまいました


 光が弱々しく沈む。

 女神は、鬼に惑わされるような弱さを持っている。それには少し驚いたが、そういえば神だって万能ではないのだ。女神だけ特別ということもないのだろう。


「でも食べなかったんですから、いいんじゃないかなと思います。あんまりくよくよ思い悩むのも、体に良くないですよ」


 言ってから、これは「女神様」に対する態度じゃないな、と気づいた。天罰でもあったらどうしようと思ったが、何事もなく、ただ桃色の光がゆっくりと強さを取り戻しただけだった。


 桃の香りを吸い込む。ゆったりと脈打つ桃色に体を委ねる。

 時の経つ感覚が曖昧になる。


 ――鬼となった子を捕らえた、裁きの子が教えてくれました


 振動し、女神が語りかけてくる。凱は姿勢を正して相槌を打っていたが、あたしは女神の言葉を心の中で繰り返していたので、相槌を忘れてしまった。


 そうか。女神にとっては、神も、鬼も、自分の子なんだ。


 ――鬼となった子は言ったそうです。「『いのち』を女神の目の前に差し出せば、きっと誘惑に負けて食うだろう」と


 桃色が色褪せ、ひんやりとした感触が横切る。


 ――そして「食って何か障りがあればよし。だがなくともよし。女神が『いのち』を食えば、産まれる神は『いのち』で作られる。そのことで女神や神が苦しむだけでも復讐になる」と言ったのだそうです


「障りがあることだけが目的ではなかったのですね。しかし復讐、とは」


 鬼の言っていたという言葉、また聞きだから仕方がないのかもしれないが、すぐには理解できなかった。

 だから想像する。もし自分が女神で、「いのち」を食べてしまったら。そしてもし自分が鬼だったら。


 「いのち」はヒトの苦しみや悲しみの塊なのだから、食べて一時的に元気になっても、女神の体には良くないだろう。しかし女神からしたら、自分の体がどう、ということよりも、もっと大事なことがある。

 それは、「わが子に障りがあったらどうしよう」だろう。


 ただ、鬼も承知だったみたいだけど、どういう障りがあるのか、そもそも障りがあるのか、誰もわからないのだ。鬼は一度も「いのち」を届けられていないし、女神も口にしていない。

 だから問題なのは、「『いのち』を取り込んでしまった」と悔いる女神の気持ちと、「いのち」を糧として育ち、産まれてきた神の気持ち、なのだろうか。

 にしても、受けるべき罰から逃げ出して好き放題していた鬼の「復讐」ってなんだ。


 そこであたしの中で一つの考えが閃く。ただ単なる思いつきなので、うまく言葉にまとめられない。

 どう言ったらいいものかと眉間に皺を寄せて考えていたのに、口が思いつくままに言葉を吐き出してしまった。


「さっきの鬼、自分の身を焼いてまで……って、あれ、女神様の光に鬼の肉が耐えられなかったんですかねえ。……で、えっと、あれっぽっちの『いのち』を、女神様に食べさせようとしていたでしょ。あれって、女神様や神様の体を確実に壊すため、というより、女神様に『赤ちゃんに取り込ませちゃった』と罪悪感を抱かせるとか、生まれた神様が『自分の体の一部は、ヒトの苦しみからできているんだ』と苦しませるのが目的だったのかな」


 いやだからそれはさっき女神が言っていたじゃないか、と、心の中で自分の言葉に突っ込んでみる。


「あと今いる神様たちに『女神様と赤ちゃん神様を守れなかった』って思わせる、とか。確かにそれって、あいつらからしたら凄い復讐だよなあ」

「復讐、ですか」


 難しい顔をしている凱に向かって頷く。


「しかし小夜さん、鬼は罪を犯した上に裁きからも逃げ出すようなことをしていたのですよ」

「うん、そうだけど、逃げ出した先の環境があんなのだったでしょ。島は岩しかないし、肉は邪魔だし、ちょっと前まで『神様』って言われていたのに、ヒトに『鬼』って言われてやっつけられたりして」

「それは自分の行いのせいでしょう」

「だからさ、そうなんだけど、なんかね、そういうのがすぽっと抜け落ちちゃう奴っているんだよ」


 これは鬼だけの考え方ではない。だけどあたしもそういう考えが理解できないから、うまく言葉にするのが難しい。


「たぶん、『こんな大変な俺って可哀想』ってことしか見えないんだよね。で、『こんなことになったのは、俺を悪者扱いしたり罰を与えようとした奴のせいだ。許さない』ってなるの」


 凱は頷いてくれたものの、今一つ腑に落ちていないようだった。

 それはしかたないかな、と思う。彼は今まで愛情や豊かさをたっぷり浴びて育ってきたから。

 でも、だからこそ、もしかしたらこれはあたしが言わないといけないのかもしれない。


「別にこの考え方自体は、鬼だけのものじゃないよ。他人を苦しませてもなんとも思わない奴とか、自分のことしか考えられない奴とかは、ヒトでもごろごろいるもん。さすがに鬼ほどのことをする奴はいないけど」


 続けて言おうと思った言葉は、さすがに飲み込んだ。だが、あたしの思ったことを、女神が振動させる。


 ――鬼とヒトの境は、おそらくヒトが思うよりも、薄く小さなものなのです

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