53 女神
――己の益のために、ヒトの魂を奪ってはなりません
声のような、音のような振動。耳だけでなく、全身でその言葉を受け止める。
あたりの光の変化が速くなる。奇妙な感覚のはずなのに、その振動はどこか懐かしく、言葉の一つ一つに柔らかなぬくもりがあった。
これは、なんだろう。この感覚は。
「ええ、ええ、それはわしらも重々承知しております。しかし致し方ないのです。そうせねば生きていかれぬのです。それにヒトの魂だけが特別というものでもないでしょう。多くのヒトは獣や魚の肉を食らう。『いのち』は、生き物が生き物を食らう魂の繋がりの一つにすぎぬのです」
――それは
振動が何かを伝えようとする。鬼は大きく口を開けた。
よく見ると、鬼の顔はあちこちただれていた。
肌が小さくめくれ上がり、ちりちりと焦げる。黒い煙が光の中に溶けていく。
鬼は、少しずつ体が焼かれているようだった。
「ああ、苦しい。母なる女神は、わが子を自らの光で焼かれるのか。でもよいのです。この醜い肉が焼け落ちて、わしの魂が母なる女神の体内に還るのならば」
鬼が唇を歪めて笑みのようなものを見せる。
鬼まで、あと少し。脚と腕に力を込める。
「さあ、どうぞ。その壺の蓋を押さえる力を緩めてください。これは母を想う子の心です。ああ、さぞかし神産みにお疲れのことでしょう。『いのち』はきっと母なる女神に活力を与えます。何も問題ありません。『いのち』に関して、神があることないことほざいているかもしれませんが、神はせっかく母なる女神が産んだ幼い神の魂を、ヒトの肉に詰めて川に流し捨てるようなことをする奴ですよ」
鬼は憐れむような目つきをしてあたしたちを見た。
「こいつらをご覧ください。血にまみれ、苦渋に満ちた不幸な人生を送る、こいつらの姿を。これは神が川に流したせいです。こんなひどいことをする奴らの言うことなど、耳を貸してはなりませぬ」
光が揺れる。桃の香りが伸び縮みする。
壺が揺れる。蓋がかたかたと音を立てる。鬼は焼けただれた顔に笑顔を浮かべた。
だが、一瞬、鬼の口角が醜く吊り上がったのを見逃さなかった。
「いい加減なことを言うな!」
耳元で凱の大声が弾けたかと思うと、彼はもがくように鬼に飛びかかった。
鬼は壺を掲げたまま、驚いたような表情をする。その隙に凱は鬼の手から壺を奪い取った。
「小夜さん、これ!」
言われてはっと手を伸ばす。凱から壺を受け取り、抱え込む。鬼は両目を吊り上げて凱に掴みかかった。
受け取りはしたものの、どうしたらいいのか混乱する。凱は自分より二回りも大きい鬼と組みあっている。
今、彼はあたしに助けを求めていないだろう。あたしは壺の蓋を右腕でしっかりと押さえて走り出した。
「返せ! それは母なる女神のために捧げる大事な供物だ!」
「うるせえ! あたしは育ちが悪いんだ。お前の安っぽいお涙頂戴のしゃべくりなんかに騙されるほど、純粋じゃねえんだよ!」
叫びながらも振り返らずに走る。この先にはさっきの使いがいるはずだ。光が重くてなかなか前に進めない。それでも懸命に脚を動かす。
走りながら再び口を開く。
「都合のいい時だけ子供
あたし、何言っているんだろう、と思う。
奥様にわがままを言う坊ちゃんを説教するのとはわけが違うのだ。それでも、弱った女神につけ込んで『いのち』を食べさせようとする鬼に、一言言わずにはいられなかった。
振り返る。凱は鬼と掴みあっているが、鬼の方も動きづらいらしく、互角のように見える。
鬼の肌がめくれて焼けていく。
凱が声を上げた。
「女神様、いずこにおわしますかは存じませぬが、謹んで
おそらく「女神様、どこにいるかわかんないけど話すね」みたいなことを言っているのだと思う。
光が淡い橙色に変化する。
――あなたがいるのは、私の体内。
柔らかな振動に包み込まれる。その振動を感じたとたん、なぜか目頭が熱くなった。
震えるほどのぬくもりが心に広がっていく。
ここは女神の体内だったのか。
あたしは女神の姿を、神に似ている大きな女の人のように思い描いていたのだが、そうではなかった。女神は、あたしなんかが目で見られないくらい果てしなく大きくて、よい香りのする圧倒的な光なのだ。
光の向こうに、使いらしき姿がうっすらと浮かび上がる。こちらへ来られないのか、立ち止まって手招きをしているようだ。目頭に気合を入れて走る。
背後で凱が声を上げた。
「鬼の言うことは正しくありません。私は人間として生を享けて、この上なく幸せです。多少の面倒はありましたが、それらを覆いつくすほどに幸せです」
「あ、あたしも幸せです! 人より苦労はありましたけれど、その分いっぱい幸せを貰いました」
前を向いたまま口をはさむ。背後から鬼の悲鳴が聞こえたが振り返らず、使いに向かって壺を差し出すように腕を伸ばす。
「私たちが川に流されたことに関しましては、私からは何も申し上げられません。ですが」
使いの姿がはっきりしてきたな、と思った途端に強烈な光が視界を奪う。目を固く閉じ、動かない右手に気をつけながら腕を思いきり伸ばす。
「私は良き両親と友に恵まれました。そして小夜さんと巡り合い、人として
差し出した手がふっと軽くなる。
光の向こうから使いの声が聞こえた。
「この中に納められた魂は、ヒトの天に還します」
強烈な光を抜け、凱のもとへ走る。彼は、体中から煙を吐き出してくずおれる鬼から手を離した。
あたしに顔を向け、微笑む。
前に向きなおり、丁寧に頭を下げる。
「女神様」
ゆっくりと頭を上げる。彼の穏やかでありながら張りのある声が、光の中に満ちる。
「私を産んでくださり、ありがとうございます」
鬼の体から煙が吹き上がる。
鬼の絶叫は細くなり、やがて焼けた体と共に光の中へと溶けていった。
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