52 追走
あいつ、この時機を狙っていたのか。
手足が冷たくなり、心の臓が激しく動き出す。理屈を考える前に、体は鬼を捕まえようと動き出す。
おそらく、鬼は賭けに出たのだろう。
天と地を繋ぐ道はできたが、同時に多くの使いが鬼を捕らえにやってきた。そんな道を普通に進めば裁きの場に繋がっていることは、鬼なら想像できただろう。
それでもあの鬼は、何かを抱えて、あえて自分から飛び込んだ。そしてあたしたちを見つけ、後をつけ、女神の居場所につながる脇道に紛れ込んだ。
こんなの、無茶以外の何物でもない行動だ。光の道に飛び込んだって、脇道に進む使いを見つけられるとは限らないし、そもそも裁きの道しかないかもしれない。そして脇道の先に女神がいるとは限らない。
だけど、鬼は自分の賭けに勝った。
「凱、使いさんたち、あの鬼捕まえなきゃ! もし無理やり『いのち』を食わされちゃったら、女神様が危ないよ!」
鬼どもはずっと、女神に『いのち』を渡したかった。そんな中、あの鬼が抱えているものが、単なる武器や財宝の類とは考えにくい。
焦ってじたばたするあたしを、使いは呆れたように見下ろした。
「確かにこの先に女神はいますが、鬼一頭に倒されるほど弱くはありませんよ。第一、女神はヒトの魂を食べたりはしません」
「いや確かに普段はそうかもしれないけどさ。でも鬼がずっと女神様に『いのち』を供えていたってことは、どうしても食べさせたかったってことだよね」
『いのち』は、ヒトから奪った魂を集めたものだ。苦しみや悲しみに満ちた魂を、もし、もし……。
「はい。ですが女神は拒みますから、鬼は手の出しようが」
「『いりません』『じゃあ帰ります』で済むほど世の中甘くねえんだよ!」
あたしの人生で最大の無礼をやらかしてしまった、と心の隅で思う。だけどそれどころじゃない。あたしは凱と頷き合い、使いの腕を振り払うようにして飛び出した。
うぅわぁん、と体が曖昧な感触に包まれる。
風のような、水の流れのようなものに押されて体が流れる。あたしは凱と手を繋ぎ、足裏で空間を思いきり蹴った。
足裏に曖昧な感触を覚える。それと同時に体は鉄砲玉のように前に進み、使いたちを一気に引き離した。顔や肩が空気のような水のような抵抗を受ける。
後ろの方で使いたちが引き留める声を上げている。だがお構いなしに空間を何度も蹴り、鬼の後を追った。
「幼い風の神と風の神の使いよ、鬼を追うのは危険で」
「あたしらの危険なんかを気遣ってる場合じゃねえだろ!」
ああもう、
空間を蹴り、前に進む。凱と繋いでいない方の右手に違和感を覚えたので見てみると、さっき骨をやられた手首から下が、力なくゆらゆらと揺れていた。
凱が小さな声を漏らした。お腹に左手を当てている。手を離すと、掌にべったりとついた血が空間に糸を引いて流れていった。
その時になって気づく。
苦痛からは解放されているが、怪我が治ったわけではないのだ。
遥か前方を飛ぶ鬼を見据える。
空間を何度も蹴り、後を追う。
どのくらい飛んだだろう、やがて前方の鬼の姿がふっと消えた。
姿が見えなくなるほど引き離されたわけではない。かなり距離は詰めていたはずなのに。
「鬼、どこ行ったんだろ」
「とりあえず姿が消えたあたりまで、このまま進みましょう」
とはいえ、あたりには距離の目安になるようなものがなにもない。凱の言う通り、とりあえずこのまま空間を蹴って飛んでみる。振り返ると、あたしたちを抱えてくれていた使いたちが、翼をはためかせてこちらに向かっていた。
そうだ、あとで使いたちには額を床に擦りつけてお詫びしなきゃ、と思いかけた時、強烈な光に襲われた。
あまりのまばゆさに手で顔を覆う。光は手も瞼も通り抜けて瞳を襲う。熱にも似た光の刺激で涙がにじむ。
だがそれは長くは続かなかった。少しずつ光が落ち着いてきたので、そっと手を外して前を見る。
そこにあったのは、ただ、ひたすらに、光だった。
今まで通っていた道も光に満ちていたが、ここに満ちている光は、今まで見てきた光とは明らかに質が違う。敢えて言葉にするならば、光の密度が濃く、ずっしりとした質感を伴っているのだ。
白、薄黄色、橙色。光は息をするように移り変わり、あたしの体を圧迫する。
鼻に力を入れて息を吸う。すると、むせかえるほど濃密でたまらなく甘く華やかな桃の香りが、体中に染み渡った。
光の向こうに鬼の姿が見える。
凱と一緒に脚を踏み出す。ゆっくりゆっくりと光をかき分けながら、前に進む。
鬼は黒い壺を頭上に捧げて跪いていた。
「ああ、おいたわしや母なる女神よ。こんなにも苦しみ衰えているとは」
鬼の口から出てきたとは思えないような台詞だが、焼けついたような荒れた声はいつものものだ。
たいした距離ではないので、跳びかかって捕まえてやりたいが、思うように前に進めない。あたりにはあたしと凱、鬼しかいないが、鬼の口ぶりだと近くに女神がいるらしい。早くしなければと気ばかりが焦る。
桃の香りが毛穴の一つ一つから入り込み、あたしを包む。
「わしらはずっと、自分たちのしでかしたことを悔いていたというのに、裁きの神々は、わしらを消すことしか考えておりませぬ。立ち直ることも、やり直すことも拒まれたのです」
何適当なことをぬかしやがる、と心の中で叫ぶ。鬼は少し頭を動かしてあたしたちを見た後、上を向いて唇を震わせた。
「どうせ赦してもらえぬのならと、地に堕ち、肉を得ました。しかし住む島は岩ばかりで草木が生えませぬ。わしらはヒトの魂や食い物がなければ生きることができぬのです。神もヒトも、わしらを鬼と呼びますが、決して好き好んでヒトに危害を加えたわけではないのです」
「お前、いい加減にしろよ!」
鬼に向かって叫んだ途端に、光と香りが押し寄せてくる。鬼はあたしを見て軽く睨んだが、すぐに悲しげっぽい表情を浮かべて上を向いた。
「母なる女神よ。わしらは苦しい生活の中で、生きるすべを必死になって探っておりました。そうしてようやく作り出したのが『いのち』です」
黒い壺を掲げなおし、頭を下げる。
「この中には、ヒトから頂いた魂を溶かした『いのち』が入っております。神として生を
そう言いながら壺の蓋に手をかける。凱が手を伸ばした時、全身が振動に包まれた。
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