2 日が落ちると鬼が出る
お屋敷の裏門をくぐろうとした途端、
明らかに機嫌が悪い。眉間に皺を寄せ、どすどすと裏門のあたりを歩き回っている。正直、長様のことが少し苦手なので、普段はなるべく会わないようにしているのだが、お屋敷の入り口にいられては仕方がない。もごもごと挨拶をして、気配を消しながら前を横切る。
「なんだ小夜、帰りが遅い。寄り道したのか、子供たちを放っぽって」
体格に不似合いな甲高い声で叱咤される。別に放ったつもりはないのだが、帰りが遅くなってしまったのは事実だ。地面に手をつき、額をこすりつけて詫びる。長様はふんと鼻を鳴らした後、顔を上げた私を見下ろした。
「お前といい、出水の
いきなり出てきた「出水の子倅」の言葉に、思わず反応してしまう。
「出水の小倅」といえば、凱しかいない。
「出水様、ですか」
「そうだ。出水の爺め、自分じゃ
甲高い声で怒鳴りちらしているうちに、あたしへのお叱りの気持ちはさめたようだ。今の時機を逃してはならない。急いで頭を下げ、お子様たちの部屋に向かう。
「ソトの者」。
長様の言葉を思い出し、むかむかと黒い怒りがお腹にたまる。
あたしも凱も、この村の生まれではない。凱はあたしと同じで、赤ん坊の時、川に流され捨てられていたのだ。
あたしたちに限らず、口減らしで子供が捨てられるのはたまにあることだ。だが彼とあたしとは違う。彼を拾ったのは、この村の出水の奥様だ。
だから凱は赤ん坊の頃からずっとこの村にいる。それを「ソトの者」なんて言って差別するのはばかげている。
さっきの長様の様子だと、どうせ凱の理路整然とした陳情をうまく突っぱねられなかったのだろう。そんなの、貢物の上前を撥ねまくっている自分が悪いんじゃないか。
でも、そんなことは絶対に口にも態度にも出さない。なんだかんだ言っても、長様のおかげで、あたしはちゃんとした亜人らしい暮らしができているのだ。
この暮らしのためなら、土下座だってするし、好きな人の悪口だって聞き流す。
「強くなりたい」
廊下を歩きながら、口の中で呟く。
わかっている。
「強くなりたい」は、「私は弱い」と同じ意味だ。
お屋敷の外に飛び出した坊っちゃんたちを追いかけ、正門をくぐって全力で走る。
「坊っちゃん、危ないですよ。日が落ちると鬼が出ますっ」
「いいじゃんかよう。外のが楽しいだろ」
「お庭でいいでしょうっ」
「外のほうが広いんだもん」
いやいや絶対庭のほうが広い、と言っても仕方がない。坊ちゃんたちはお屋敷の人たちの視線を窮屈に感じているのだ。
だから昼間なら、多少遊びの時間が過ぎても気がつかないふりをしてあげたりするのだが、今はそうもいかない。夕方過ぎの外出は危険だ。多少手荒な真似をしてでも、坊ちゃんたちをお屋敷の中に閉じ込めなければ。
「あの時」のことが脳裏に甦る。
仄暗く蒼い空から冷たい雨が降っていた。
飢えと雨が命の熱を奪い、手足を動かすこともできない。翼の腐り落ちた背中の傷が疼く。ぬかるみと自分の体の境目が曖昧になる。
ああ、ゴミはこうやって土に還るんだな、と思う。
自分の体と一体になった地面が揺れる。地鳴りが聞こえる。
いや、地鳴りではない。大きな大きな足音だ。
ダッダッダッダッ、と地面が揺れる。
バシャバシャバシャ、と音が大きくなる。
微かな悲鳴。冷たい雨。
目の前が暗くなる。
鬼が、ぎょろりとした目であたしの顔を覗き込む。
「あの時」の記憶を断ち切り、あたしは追いかけっこを始めようとしていた坊ちゃんの一人の襟首をつかみ、思い切り引っ張った。
「うわっ
「危ないから! 外に出るなって言ってんだよっ!」
礼儀がどうとかなんて言っていられない。失礼を責められたら、あとでいくらでも謝ればいい。今はなんとしてでも坊ちゃんたちを門の中に入れなければ。
「なんだよ、小夜の鬼婆!」
「鬼婆上等だよ。ガキがこんな時間に外に出るんじゃない。本物の鬼に食われたらどうするんだよ!」
そうだ。「あの時」、鬼共は言っていた。
――メガミに食わそか、わしらで食おか……。
もう一人の襟首を掴む。あたしの剣幕に押されて、よちよち歩きの末の坊ちゃんが泣き出す。立ち止まって泣き続ける坊ちゃんを目で威嚇して中に入るよう促す。
別に日が落ちたからといって必ず鬼が出るわけではない。だがもし鬼が出たら、まっさきに
ほとんど仕事をしていない下男が、門の前でへっぴり腰で手招きをしている。あたしは襟首をつかんだ坊ちゃんたちを下男に渡し、座り込んで泣いている坊ちゃんを連れ戻そうと後ろを向いた。
遠くから微かな悲鳴が聞こえる。
ダッダッダッダッ、と地面が揺れる。
手足が冷たくなり、足がすくむ。
通りの角から、二つの影が躍り出る。
「坊ちゃん!」
すくむ脚に力をこめ、駆け出す。坊ちゃんを抱え、立ち上がる。鬼はあたしたちめがけて走ってくる。脚がもつれる。鬼が近づく。下男は門に隠れるようにしてこちらを見ている。腕の中で坊ちゃんが暴れだす。下男に向かって坊ちゃんを放り投げる。下男はなんとか坊ちゃんを受け止め、あたしの目の前で門を閉める。
閂のかかる音が聞こえる。
地面の揺れが止まる。
振り向く。
鬼が、あたしに向かって手を伸ばす。
それと同時に、あたしは懐に隠し持っていた小刀を抜き、伸ばされた手に向かって大きく振った。
刃は鬼の掌を薄く切っただけだが、鬼は驚いたように手を引っ込めた。その隙に一歩踏み出す。大刀を持っているのは一頭だけだ。奴の手首めがけて小刀を振る。
空振りだ。
大刀を持っていない方の鬼があたしの小刀を持っている方の手首を掴む。もう一方の腕をあたしの首に回す。太い指があたしの顔の前に来る。その指に思いきり噛みつき、食いちぎるように引っ張る。
鬼の力が緩んだ。腕の中から逃げ出し、小刀を振る。今度は腕を少し切れた。鬼が小さなうめき声を上げる。小刀を持ち直し、構える。鬼を睨み、お腹に力を入れ、喉を引き裂くように叫ぶ。
「うおおおおおおっ!」
大刀を持っていない鬼が腕を動かす。その時、大刀を持っている方の鬼が「しっ」と呟き、その動きを制した。
「こいつは、面倒だ。捨て置き、他を探そう。もっといのちの強そうなものを」
焼けついたような、荒れた声。もう一方の鬼が軽く頷く。
あたしに背を向け、走り出す。
ダッダッダッダッ、と地面が揺れる。
音は徐々に小さくなる。鬼は坂を下り、視界から消える。
脚の力が抜け、その場にへたり込む。
心の臓が痛い。息がうまくできない。額から汗が噴き出す。小刀を持つ手に力が入らない。
這いながらなんとか門にたどりつく。
「開けて……ここ、開けてください……」
何度叩いても誰も出てこない。あたりは静まり返っている。あたしはなんとか立ち上がり、塀を伝いながら裏門へと向かった。
早く、早く中に入らないと。
さっきの鬼が引き返してくるかもしれないし、別の鬼が来るかもしれない。
もしそうなったら、気力を使い果たしたあたしは、何もできない。
――メガミに食わそか、わしらで食おか……。
そうだ。今は「あの時」みたいに、凱が助けてくれるわけではないんだ。
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