月と蜂蜜―飛べない鳥、鬼を討つ―

玖珂李奈

1 強くなりたい

1 翼のない鳥

 強くなりたい。

 あたしは翼を失った鳥人。だから強くなければ独りで生きていけない。




 あたしの拳を顔面に受け、男はひっくり返って頭を打った。

 男の明るい色の着物と、絶壁頭にちんまり結った髷が泥にまみれる。ここは村の中でも人通りの多い場所だ。行き交う人々は足を止め、遠巻きにしながら面白そうにこちらを見ている。お遣い途中らしいうちの使用人仲間が偶然通りかかり、あたしを見て顔をしかめた。


「いっ、てえ! なんだこのアマ!」


 男は立ち上がり、後頭部をさすりながら怒鳴り散らした。


 こいつ、見たことのない顔だ。身なりからしてこの村の者ではない。おそらく町人か、村に来て間もないのだろう。だとしたらあたしの見た目につられて、余計なちょっかいを出してきたのも仕方がないのかな、とは思う。

 だが小柄で痩せっぽちで弱々しい見てくれだからって、なめてもらっちゃ困る。「あの時」以来、鍛え続けている拳を再び握り、構えながら声を張り上げる。


「ふざけんなよ、誰がお前の安っぽい誘いなんかに乗るもんか! それに言っただろ、あたしは鳥人だよ。人間の男なんかに用はねえ!」


 自分の言葉にひりひりと痛む胸を押さえ込み、男を睨む。


「鳥人だあ? じゃあ翼とくちばしはどうしたんだよ。適当なこと言いやがって」


 男の言葉に唇を噛む。嘴のないあたしの唇は、歯に挟まれて柔らかく歪む。

 あたしだって好きで人間と同じ外見をしているわけじゃない。嘴がないのは生まれつきだが、かつては真っ白できれいな翼があったのだ。

 見世物小屋での過酷な日々に耐え切れず、腐り落ちてしまった翼。あれさえあればこんな人間の男にちょっかいを出されたりしなかったのに。


 翼さえあれば鳥人としての自分を常に意識できていただろうから、あんな想いに囚われなかったのに。


「まあいいや。お前みたいなガラの悪い畜生女に用はねえ。今日のところはこのくらいで許してやる」


 男はあたしに向かって唾を吐き、去っていった。

 野次馬が男になんとなく道を開ける。男は野次馬を目で威嚇しながら、ぶつぶつと何かを呟いていた。絶壁頭の髷が、泥を含んで物悲しげに揺れている。


 許してやる、って、偉そうに。それはこっちのセリフだよ、という言葉が頭に浮かんだが、口にはしなかった。

 男の姿が小さくなる。

 そこで初めて、自分の両脚が震えていることに気がついた。


 脚だけじゃない。強く握った拳もだ。心の臓が激しく動いている。手足の先が冷たくなっている。

 情けない。あたしは、あんなしょうもない奴が、こわかったのだ。


「いやあねえ、小夜さよちゃん。はしたないよう。おさ様の体面も考えなよう」


 離れたところからあたしを見ていた使用人仲間が、ちらちらと周囲を見回しながら近づいてきた。あたしは拳を下ろし、黙って頭を下げる。

 彼女はあたしを見て軽く頷き、自分の白くてふわふわした三角形の耳を、手でちょんちょんとつついた。


「じゃあねえ」


 お遣い帰りに逢瀬の約束でもあるのか、軽やかに去っていく。

 いつの間にか野次馬の姿も消えていた。あたしは首を大きく横に振り、さっきまでの事を頭から追い払う。

 さて、お屋敷に帰って仕事だ。


 


 この村に落ち着いてから、どのくらい経つだろう。あたしは今年十八になったから、少なくとも五年は経っているはずだ。


 村へ来る前は、見世物として色んな町や村を引きずり回されてきた。

 亜人は人間より数は少ないけれど、色々な種類がいる。でも犬人だの猿人だのと違い、鳥人はめったにいない。しかもあたしには嘴がない。あたしを拾った見世物小屋の親父は、いいもんを見つけたと思ったことだろう。

 珍しい商売道具が川から流れてきた、と。

 どうやらあたしは、赤ん坊のころ、箱だか船だかに乗せられて、川に捨てられていたらしいのだ。


 あたしの人生、出だしからしてろくなもんじゃない。

 でも、出だしが似たようなものでも、その後の運に大きな差がつくことだってある。

 もし、あたしが嘴のない鳥人じゃなかったら。

 人間だったら。

 そうしたら。


 考えても仕方のない「もし」が、頭の中を何度も巡る。


 


 頭を切り替え、よし、と気合を入れる。これからお嬢ちゃんと坊ちゃんのお世話が待っているのだ。


 あたしがお世話になっているのは、この村で一番偉い「おさ様」のお屋敷だ。長様には八人のお子様がいる。皆、いい子ではあるのだが、いたずら盛りで威勢のいい子供が八人で固まると、やはりそれなりにそれなりだ。

 とはいえ、見世物小屋時代を考えれば贅沢な悩みというものだ。背中に切れ込みが入った鳥人用の着物の間に手を入れられ、翼の傷跡をぐりぐりされても笑顔で返すくらいの余裕はある。

 急いで帰らないと。もうすぐ昼八つになる。


 


 春のはじまりの空は、蜂蜜色の柔らかな光に包まれている。

 あたしはこの光の色が好きだ。夏の鋭く白い光も、夕方の茜色の光も好きだが、冬の寒気に打ち勝つ強さを秘めながらも、穏やかに優しく空を包み込む蜂蜜色の光が好きだ。


 いとしい光を全身に浴び、空を見上げ、笑みがこぼれる。

 あたたかな風がふうわりと吹き抜けてゆく。

 視線を移す。

 蜂蜜色の輝きが視界に飛び込む。


 途端に胸が激しく収縮し、頬と頭に血が上る。


「なにか、良いものが見えましたか」


 低く、ゆったりとした声が耳を撫でる。


「とても優しい笑みを浮かべていましたから」


 声の主は、そう言って蜂蜜色の目を細め、微笑んだ。


 すっきりとした立ち姿。仕立ての良い着物にきっちりと結った髪。その髪は瞳と同じ蜂蜜色だ。

 春の光が髪と瞳に溶け込んだみたいだ、といつも思う。


「別に……なんでもないよ。ただ、空が、綺麗だなあって」


 空が、綺麗だなあって。

 空の光が、綺麗だなあって。

 蜂蜜色の空の光が、まるで、あなたのようで綺麗だなあって。


 彼は空を見上げ、眩しそうに手をかざした。


「もうすっかり春の空ですね。日差しが穏やかで優しい」


 私を見て、微笑む。


「まるで小夜さんの笑顔みたいです」


 なんの前触れもなくいきなり炸裂した爆弾をもろに受け、息が止まる。

 いや、大丈夫大丈夫。この人はこういう人なのだ。出水いずみ家のぼんぼんのくせに誰にでも丁寧な口調で、返事に困るようなことをつるつると喋る。そうわかってはいるけれども、毎回息が止まってしまう。そんなあたしを見て、彼の背後にくっついているお付きの亜人二人がくすくすと笑っていた。


がいさん、小夜に向かってそりゃ褒めすぎ通り越して嫌味でしょうよ。こんな気性の荒い女に向かって優しいとか」


 お付きの一人、猿人のえんがそう言って歯をむき出した。

 腹が立つが、焔の言う通りだ。私は何も答えず、俯いて速足で三人の前を通り過ぎた。


 


 三人の姿が見えないところまで歩き、息をつく。

 胸はまだ騒いでいる。頬はまだ火照っている。

 そんな自分に、悲しくなる。


 凱は人間だ。しかも長様の家に次ぐ大きさの、出水家の跡取り。いつもお付きとつるんでふらふらしているが、あたしと同じ十八だから、そろそろ嫁を取って腰を落ち着けるのだろう。

 あたしとは違う世界の人だ。


 俯く。春の光がうなじにぬくもりを落とす。

 柔らかなぬくもりがひりひりと心に突き刺さる。



 強くなりたい。

 大きな体と鋭い嘴と立派な翼を持った、強く逞しい男になりたい。

 そうすれば。


 どうでもいい男にちょっかいを出されたり、凱への想いで苦しんだりせず、たとえ鬼が襲ってきても、恐れず立ち向かうことができるのに。

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