17 月の雫(1)

 火の勢いは徐々に弱まり、それとともに月の白さがあたりを満たす。


 凱は一度伸びをすると、憲の荷物の中から包みを取り出した。両手に乗るくらいだが、いかにも重そうだ。

 中から出てきたのは大小さまざまな石だ。地面の上に布を敷き、丁寧に広げる。透き通っていたり鮮やかな色だったりするこの石は、村に古くから伝わる治療術で用いる、治療石だ。

 これを温めて体に当てたりして、体内の水や火の「気」というものを整える。あたしも、出水の奥様にこれで助けてもらった。


 石は月の光を浴びて、ただの反射とは違う、不思議な輝きをたたえていた。


「なにしているの」


 石を並べ終えた凱は、振り返って微笑んだ。

 彼の髪も、肌も、月の色に光っている。


「月の光で、石を清めているのです。今日は石の近くで殺気を放ってしまいました。そうすると石が邪気を吸い込んでしまうので、こうして月の光を浴びさせるのですよ。人によっては、石から出る『気』が視えます」

「へえ。あたしはよくわかんないや。なんか表面の艶とは違う、ぼわーっとした輝きっていうかなんかは出ているみたいだけど」

「それです。小夜さんも視えるのですね」

「どうなんだろう。あたし、わりと目がいいんだよ。そのせいかなあ」


 石たちは、月の光を浴びて、なんだか楽しそうだ。


 空を見上げる。煌々と輝く月を見ていたら、不思議と悲しくなってきた。

 どうしてなんだろう。月の白い光は、あたしの心の暗い部分に踏み込んでくる。


「凱」


 凱に顔を向ける。あたしの声に彼が微笑みで答える。その微笑みがあまりにいとおしくて、あたしは顔を逸らし、再び月を見た。


「凱は、太陽みたいだ。月とは違う。こんなに悲しい光じゃないもん」


 右の掌を月にかざす。掌の真ん中から、自分を縛り覆っていたものが、空に向かってすうっと抜けていくような感覚を覚えた。

 凱は自分の髪に触れた。


「人間には珍しいこの髪と瞳の色が、昔は好きではありませんでした。でも、これを太陽と喩えてくださる方がいるので、今では悪くないと思えています」

「うん。まあ、その髪と瞳もそうなんだけどさ、それだけじゃないんだよ、なんていうか」


 自分を縛り覆うことで、かろうじて抑えていた何かが、あたしの心の中で立ち上がる。

 月の光に覆いを剥がされ、心のかけらがころりと唇から零れる。


「凱が、凱そのものが、太陽みたいなんだ。明るくて、あったかくて、優しくてさ」


 普段だったら恥ずかしくて決して言わないようなことを、なぜか今夜はするりと言えた。

 太陽の光。その明るさと優しさは、時に激しい熱となるけれども。

 凱は視線を落とし、自分の両手を見つめた。


 心のかけらが、また一つ零れて唇を震わせる。


「太陽の女房になれる、あんたの将来の奥様は幸せ者だね」


 自分の発したその言葉が、鋭いやいばとなって胸をえぐる。

 なんでこんなことを言ったんだろう。彼に向かってにこにこと笑い、傷をさらに広げる。


 薄い雲がかかるように、凱の微笑みに影が宿った。

 かろうじて口角だけはわずかに上げたまま、あたしから目を逸らし、空を見上げる。


 言葉が途切れ、静かさがのしかかる。

 風が吹く。それはとても弱々しく、静かさがなければ気がつかないほどに微かだった。

 静かさの重みに耐えられなくて、考えがまとまらないまま何か話そうとしたとき、凱がふっと息をつき、口を開いた。


「私は、妻をめとりません」


 言葉の最後を強めに言い切り、口を閉じる。

 その言葉を聞いた時、あたしの心の中に、一つの声がよみがえった。


 ……いや、違う。そうじゃない。

 あれは違うんだ。


 自分の心から顔を背けるために適当なことを言ってみる。


「えー、なんでよ。そうしたら出水の家はどうするのさ」

「私だって、両親から生まれたわけではありません。跡継ぎならなんとでもなります」

「縁談、は、あるの?」

「はい。隣町の大きな問屋のお嬢さんなのですが、父がとても乗り気で。『断る』『だめだ』の言い争いに決着をつけることができないまま、ここに来てしまいました」


 凱はあたしを見て、困ったような笑みを浮かべた。


「覚えていらっしゃいますか。私たちが長様のお屋敷に伺ったとき、言い争っていたのを小夜さんに見つかってしまいましたね」

「んん、と……ああ、あれかあ」


 思い出した。普段穏やかな旦那様が、珍しく声を荒らげていたから、どうしたんだと思ったものだ。

 あれは、凱が縁談を断っていたのか。


「なんでよ。旦那様が乗り気ってことは、その子、いい子なんでしょ」


 心の奥の叫びを大きな声で潰し、自分の傷をひたすらえぐる。


 あれは違うんだ、の声を、心の中で何度も繰り返す。

 焔が遠回しに言っていたのは、あくまで焔の考えだ。本人がどう思っているかなんてわからない。いや、そもそもあたしが焔の遠回しな言葉を誤解しているのかもしれない。

 だから下手なことを考えちゃいけない。あたしの想いは一方通行だ。当たり前じゃないか。それでいいんだ。


 凱はひとつ呼吸を置いた後、曖昧な笑みを浮かべて頷いた。


「先方に問題があるわけではないのです。これは、私なりの誠意です」

「誠意。断るのが誠意?」

「そうです。これからの人生で、決して愛情をいだけない人は娶れない」

「なんでよ。まだわかんないじゃない」


 凱から「確かにまだわかんないか。じゃあ縁談受けようかな」という言葉が出てきたらこわい。こわいけれども、出てこなくてもこわい。


 あたしの想いは一方通行なんだ。そうに決まっている。ここで彼が縁談に前向きな気持ちになったら、たぶんあたしは傷つくだろう。だがそれでいいのだ。

 そうしたら、これから心おきなく彼の幸せを願いながら、彼の盾になれる。


 自分の心の声に、勝手に目の奥が熱くなる。

 その熱とともに、さっき焔が山道で話していた言葉が頭の中によみがえって響く。

 くっきりと。


 ――どういうつもりか、お前なんかのことを心の底から惚れぬいていて、せっかくの縁談を切り捨てて父親に怒鳴られている人もいる……かもしれない。


「いいえ。わかります」


 凱の声が強くなる。

 白い光が彼に向かって降り注ぐ。


「私には、五年ほど前からずっと、心の全てを捧げてお慕いしている人がいるのです」


 あたしの瞳を見つめる。


「ですが、仮に想いが通じたとしても、その人を娶ることはできません。それは、愛しい人を禁忌の沼に沈めることになるからです」


 月に染まった蜂蜜色の瞳が、ためらうように揺れ、そしてまたあたしを真っすぐに見つめる。


「だから私の想いは一方通行のままでいい。そうして彼女の幸せを願いながら、彼女の盾となれればそれで充分なのです」


 そう言って一度目を伏せ、静かに微笑む。


 風が吹いている。

 空からしんしんと降り積もる月の光は、明け方の霧の匂いがする。


 どうしてだろう。

 凱の言葉を聞いて、その微笑みを見て、あたしの胸の中に広がったのは、ひんやりと冷たい悲しみだった。

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