39 上陸
頬を何度か叩いて気合を入れる。神のこととか、魂のこととか、自分が人間だったこととか、神に向かって最後に打ち上げた凱の話とかに、想いを馳せていられない。舟は緩やかな波に乗って、鬼ヶ島へと近づいている。
凱が目を覚ました。あたしを見て微笑んだ後、島を睨む。
「レオンさん、起きてください。鉄砲や火薬の状態はどうですか」
凱に肩を揺すられて目を覚ましたレオンは、飛び跳ねるように体を起こした。
「だ大丈夫です。濡れていませんし、なくなっていません」
振り返り、怯えたような顔で凱とあたしを交互に見る。
「刀も大丈夫です。あ……風の、神様」
その言葉に、凱は眉をへの字に下げて微笑んだ。
「いえいえ、私はただの人間ですよ。それにしても、先ほどは不思議な体験をしましたねえ」
この場に合わない呑気な声を上げ、芝居がかった欠伸をする。
そういえば、凄く深く長い眠りから覚めたような感覚だ。それこそ、あの瑠璃色の中や神が全て夢であったかのように。
焔や憲も目を覚ました。二人ともしばらくぼんやりとしていたが、鬼ヶ島を目にとめ、表情が変わる。
島にどんどん近づく。巨大な岩があたしたちを威嚇する。
そんな、これからという時なのに、あたしは自分の体が不調を訴えているのに気がついた。
背中の傷痕が疼く。とっくに塞がっているはずの傷痕から、じくじくとした嫌なものが滲みだす。
胸も痛い。息がうまくできない。そんな自分にいらいらする。
不調から目を逸らそうと頭を振り、凱を見ると、彼は苦しそうに胸を押さえ、何度か大きく息を吸ったり吐いたりしていた。
「小夜さん、わかりますか。この邪気」
「わかんない。ごめん今、ちょっと調子が良くないんだ。背中の傷が気持ち悪いし、胸が痛い」
「それはおそらく、邪気に
心配そうに顔を覗き込む。
「邪気」がどんなものかわからないから、今一つ実感がわかない。だが、そういわれれば一つ、思い当たることがある。
あたしは治療石の気が視えたり、石の気に痺れたりする。「気」としては正反対のものだけれど、もしかしたらあれと同じように、知らず知らずに邪気を受け止めているのかもしれない。
あたしの、魂が。
腰に刀を
目を閉じる。胸の痛みや背中の疼きを、ばちんと跳ね飛ばしているところを想像してみる。すると少しずつ調子が戻ってきた。
それだけではない。邪気を跳ね飛ばしたのと同時に、体の奥に眠っていた何かが目を覚ました。強い力の渦が、お腹の中で回り始める。
よし。
あたしの魂――「風の神の使い」の魂が、白く、強く輝くさまを思い浮かべる。
体の中に光が満ちる。光は風となって体の中を駆け上がり、頭のてっぺんから勢いよく吹き上がる。
凱があたしを見て少し身を引いた。そして近づき、手を握る。
硬い掌から、びりびりとした痺れが伝わってくる。痺れはあたしの中の風と交じりあい、大きく大きく膨れ上がる。
舟が大きく揺れた。
突風が髪を乱し、海面に鱗を作って渡っていく。
鬼ヶ島へ。
瑠璃色の中では実感しきれなかった想いがあたしを満たす。
あたしの魂は、風の神の使いだ。
あたしの魂は、風の神の使いだ。
鬼ヶ島が目の前に迫る。
強くなれ、あたし。強くあれ、あたしの心。
いとしい人を守るために。
そして、それがヒトの世を守ることになるならば。
強く。
三艘とも島に着いた。
着いた場所が到底登れない崖だったので、おもちゃみたいに貧相な櫓で、上陸できそうな岸までちょこちょこと進む。
「なんだよ小夜。もうちょっとあっちに向かって風吹かせてくれたらよ、こんな面倒なことしないで済んだのに。神様の使いのくせに詰めが甘いな」
「文句があるんなら風の神様に言えよ」
「無理言うなよ。親しき仲にも大人の事情だ」
人を小ばかにしたような焔の言葉がありがたい。あたしたちのことをこの程度に扱ってくれないと、これから始まる鬼退治で皆が一体になれない。
岸に着いた。空を見上げると、あたしたちのいる場所からかなり離れた所から、鬼が二組飛び出しているのが見えた。
鬼の気配はない。この辺り、鬼に見つかりにくい場所なんだろうか。運がよかったのか海の神の計らいなのかはわからないが、まずはよかった。
上陸する。岩の感触が草鞋を通して伝わる。ここは鬼ヶ島だ、という言葉が、岩の感触と共に這い上がってくる。
「憲、どうしました」
凱が憲の肩に手を置いた。憲は俯き、微かに震えている。
「おいおい憲、大丈夫かよ」
「う、うん。ぜ全然なんでもな」
言い切らないうちに何度か咳込む。
「ねえ憲。そういえば朝からよく咳していたよね。風邪ひいたんじゃないの?」
「ん、大丈夫。大丈夫だよ。ちょっと喉がおかしいだけ」
憲はもともと中途半端で変な声だが、今日は特におかしい。まさか、夜中にお湯を浴びたせいで、風邪をひいたんじゃないか。
あたしたちに気を遣ったせいで。
「もし具合悪いんだったら、どこか物陰で休んでいたほうがいいんじゃない?」
「やだよ。大丈夫だもん。僕だって戦うんだ。僕は臆病じゃない」
臆病なんて誰も言っていないのに、そんなことを言う。
「僕は臆病じゃない。僕はこわくない。これは正義なんだ。世のため人のため出水家のために、僕は戦うんだ。こわくない。こわくなんかないんだ。僕は強いんだ」
誰に向かって言っているのかわからない呟きが、彼の恐怖心をはっきりと物語っている。
しかたのないことだ、と思う。ここは鬼ヶ島だ。今までとはわけが違う。
こういう時はどうしたらいいのだろう。勇気づけの言葉を言っても薄っぺらくなりそうだし、変に煽ると、彼の性格からして、真に受けて冷静な行動ができなくなる気がする。
だから黙って背中を叩いた。不安定に揺れる瞳であたしを見たので、ゆったりと微笑んでみる。
筋肉の盛り上がった広い背中は、凱や焔といった大人の背中よりも、ずっと立派に見える。だが彼は十二歳で、心は大人の入り口に片足を突っ込んだくらいなのだ。
「小夜姉」
消え入りそうな声でそう言ったので、あたしは何度か軽く背中を叩いた。最後に拳でどつく。
「なんだよいきなり! 痛いなあもう」
その声は、いきなりの暴力に対する驚きの響きしかなかった。恐怖の響きが消えたので、いたずらっぽく見えるように、にっこり、と微笑んでみる。
他の舟に乗っていた人たちが集まってきた。凱とロンが中心となって、軽く話し合いをする。
とはいえ、ここまで来たら、あとは自分なりの精一杯の力を出して鬼退治をするしかない。そして、神の道が開けるのを信じるしかない。
ロンが不安げな表情で凱を見た。
「私は神様に失礼のことを言いました。神様は怒っているだろうと思います。神様は道を開いてくれるでしょうか」
凱は微笑んで首を振った。
「ロンさんの言葉が皆を思ってのものだということは、わかってくださっていますよ。海の神様は『神様』なんですから」
「神様、だから。神様……出水さんも、神様」
「いえいえ。私は」
いきなりあたしの肩を抱き、ぐっと引き寄せる。
「千年の命よりも小夜さんへの恋慕の情を取るような、俗な人間ですよ」
にこにことあたしを見る。
自警団の人たちの野太いどよめきが響く。
顔じゅうから火が噴き出す。心の臓が破裂する。額から変な汗がじわじわと滲む。
もう、舌の動かし方がわからなくなって、言葉がうまく出ない。
「さあ、行きましょう。まずは鬼が多くいる場所、それと攫われた人たちの居場所を探すことですね。鬼退治の流れ弾が当たったりしたら大変です」
周囲の盛り上がりとあたしの心を置いたまま、さっさと歩きだす。
今のは、単に浮かれて言っただけなのか、過度に緊張した雰囲気を和らげるために言ったのかはわからないが、さすがに一言言っておかねばと、凱の耳に顔を寄せる。
「ちょっと。いくらなんでもあれはないだろ。恥ずかしいよ」
「そうですか? だって嬉しいじゃないですか。小夜さんへの想いを、堂々と言えるのですから」
だめだこりゃ。もう、こういう人を好きになっちゃったんだからしょうがない、と諦めるしかない。
あたしがため息をつくと、彼が顔を寄せた。
「でも今は、小夜さんに一番伝えたいことは、言いません」
あたしが彼の目を見ると、そっと微笑んだ。
「それを伝えるまでは命を落とすわけにいかない、という、励みにします」
もう一度微笑む。
顔を上げ、前を向く。
微笑みは消え、蜂蜜色の瞳に鋭い光が宿る。
風が吹く。あたりの邪気を切り裂くような、鋭くも清らかな風。
緩やかな坂を上っていく。
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