58 【最終回】翼ではなく、私たちは

 鬼ヶ島から戻り、この町でお世話になっている間に、いろいろなことがあった。


 鬼ヶ島にいた人たちは、少しずつそれぞれの道を歩き始めた。

 自分の村へ帰ることのできた人もいるが、大半の人はこの町で療養したり働いたりしている。

 静流は、子供と一緒にこの町に留まることになった。

 働きながら一人で子供を育てるという。正直なところ不安しかないが、きっと町の大人たちが手助けしてくれる、と信じている。


 そして。

 焔は村に帰らず、みさをさんとこの町で所帯を持つと決めた。

 あたしたちはその話を、焔とみさをさんの寝起きする部屋で聞いた。皆で床に座り、焔とみさをさんは並んで寝台に座っている。

 部屋は暖気に満ちていたのに、心の真ん中に冷たい匂いのする風が通り過ぎる。


「確かにそうせざるをえないかもしれませんが、しかし……」

「凱さん。これが出水家への不義理になるのは重々承知です。旦那様や奥様には申し訳ない気持ちでいっぱいです。でも、村の奴らの視線くらいならなんとか無視できますが」


 焔は支え棒を何本も巻き付けた自分の左脚をさすった。


「この脚で山を越えるのは、一生無理でしょう」


 凱が黙って俯く。

 今後焔の左脚が動くことはないそうだ。幸い、あまり歩かなくてよい鉄砲職人としての働き口があったので、食べるのに困ることはないそうだが、出水家へも、実家へも、帰ることは叶わない。


「焔、一緒に帰りたかったよ。お別れなんてやだよう……」


 半べそをかき始めた憲に向かって、焔は笑って身を乗り出し、憲の頭をわしわしと撫でた。


「だからよ、そんなでかい図体でべそかいても可愛くねえんだよ。確かに俺は村へ帰れねえけどさ、お前、またこの町に来てくれるだろ。っていうか、来なくちゃなんねえだろ」


 顔を上げた憲に向かってにやりと笑う。


「落ち着いたら、またこの町に来てくれよ。俺の子も自慢してえしな。まあ、お前からすれば、俺よりも会いたい子がいるだろうし」


 焔とみさをさんが揃って憲に微笑みかけた。


「憲。今よりもっといい男になって、静流に会いに来い。それまで俺とみさをで、静流に変な虫がつかないように見張っていてやるからよ」




 この町で過ごしてちょうどひと月。明日、あたしたちは村へ帰る。


 凱の心と体の具合は、かなり良くなったようだ。一時はどうなることかと思うくらいにやつれてしまったが、憲によると今は多少眠ることができているらしい。それで治療師から「帰ってもよい」という許しが出たのだそうだ。

 そんな彼に対して、あたしのできることはほとんどなかった。ただそばにいて、話を聞き、徹底的に寄り添っただけだ。


 


 今夜は町長が別れの宴を開いてくれるらしい。夕方、あたしは機関室で湯を浴び、桃色の着物を再び借りて身につけた。


 人間用の着物。

 あたしはこれから亜人ではなく人間として生活する。とはいえ、長様の使用人という立場は変わらない。


 そうだ。あたしは帰ったら「長様の使用人」という立場で長様に鬼退治の顛末を報告して、その後はまたお世話係として働くのだ。

 何も、変わらないのだ。




 別れの宴は、想像していたよりも遥かに豪勢なことになっていた。

 広間の中央には巨大な卓がでんでんと置かれ、美味しそうな料理がこれでもかというほど並べられている。

 普段、雑穀と味噌、野菜くらいしか食べないあたしからしたら、目の前で山盛りになっている肉や魚は、もう見ただけでお腹いっぱいだ。


 あたしが広間に入った時には、既に宴のようなものが始まっていた。皆立ったまま卓上の料理を取り、酒を飲んで喋っている。

 中央の卓のあたりで、凱や憲、杖をついた焔が、町長やロンと談笑している。焔は顔を真っ赤にして酒をあおり、上機嫌で笑っていた。

 

「うおおい、まな板と洗濯板を貼りつけたのが桃の花を巻いていると思ったら、小夜じゃねえか。……くうーっ、この町の酒は最っ高う!」

「うわあ、焔、くっせえなあ。まだ宴が始まってそんなに経ってないだろ。随分酔っぱらっているじゃないか」

「俺はあ、酔ってなんかあ、いなあーい!」


 いや完全にできあがっているだろ、という心の声をしまい込み、町長とロンに挨拶をした。

 挨拶の後、なぜか二人が少し笑って頷きあう。

 町長がにこにことあたしに声をかけた。


「あなたがたの旅路にロンとレオンが同行するというのは、以前お話していましたよね」

「はい。すみません遠いのに。でも、うちの村の長に鬼退治のこととか、あたしが人間だとかいうのを報告するってなると、どうしてもあたしたちだけじゃ難しくて」


 そうなのだ。鬼退治の報告をする際、どうしても神の力だとかあたしが人間だとかの話が必要になる。

 凱とあたしがそんなことを言ったって、長様が聞いてくれるはずがない。だからロンとレオンが、村まで来て一緒に報告をしてくれることになった。


「それなのですがな。出水さんの話を聞いて、こりゃあ大変だ、とても片言の若造二人に任せてはおけん、と思いましてな。私も一緒について行くことにしましたよ」


 さらりとそう言って肉の塊をもりもり頬張る町長を見て、あたしは全力で首を横に振った。


「いやいやいやいや、自警団員の方二人に来てもらうだけでも申し訳ないのに、そんな町長なんてそんな」

「いえいえ、これは私の方から出水さんに是非にと申し出たのですよ。だって、ねえ、出水さん。ほらあの話」

「あ……えっと」


 町長に話を振られると、凱の頬はみるみるうちに染まっていった。

 あたしを見、町長を見、俯く。


「ここで、言う流れ、ですか……」

「出水さん、どうしたんですか。あなたくらし……あなたらしくないですよ。もう私たちはあなたの発言に慣れていますから、気にしないほうがいいですよ」

「慣れて、って、何に……」

「まあまあいいじゃないですか、ほら」


 ロンが掛け声をかけると、皆が一斉にあたしたちを見る。凱は自分の両頬を勢いよく叩いた後、軽く咳払いをしてあたしを見た。


「町長が同行してくださるのは、長様に鬼退治の顛末を報告するためだけではありません。もう一つの大事な話を進めるために来てくださるのです」

「まあ、交渉係、といいますか、説得係、という感じですかな」


 町長は太い腕を組んでうんうんと頷いた。

 自警団員の一人から「出水さん、頑張るです!」の声がかかる。凱は一歩前に踏み出した。

 部屋の灯りが凱の瞳に映る。


「私の心はとうに決まっていました。けれどもこれは、私の心だけで決めることはできません。二つの家に関わることでもありますし、何より小夜さんの心次第でもあります」


 物凄く遠回しで、長い前置きだ。あたしは少し首をかしげた。


 何を言っているのかわからない。

 いや。

 嘘だ。何を言いたいのか、どういう話が出るのか、心のどこかではわかっている。だからあたしの心の臓は、こんなに高鳴っているのだ。

 けれども、もし自分の考えと違っていたら、とも思う。

 だから首をかしげて凱を見つめる。

 もっとまっすぐ、あたしに言って、と。


「ずっと、小夜さんに伝えたかったことがあります」


 姿勢を正し、あたしを見つめる。

 広間が水を打ったように静まり返る。


「小夜さん。私は、あなたをお慕い申し上げております」


 凱の言葉が、あたしの魂を強く握りしめる。


「出水という家のこと、人の関わり、それらが簡単なものではないことは承知しております。けれども今後いかなることがあろうとも、私は生涯をかけて小夜さんを愛し、守り抜くことを誓います。ですからどうか、お願いいたします」


 凱はあたしの前に跪き、そっと手を取った。

 彼の微笑みが、あたしを蜂蜜色の光で包み込む。


「小夜さん。私の伴侶として、共に生涯を歩んで下さいませんか」


 眩い光があたしの中ではじけ飛ぶ。


 脚の力が抜ける。床に座り込み、がくんがくんと何度も頷く。

 「ありがとう」とか、「嬉しい」とか、言いたいことは溢れている。だがあまりにも溢れすぎて、眩すぎて、言葉にできない。

 ぼろぼろと涙が溢れるなか、ようやく一言だけ唇に乗せ、凱に伝える。


「はい」


 あたしの人生の全てが、翼の生えた光となって空へ飛んでいく。

 あたしは人目もはばからず、わんわんと声を上げて泣き続けた。


 知らなかった。

 心にあたたかな幸せが満ちる涙というものが、この世にはあるんだ。




 翌朝、まだ早い時間だというのに、町の入り口には大勢の人たちが見送りに来てくれた。


「今度小夜がここに来るときは、『出水の若奥様』かあ。奥様、なあ」


 焔の言葉に頬が火照るが、同時に黒い不安が心をよぎる。


 そうなのだ。凱は「凱」というだけではなく、「出水家の跡取り」でもあるのだ。

 大丈夫かあたし。見世物あがりだし、がさつだし、学がないのに。自信があるのは凱への愛情の深さだけだ。


「小夜さん」


 凱が顔を寄せ、囁いた。


「そんなに難しい顔をしなくても大丈夫ですよ。小夜さんは聡明ですから。それに昨夜も言ったでしょう。いかなることがあろうとも、私が全力で守り抜きます」


 あたしの肩に手を回し、抱き寄せる。

 周囲が歓声や口笛で沸く。猛烈に恥ずかしいのに彼の腕の中から離れたくなくて、どうにもならないので硬直してひたすら目を泳がせる。


 いけないいけない。

 怖じ気づいて守られる一方じゃだめだ。凱があたしを愛してくれるんだから、守り抜くと言ってくれたんだから、あたしも覚悟を決めなければ。 


 あたしだって、凱を守り支えていく。

 そしてあたしたちは、翼で空を飛ぶのではなく、脚で地べたを踏みしめながら、一歩一歩、歩んでいくんだ。


「憲様」


 どこかからか細い声が聞こえてくる。よく見ると、いかつい自警団員たちの隙間から、静流が顔を出した。


「憲様、また来て下さいますよね」

「勿論だよ。村のことが落ち着いたら遊びに来るね」

「はい。ありがとう存じます。あの、お待ち申し上げております。私、いつまでも、いつまでも、お待ち申し上げておりますから」

「うん。ありがとう」


 憲はあたしたちをちらりと見た後、拳を強く握って声を張った。


「次は、ここへ遊びに来る。だけどいつか僕が大人になったら、必ず静流さんを迎えに来るよ」


 続く二人の言葉は、沸きに沸いた歓声にかき消えてしまった。




 町の人たちから土産にと頂いた、大量の時計や鉄製品を載せた荷車を、交代で引きながら山道を歩く。金目のもの満載だが、今のあたしたちを襲う勇気のある野盗はいないだろう。


 並んで歩く凱の横顔を見る。

 ひと月前、この道を歩いていた時は、あたしと彼は月と太陽だと思っていた。彼は月の自分が手を伸ばしてはいけない、住む世界の違う太陽なのだと。

 彼の腕に触れる。


「凱はさ、明るくて、あたたかくて、太陽みたいだけど、あたしと一緒になってくれるんだね。あたしは月なのに」


 凱は微笑み、あたしの頭に軽く触れた。


「私は月と一緒になるのですから、きっと太陽ではないのでしょう。ほら、髪や瞳も太陽の色ではなくなりましたしね」


 色の深みを増した瞳を見つめ、少し考える。


「うーん、確かに今の色は太陽とは違うかもねえ。なんていうかさ、蜂蜜みたいな色なんだよ。前の色も蜂蜜みたいだったけど、もっと深みのある蜂蜜色なの」

「では私は、蜂蜜なのかもしれません。私たちは月と太陽ではなく、月と蜂蜜」

「えー、何それ。対になっていないし、変じゃない?」

「変ではありませんよ」


 足元から立ち上る若葉の香りが、柔らかく頬を撫でる。

 凱はあたしの耳元に顔を寄せ、囁いた。


「月が太陽に触れたなら、熱で傷ついてしまいますが、月が蜂蜜に触れたなら、全てが甘さで包み込まれてしまいますよ」


 そう言って見せた笑顔は、とろけるほどに甘く熱い蜂蜜だった。




 空を見上げる。

 木々の間から見える空は、抜けるように青く高く、どこまでも澄みきっている。

 あたしは凱と手を繋ぎ、空に向かって想いを放った。


 強くなれ、あたし。

 これから待ち受けているであろう、さまざまな出来事に立ち向かうために。


 そして。


 強くあれ、あたし。

 いとしい人との幸せの日々を築くために。




【終】

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月と蜂蜜―飛べない鳥、鬼を討つ― 玖珂李奈 @mami_y

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