6 月と蜂蜜
40 崖の向こう
平らな部分が全くない、ごつごつの坂をぐねぐねと進む。
実際に島を歩いて、改めて思う。ここは生き物の棲む場所じゃない。
木も草らしい草もなく、とにかく岩。長様のお屋敷の庭には石が飾ってあったが、あの上を歩いていた蟻って、きっとこんな光景を見ていたのだろう。
ロンは立ち止まり、凱を呼び止めた。
「出水さん。このまま歩いても、疲れるだけだろうと思います」
「そうですね。かなり広いようですし」
凱は自警団員の犬人二人と憲を呼び寄せた。
「昨日の話し合い通り、皆さんの耳と鼻の力をお借りします。鬼の臭いや、囚われている方の気配がわかりましたら教えてください」
その言葉に、自警団の人たちは一斉に動きを止め、口を閉じた。あたしも動きを止める。
犬人たちは何か言葉を交わし合った後、三人ばらばらに動き出した。
一人は耳をぴんと立ててゆっくりとあたりを見回し、一人は中腰になって鼻を動かす。憲は地面に鼻を近づけて這うように移動していた。
彼らの鋭い感覚を邪魔しないよう、固まった姿勢のままじっと見守る。耳や鼻では彼らに到底かなわないので、今自分にできることを考える。
そうだ、気。何をもって邪気とみなすのかがよくわからないのだが、気を察する力は鋭いと思う。海の神に会ってからは、さらに力がついたような気がする。これを使って何か探れないだろうか。
自分の肌が、髪が、体の内側が、何か感じ取っているかを探る。ここに漂う空気の中に、痺れるもの、苦しいもの、そういったものがあるか。重さでない重さ、匂いでない匂いはあるか……。
「憲君。気がつきましたか。私は思うんですよ。向こうは
「え、そうですか……。本当だ。ここは苔と潮の匂いしかしませんね。でも向こうから少しだけ蒸れた肌の臭いがします。あとは油の燃える臭い」
犬人たちの会話に、うっかり気が散ってしまった。
彼らの臭いに対する言葉を聞いていると、犬人の生活って大変なんだろうなあと思う。あたしの鼻では潮の匂いくらいしか嗅ぎ取れないようなここで、古い糠や蒸れた肌の臭いがするなんて、辛すぎる。
今、立っている場所は緩やかな坂だ。大きな岩のせいで見通しはあまりよくないし、坂の上に何があるかは見えない。
背後は海。少し離れた左側は切り立った崖に塞がれている。
鞣していない皮の臭いがするのは、坂をこのまま上った先のようだ。そして憲が蒸れた肌の臭いがすると言って指さしたのは、なぜか崖の方。
「憲、ちょっといいですか。その『蒸れた肌』というのは、どういったものでしょうか。鬼のものかヒトのものか、区別はつきますか」
「ううん、と、そこまではわからないです。ほんのちょっとすぎて。でも確かにあっちから臭うんですよ。今指している方のずっと先」
そこでまた咳込んだ。凱は憲に微笑みかけると、腕を組んで何かを考えるようなしぐさをした。
「小夜さん」
凱は囁き声であたしを呼び、いきなり両手を握ってきた。
力強く、ぎゅっと。蜂蜜色の瞳で、まっすぐにあたしを見て。
「わ、なっ」
「先ほど小夜さんの手を握った時、物凄く強い力を感じたのです。そしてあの時、はっきりと『私と小夜さんが風を吹かせている』とわかりました。ですから、このようにして感覚を研ぎ澄ませてみれば、何かできるかもしれません。このまま手を握らせていただけますか」
ああ、なんだ、そういうことか。あたしの手を握ると、凱の神様っぽい力が強くなるみたいだから、それで何か不思議なことをしようとしているのか。
それはそうだ。ここは鬼ヶ島だ。うっかりうろたえてしまった自分が恥ずかしい。
「どうかしましたか」
「え、え、な、なんでもねえよっ!」
耳を澄ませていた犬人が、わっと叫んで耳を押さえた。あたしの大声が刺激になったらしい。
慌てて謝る。もう、しょうもないことで色々恥ずかしすぎる。嫌だもう。
俯いて頬を火照らせていたら、凱が顔を寄せ、囁いた。
「小夜さんと一緒に、気を探ってみようと思います。今はこういったことで手を握ることしかできませんが、鬼退治の後、小夜さんと二人きりになった時には、こんなものでは到底済みませんよ。覚悟していてくださいね」
にこっ、と無邪気っぽい笑顔を向けてくる。
周りには、無言で感覚を研ぎ澄ませている自警団の人たちがいっぱいいる。
特別な力なんか使わなくてもわかる。今、皆がめちゃめちゃあたしたちに注目している。
「なななんだよそれっ……」
言い終わらないうちに、凱の掌からびりっと強い痺れが流れ込んできた。
思わず手を離しそうになるのをこらえる。痺れは腕を駆け上がり、頭のてっぺんで渦を巻いた。
渦は徐々に光へと姿を変える。頭の中に真っ白な光が満ちる。光はだんだん強くなる。
やがて眉間に、ぽかん、とちいさな穴が開いた。
白い光は眉間の穴から外へ抜けていく。
岩に足をつけていながらも、どこか宙を漂うような感覚。
「憲の、言っていた方向を、視て、みましょう」
途切れ途切れの凱の言葉通り、憲が指さしていた方に目を向ける。目に見える光景は崖と岩なのだが、眉間の穴から出ている光を通して、何かが視える。
暗闇。
ぼんやりとした暗闇。暗闇が揺れるように動く。
橙色の光。あれは火だろうか。暗闇の隅に灯っている。
暗闇が動く。ゆらゆらと。もぞもぞと。
ふと、泣き声みたいなものが聴こえた。耳に聞こえるのは波の音だけなのに、とぎれとぎれに聴こえる。
じっとりとした空気が肌に張りつく。湿っていて、重たくて、痛い。
この空気の痛さは酷い。暗闇の向こうに、何があるのだ。
動いている。じっと視る。
視えてくる。あれは……。
「うわっ!」
大きな叫び声が出てしまった。凱の手を離し、後ろに身を引く。
視えていた光景は消え、視界は凱と岩だけになる。凱は額を手で拭い、大きく息をついた。
「小夜さん、視えましたか」
「み視た。なんか、眉間に穴開いたみたいになって、そこから視た。あれだよね、あれ、あれって」
二人で同時に口を開く。
「攫われた人たちだよ」
「攫われた人たちですね」
背後の自警団の人たちの空気が揺れる。犬人たちが手を止めた。憲が凱に近寄る。
「凱さん。何があったんですか」
「先ほど、ええと、不思議な力で崖の向こうが視えたのです。大勢の人が暗い洞穴のようなところに閉じ込められていました。憲が嗅ぎ取ったのは、おそらく彼らのにおいだと思います。『油の燃える臭い』というのは、洞穴の中に灯されている松明のことでしょう」
凱の話を聞いて確信する。あたしと凱が視ていたのは、同じ光景だ。
大きな洞穴の中に、ぎゅうぎゅうに押し込められた人たち。松明の光はあるものの、暗く、ろくに身動きも取れない。
そうだ。とぎれとぎれに泣き声も聴こえた。あれは、まだほんの小さな子供の泣き声だ。
あんな所に押し込められていたら、どんなにか辛く、怖いだろう。
思い出す。そして重なる。
むっちりと太り、にこにこと笑いながら「
「
お腹の中にどす黒い炎がめらりと揺れる。背中の傷痕が鈍く痛む。あたしと凱は目を合わせ、頷き合った。
「ロンさん。おそらく向こうに攫われた人たちがいます。行きましょう」
「向こうですか? 崖です……ああ、通り抜けられる穴があるかもしれませんね」
確かに崖伝いに歩いていけば、ここからは見えない通り抜けられる所があるかもしれない。あたしたちは再び歩き出した。
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