6 月と蜂蜜

第29話 崖の向こうには

 平らな部分が全くない、ごつごつの坂をぐねぐねと進む。

 実際に島を歩いて、改めて思う。ここは生き物の棲む場所じゃない。

 木も草らしい草もなく、とにかく岩。長様のお屋敷の庭には石が飾ってあったが、あの上を歩いていた蟻って、きっとこんな光景を見ていたのだろう。

 ロンは立ち止まり、凱を呼び止めた。


「出水さん。このまま歩いても、疲れるだけだろうと思います」

「そうですね。かなり広いようですし」


 凱は自警団員の犬人二人と憲を呼び寄せた。


「昨日の話し合い通り、皆さんの耳と鼻の力をお借りします。鬼の臭いや、囚われている方の気配がわかりましたら教えてください」


 その言葉に、自警団の人たちは一斉に動きを止め、口を閉じた。あたしも動きを止める。

 犬人たちは何か言葉を交わし合った後、三人ばらばらに動き出した。

 一人は耳をぴんと立ててゆっくりとあたりを見回し、一人は中腰になって鼻を動かす。憲は地面に鼻を近づけて這うように移動していた。


 彼らの鋭い感覚を邪魔しないよう、固まった姿勢のままじっと見守る。耳や鼻では彼らに到底かなわないので、今自分にできることを考える。

 そうだ、気。何をもって邪気とみなすのかがよくわからないのだが、気を察する力は鋭いと思う。海の神に会ってからは、さらに力がついたような気がする。これを使って何か探れないだろうか。


 自分の肌が、髪が、体の内側が、何か感じ取っているかを探る。ここに漂う空気の中に、痺れるもの、苦しいもの、そういったものがあるか。重さでない重さ、匂いでない匂いはあるか……。


「憲君。気がつきましたか。私は思うんですよ。向こうはなめしていない皮と酢、古いぬかの臭いがします」

「え、そうですか……。本当だ。ここは苔と潮の匂いしかしませんね。でも向こうから少しだけ蒸れた肌の臭いがします。あとは油の燃える臭い」


 犬人たちの会話に、うっかり気が散ってしまった。

 彼らの臭いに対する言葉を聞いていると、犬人の生活って大変なんだろうなあと思う。あたしの鼻では潮の匂いくらいしか嗅ぎ取れないようなここで、古い糠や蒸れた肌の臭いがするなんて、辛すぎる。


 今、立っている場所は緩やかな坂だ。大きな岩のせいで見通しはあまりよくないし、坂の上に何があるかは見えない。

 背後は海。少し離れた左側は切り立った崖に塞がれている。

 鞣していない皮の臭いがするのは、坂をこのまま上った先のようだ。そして憲が蒸れた肌の臭いがすると言って指さしたのは、なぜか崖の方。


「憲、ちょっといいですか。その『蒸れた肌』というのは、どういったものでしょうか。鬼のものか人間や亜人のものか、区別はつきますか」

「ううん、と、そこまではわからないです。ほんのちょっとすぎて。でも確かにあっちから臭うんですよ。今指している方のずっと先」


 そこでまた咳込んだ。凱は憲に微笑みかけると、腕を組んで何かを考えるようなしぐさをした。

 

「小夜さん」


 凱は囁き声であたしを呼び、いきなり両手を握ってきた。

 力強く、ぎゅっと。蜂蜜色の瞳で、まっすぐにあたしを見て。


「わ、なっ」

「先ほど小夜さんの手を握った時、物凄く強い力を感じたのです。そしてあの時、はっきりと『私と小夜さんが風を吹かせている』とわかりました。ですから、このようにして感覚を研ぎ澄ませてみれば、何かできるかもしれません。このまま手を握らせていただけますか」


 ああ、なんだ、そういうことか。あたしの手を握ると、凱の神様っぽい力が強くなるみたいだから、それで何か不思議なことをしようとしているのか。

 それはそうだ。ここは鬼ヶ島だ。うっかりうろたえてしまった自分が恥ずかしい。


「どうかしましたか」

「え、え、な、なんでもねえよっ!」


 耳を澄ませていた犬人が、わっと叫んで耳を押さえた。あたしの大声が刺激になったらしい。

 慌てて謝る。もう、しょうもないことで色々恥ずかしすぎる。嫌だもう。


 俯いて頬を火照らせていたら、凱が顔を寄せ、囁いた。


「小夜さんと一緒に、気を探ってみようと思います。今はこういったことで手を握ることしかできませんが、鬼退治の後、小夜さんと二人きりになった時には、こんなものでは到底済みませんよ。覚悟していてくださいね」


 にこっ、と無邪気っぽい笑顔を向けてくる。

 周りには、無言で感覚を研ぎ澄ませている自警団の人たちがいっぱいいる。

 特別な力なんか使わなくてもわかる。今、皆がめちゃめちゃあたしたちに注目している。


「なななんだよそれっ……」


 言い終わらないうちに、凱の掌からびりっと強い痺れが流れ込んできた。

 思わず手を離しそうになるのをこらえる。痺れは腕を駆け上がり、頭のてっぺんで渦を巻いた。

 渦は徐々に光へと姿を変える。頭の中に真っ白な光が満ちる。光はだんだん強くなる。

 やがて眉間に、ぽかん、とちいさな穴が開いた。

 白い光は眉間の穴から外へ抜けていく。

 岩に足をつけていながらも、どこか宙を漂うような感覚。


「憲の、言っていた方向を、視て、みましょう」


 途切れ途切れの凱の言葉通り、憲が指さしていた方に目を向ける。目に見える光景は崖と岩なのだが、眉間の穴から出ている光を通して、何かが視える。


 暗闇。

 ぼんやりとした暗闇。暗闇が揺れるように動く。

 橙色の光。あれは火だろうか。暗闇の隅に灯っている。

 暗闇が動く。ゆらゆらと。もぞもぞと。

 ふと、泣き声みたいなものが聴こえた。耳に聞こえるのは波の音だけなのに、とぎれとぎれに聴こえる。

 じっとりとした空気が肌に張りつく。湿っていて、重たくて、痛い。

 この空気の痛さは酷い。暗闇の向こうに、何があるのだ。

 動いている。じっと視る。

 視えてくる。あれは……。


「うわっ!」


 大きな叫び声が出てしまった。凱の手を離し、後ろに身を引く。

 視えていた光景は消え、視界は凱と岩だけになる。凱は額を手で拭い、大きく息をついた。


「小夜さん、視えましたか」

「み視た。なんか、眉間に穴開いたみたいになって、そこから視た。あれだよね、あれ、あれって」


 二人で同時に口を開く。


「攫われた人たちだよ」

「攫われた人たちですね」


 背後の自警団の人たちの空気が揺れる。犬人たちが手を止めた。憲が凱に近寄る。


「凱さん。何があったんですか」

「先ほど、ええと、不思議な力で崖の向こうが視えたのです。大勢の人が暗い洞穴のようなところに閉じ込められていました。憲が嗅ぎ取ったのは、おそらく彼らのにおいだと思います。『油の燃える臭い』というのは、洞穴の中に灯されている松明のことでしょう」


 凱の話を聞いて確信する。あたしと凱が視ていたのは、同じ光景だ。

 大きな洞穴の中に、ぎゅうぎゅうに押し込められた人たち。松明の光はあるものの、暗く、ろくに身動きも取れない。


 そうだ。とぎれとぎれに泣き声も聴こえた。あれは、まだほんの小さな子供の泣き声だ。

 あんな所に押し込められていたら、どんなにか辛く、怖いだろう。


 思い出す。そして重なる。

 むっちりと太り、にこにこと笑いながら「小夜しゃお」とあたしを呼ぶ、八郎坊ちゃんの姿が。


ゆるせねえ……」


 お腹の中にどす黒い炎がめらりと揺れる。背中の傷痕が鈍く痛む。あたしと凱は目を合わせ、頷き合った。


「ロンさん。おそらく向こうに攫われた人たちがいます。行きましょう」

「向こうですか? 崖です……ああ、通り抜けられる穴があるかもしれませんね」


 確かに崖伝いに歩いていけば、ここからは見えない通り抜けられる所があるかもしれない。あたしたちは再び歩き出した。




 歩き出してすぐに、先ほど耳を澄ませていた犬人の自警団員がロンを呼び止めた。


「まずいです。鬼に気づかれたかもしれません」


 目を細め、空を見上げる。


「まっすぐこちらに向かう、鬼の飛ぶ音がします」

 

 目をこらす。何も見えないが、皆、岩陰に身を潜ませる。

 しばらくすると、坂の上の空を何かが飛んでいるのが見えた。

 だんだん近づいてくる。だんだん大きく見える。

 飛ぶ鬼ばかりが五頭。まっすぐに、こちらめがけて飛んでくる。


 どうして。上からあたしたちが見えているのか。


 やがて、なんの迷いもなくあたしたちの真上に来た。

 勢いよくこちらに向かっている。

 真っ黒な翼を広げて、あたしたちめがけて。

 顔が見える。一頭と目が合う。

 鬼の口角が、ぎたりと吊り上がる。


 鬼どもが降り立った。もう、隠れても意味がない。身を乗り出し、刀の柄に手をかける。

 奴らは憎らしい距離を保ちながら話しだした。


「なんだ。さっきのは、神の気ではなかったのか」

「あれと、あれは、人間ではないな」

「神のいのちか」

「使いのいのちもある」

「消させよう。奴らは、肉を超えて神の気を放つ。邪魔だ」


 錆びついたような、鬼の声。奴らのうちの一頭が、口に小さな筒みたいなものをくわえた。


「わっ!」


 その途端、猫人の自警団員が叫び声を上げて耳を塞いだ。それとほぼ同時に焔があたしのすぐ前に飛び出し、腕を振った。

 筒をくわえた鬼の手の甲に小さな刃物が刺さる。他の鬼どもはそれを一斉に見た。


 今だ。


 あたしと凱、焔、憲、そしてロンが刀を抜いて飛びかかる。

 奴らは丸腰だ。姿勢を崩しながら飛び立とうとする所に刃を向ける。あたしも一頭めがけて刀を振り下ろした。

 振り下ろす瞬間、思わず目をつぶる。

 だがあたしの刀は、手は、鬼の体を捕らえた。その肉を断つ感触とともに、血を流したおれていく姿が、瞼の裏にくっきりと映る。


 あたしは今、鬼の命を、断った。


 背中の傷痕がずきりと痛んだ。目を開けると、たった今斃した鬼と目が合った。

 湿った眼球があたしを見ている。

 目を背ける。他の人たちも鬼を斃し、荒い息を吐いていた。


 今起きたことを考える間もなく、猫人の自警団員が、険しい表情をしてこちらに来た。


「みなさん。大丈夫ですか。あの、まずいだろうと思います。さっきの鬼が吹いていたの、呼子です」

「呼子、ですか」


 凱の言葉を聞いて焔が口を挟む。


「凱さん、あれたぶん、人間や猿人おれらには聞こえないやつですよ。亜人の子供ガキのおもちゃにも、似たようなのがあるんです。しまったな。打剣を打つ前に音を出されちまった」


 悔しそうに舌打ちをする。ロンはそんな焔にすたすたと近寄ったかと思うと、真剣な表情で両手を取り、ぶんぶんと上下に振りだした。


「焔さん、あの刃物はなんですか。私たちも取り入れたいですよ。習いたいですよ」

「いやあの、そりゃどうも。それより向こうに攫われた人がいるんなら、早く助けないと」


 焔の言う通りだ。あたしたちは憲を先頭にして歩き始める。


 歩きながら、そっと手を見る。

 今朝、想いを込めて黍団子を丸めた手は、赤黒い鬼の血に染まっていた。




 それほど長くは歩いていないと思う。やがて憲が、あっと声を上げた。


「こっち、こっちです。ほら、ここ、通り抜けられる隙間がある」


 確かに、崖と岩の間に、隧道ずいどう(トンネル)のような隙間があった。大柄なレオンでも余裕があるくらいの隙間だ。一列になって進む。


 暗い。入口の光は岩のせいでそれほど強くなく、中を照らすほどではない。だが歩き続けているうちに、あたしの鼻は、憲の言っていたのと同じ臭いを捕らえた。


「におうな」


 自警団員の一人が呟いた。皆が頷く気配がする。

 臭いだけではない。微かな声も聞こえる。

 腕の毛穴がぞわりと立つ。

 隙間が曲がっている。前方で憲が低い叫び声を上げた。

 あたしも曲がる。


 そこには、明らかに誰かの手で平らにされたような空間があった。あたしたち全員が入れるくらいの空間だ。

 岩壁にはいくつか松明がかかっている。

 そして目の前にあるのは扉。雑なつくりで隙間だらけだが、見るからに重そうだ。そして頑丈な閂。


 憲とレオンが閂を外す。

 二人で体重をかけて扉を押す。開かなかったのか、今度は倒れるようにして引く。

 扉が開く。

 扉の向こうから、息が詰まるような生暖かさと臭いが押し寄せる。


 甲高い叫び声が、いくつも上がる。




 そこは、長様のお屋敷の大広間くらいの広さだと思う。亜人の家なら庭ごと入る。

 その広さの中に、びっしりと人がうずくまっていた。

 暗くて奥の方は見えないが、どれくらいの人が入っているのだろう。ぱっと見た感じ、ほとんどが女子供だ。皆の瞳が、松明の光を受けて、あたしたちをぎらりと見る。


 この瞳の色は、攻撃の色じゃない。みんなきっと、あたしたちがこわいんだ。


 部屋の隅から小さな子供の泣き声が聞こえた。さっきの声と一緒だ。

 その泣き声の中に埋もれて、女の子の弱々しいあやす声が聞こえる。


「若様、どうなさいましたか。苦しゅうございますか。お腹が空きましたか。鬼ではありませんよ。きっと、新しく入ってきた人ですよ……」

静流しずる! そのガキ、黙らせとくれよ! おい、お前ら、なんなんだい」


 中年の猿人が、あたしたちに向かって歯をむき出した。彼女の言葉を受けて、部屋の隅にいた女の子がびくりと体を震わせる。


 女の子は八郎坊っちゃんくらいの子供を抱き抱えていた。あたしより小柄で、たぶんずっと年下だ。大きく黒目がちな目が印象的な、可愛らしい犬人。

 怯えた瞳で、あたしたちを順に見ている。


 憲の所で目が止まった。

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