41 蘇芳の掌

 歩き出してすぐに、先ほど耳を澄ませていた犬人の自警団員がロンを呼び止めた。


「まずいです。鬼に気づかれたかもしれません」


 目を細め、空を見上げる。


「まっすぐこちらに向かう、鬼の飛ぶ音がします」

 

 目をこらす。何も見えないが、皆、岩陰に身を潜ませる。

 しばらくすると、坂の上の空を何かが飛んでいるのが見えた。

 だんだん近づいてくる。だんだん大きく見える。

 飛ぶ鬼ばかりが五頭。まっすぐに、こちらめがけて飛んでくる。


 どうして。上からあたしたちが見えているのか。


 やがて、なんの迷いもなくあたしたちの真上に来た。

 勢いよくこちらに向かっている。

 真っ黒な翼を広げて、あたしたちめがけて。

 顔が見える。一頭と目が合う。

 鬼の口角が、ぎたりと吊り上がる。


 鬼どもが降り立った。もう、隠れても意味がない。身を乗り出し、刀に手をかける。

 奴らは憎らしい距離を保ちながら話しだした。


「なんだ。さっきのは、神の気ではなかったのか」

「あれと、あれは、人間ではないな」

「神のいのちか」

「使いのいのちもある」

「消そう。奴らは、肉を超えて神の気を放つ。邪魔だ」


 錆びついたような、鬼の声。奴らのうちの一頭が、口に小さな筒みたいなものをくわえた。


 その途端、猫人の自警団員が叫び声を上げて耳を塞いだ。それとほぼ同時に焔があたしのすぐ前に飛び出し、腕を振った。

 筒をくわえた鬼の手の甲に小さな刃物が刺さる。他の鬼どもはそれを一斉に見た。


 今だ。


 あたしと凱、焔、憲、そしてロンが刀を抜いて飛びかかる。

 奴らは丸腰だ。姿勢を崩しながら飛び立とうとする所に刃を向ける。あたしも一頭めがけて刀を振り下ろした。

 振り下ろす瞬間、思わず目をつぶる。

 だがあたしの刀は、手は、鬼の体を捕らえた。その肉を断つ感触とともに、血を流したおれていく姿が、瞼の裏にくっきりと映る。


 あたしは今、鬼の命を、断った。


 背中の傷痕がずきりと痛んだ。目を開けると、たった今斃した鬼と目が合った。

 湿った眼球があたしを見ている。

 目を背ける。他の人たちも鬼を斃し、荒い息を吐いていた。


 今起きたことを考える間もなく、猫人の自警団員が、険しい表情をしてこちらに来た。


「みなさん、大丈夫ですか。あの、まずいだろうと思います。さっきの鬼が吹いていたの、呼子です」

「呼子、ですか」


 凱の言葉を聞いて焔が口を挟む。


「凱さん、あれたぶん、人間や猿人おれらには聞こえないやつですよ。亜人の子供ガキのおもちゃにも、似たようなのがあるんです。しまったな。打剣を打つ前に音を出されちまった」


 悔しそうに舌打ちをする。ロンはそんな焔にすたすたと近寄ったかと思うと、真剣な表情で両手を取り、ぶんぶんと上下に振りだした。


「焔さん、あの刃物はなんですか。私たちも取り入れたいですよ。習いたいですよ」

「いやあの、そりゃどうも。それより向こうに攫われた人がいるんなら、早く助けないと」


 焔の言う通りだ。あたしたちは憲を先頭にして歩き始める。


 歩きながら、そっと手を見る。

 今朝、想いを込めて黍団子を丸めた手は、赤黒い鬼の血に染まっていた。




 それほど長くは歩いていないと思う。やがて憲が、あっと声を上げた。


「こっち、こっちです。ほら、ここ、通り抜けられる隙間がある」


 確かに、崖と岩の間に、隧道ずいどう(トンネル)のような隙間があった。大柄なレオンでも余裕があるくらいの隙間だ。一列になって進む。


 暗い。入口の光は岩のせいでそれほど強くなく、中を照らすほどではない。だが歩き続けているうちに、あたしの鼻は、憲の言っていたのと同じ臭いを捕らえた。


「におうな」


 自警団員の一人が呟いた。皆が頷く気配がする。

 臭いだけではない。微かな声も聞こえる。

 腕の毛穴がぞわりと立つ。

 隙間が曲がっている。前方で憲が低い叫び声を上げた。

 あたしも曲がる。


 そこには、明らかに誰かの手で平らにされたような空間があった。あたしたち全員が入れるくらいの空間だ。

 岩壁にはいくつか松明がかかっている。

 目の前にあるのは扉。雑なつくりで隙間だらけだが、見るからに重そうだ。そして頑丈な閂。


 憲とレオンが閂を外す。

 二人で体重をかけて扉を押す。開かなかったのか、今度は倒れるようにして引く。

 扉が開く。

 扉の向こうから、息が詰まるような生暖かさと臭いが押し寄せる。


 甲高い叫び声が、いくつも上がる。




 そこは、長様のお屋敷の大広間くらいの広さだと思う。亜人の家なら庭ごと入る。

 その広さの中に、びっしりと人がうずくまっていた。

 暗くて奥の方は見えないが、どれくらいの人が入っているのだろう。ぱっと見た感じ、ほとんどが女子供だ。皆の瞳が、松明の光を受けて、あたしたちをぎらりと見る。


 この瞳の色は、攻撃の色じゃない。みんなきっと、あたしたちがこわいんだ。


 部屋の隅から小さな子供の泣き声が聞こえた。さっきの声と一緒だ。

 その泣き声の中に埋もれて、女の子の弱々しいあやす声が聞こえる。


「若様、どうなさいましたか。苦しゅうございますか。お腹が空きましたか。鬼ではありませんよ。きっと、新しく入ってきた人ですよ……」

静流しずる! そのガキ、黙らせとくれよ! おい、お前ら、なんなんだい」


 中年の猿人が、あたしたちに向かって歯をむき出した。彼女の言葉を受けて、部屋の隅にいた女の子がびくりと体を震わせる。


 女の子は八郎坊っちゃんくらいの子供を抱き抱えていた。あたしより小柄で、たぶんずっと年下だ。大きく黒目がちな目が印象的な、可愛らしい犬人。

 怯えた瞳で、あたしたちを順に見ている。


 憲の所で目が止まった。

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