16 ひとの倫
ここはそれほど広いわけではないが、草深い中を延々と歩いてきたので、少しほっとする。と同時に溜まった疲労がどっと押し寄せてきた。
大きめの水溜まり、といった感じだけど、池があるのがありがたい。空がかなり暗くなってきたので、今日はここで夜を明かすことになった。
「あとどのくらい先なのかなあ」
憲がそう言って荷物を下ろした。彼が背伸びをすると、肩からごりごりと凄い音がする。あの荷物、あたしの体より重いんじゃないだろうか。
「見通しが悪いからな。この先がどうなっているんだか。ま、こうやってだらだら歩くのも嫌だが、目的地に着いたら着いたで楽ができるわけじゃねえ」
焔の言うことはもっともだ。それにしてもあとどれくらい歩き続けるのだろう。このまま人の住んでいない所を何日も歩き続けていたら、食べるものもなくなってしまう。
「鬼はこの道を走って、私たちの村に来るのでしょうね。そう考えると鬼の体力は相当なものです。ただ、走れる範囲から来るのですから、そう何日も歩き続けなくてもいいのではないかと」
「や、わかんねえですよ。奴ら、飛ぶって噂もあるじゃないですか。もの凄く遠くから、びゅーって飛ぶのかもしれない」
「えー、飛ぶんなら遠くからじゃない気もするんだけど」
そう口を挟むと、三人が一斉にあたしを見た。
凱と焔の両方と目が合う。その目を見て先ほどの会話を思い出し、反射的に目を逸らす。
「あ……あの、えと、あのね、鳥ってもの凄く簡単そうに飛んでいるけど、あれは『鳥』だからできるんだよね。鬼はどうだか知らないけど、鳥人の場合、肩とか背中の筋肉で羽を動かして、人間と同じ体格を空に飛ばすのって、結構大変なんだよ。多分」
「多分」
凱があたしの言葉を繰り返す。「『多分』ってなんだよ」という素朴な疑問を口にしただけなのだろうが、彼の声を聞くと、どきどきするような、恥ずかしいような、悲しいような、言葉にできない何かがあたしの体を縛る。
喉に力を入れる。そうだ。気にしない。凱はさっきの会話を知らないんだし、焔の言っていたことは曖昧なものだった。だから今は頭から追いやらねば。
「あたし、羽があった時からほとんど飛んだことがないんだ。小屋の中で、芸の一つとしてばたばたーって動かすくらいでさ。あとは檻に入っていたし。んで、ほとんど使うことなく腐っちゃったから」
そういうつもりは全くなかったのだが、同情されてしまったのだろうか、三人の顔が曇る。
余計な口を挟むんじゃなかった。あたしは人からこういう顔をされるのが嫌だ。だから思い切り笑顔を作って、ぱんぱんと手を叩く。
「なんだよその顔。あたしは可哀想がられんのが大嫌いなんだって。さ、考えたってわかんないもんはわかんないんだ。なんか食べよう。あたし作るよ」
皆の表情を見ないようにして憲の荷物を広げ、食料を取り出す。出水の奥様は心配性なのか、大量の米や味噌が出てきた。
「焔、煮炊きの準備手伝ってくれない?」
煮炊きといってもたいしたことをするわけではないから、あたし一人でもできる。それでも焔に声をかけた。
焔はあたしの瞳を見て頷き、凱と憲に枝拾いと水くみを指図する。主人は凱なのに。
「で、なんだよ」
二人が離れたのを見て、焔は荷物の前にかがんであたしを見た。
「あの二人を追い払って。俺と二人っきりになりたかったのかよ。悪いけど俺は、洗濯板とまな板を貼りつけたような、尻も色気もねえ女に興味ないんだけど」
「何もわざわざ貼りつけることないじゃないか。どっちかだけでいいだろ」
ものすごくどうでもいい反論をしてみる。もちろん、焔はなんであたしが声をかけたのかわかっていて、わざと冗談を言ったのだろう。
春の初めの夜は早い。さっきまで空を満たしていた橙色は消え失せ、茜色の上を淡い藍色が少しずつ覆っていく。あたりの木々は深い影の中に沈んでいる。
急に冷えてきた。あたしは軽く身震いをした後、唇を強く結んだ。
「さっき、あたしの胸の内を察しているって、色々知っているって、言ったよね」
「ああ」
「なんでそんなもん知っているの?」
あたしがそう言うと、焔は味噌を片手にため息ををついた。
「訊くか。なら言ってやる。本当はごちゃごちゃ言いたくなかったんだけど」
あたしの顔の前に指を突き出し、軽く回す。
「顔にでかでかと書いてあるからだ」
「あたし、顔になんにも書いていないよ」
「本当に書いてあるって意味じゃねえんだよ。お前、『あの人』の前に出ると、おもしれえくらい顔真っ赤にしてもじもじするだろ。だからその、ほれ、『あたしはあなたを想っていますー』って言っているのと同じだから」
手を下ろし、肩をすくめる。
途端に顔が火を噴く。
「だから、それ。暗くてもわかる」
やだ、どうしよう。あたし、そんなにわかりやすかっただろうか。
焔の言う「あの人」が「どの人」かはわかる。さっきの話の流れからして、一人しかいない。そして「胸の内」が「恋慕」だって、見事にばれている。
ちゃんと胸に秘めているつもりだったのに。全身から漏れていたのか。
「まあ、『あの人』はある部分で強烈な
その言葉が本当なのか気遣いなのかはわからないが、全力で信じることにする。
会話が途切れる。
視線を下に向けた焔の顔に影が宿る。
「ねえ焔、絶対絶対内緒だよ。『何が内緒?』とか意地悪言わないでよ。本当、恥ずかしいか」
「恥ずかしいかどうかは問題じゃねえだろ」
あたしの言葉を遮り、顔を上げる。
空を覆い始めた宵闇が、彼の険しい表情を浮かび上がらせる。
「お前が誰を想おうと、そりゃあ勝手だよ。それこそ相手が人間だっていいよ。ただ頭ん中で想っているだけならな。たぶん、そんな奴他にもいるだろうし。でもよ」
味噌を傍らに置き、辺りを見回してから息をつく。
「もしその想いが通じ合って、互いの仲が深まったらどうなる」
どうなる、と訊いてはいるが、答えを聞くつもりはないのだろう。
だって、そんなもの、わかりきっているから。
家を追われ、村を追われ、まともな人里では暮らしていけない。
禁忌を犯した者が受け入れられるような場所がどういうところか。世間知らずのあたしだって大体の察しはつく。
「で、でもさ、その心配ならいらないって。あ、『あの人』があたしなんかを相手にするわけな」
「ふざけんなよ! 俺、あんだけ喋ったじゃねえか。お前そこまでばかじゃねえだろ!」
焔は勢いよく立ち上がり、あたしに言葉を叩きつけた。だが続く言葉は、急速に強さを失っていく。
「……ってさ、偉そうに説教できたら楽なんだけどよ」
呟きに近い焔の言葉は、足元の草の中にぽつりぽつりとしみ込んでいった。
「こんな、こんな、いつ鬼にやられるかわかんねえような状況なら、ほんの少し、ほんの少し想いを寄せ合うくらいなら、ヒトの
静かに夜は更けていく。
風に揺れる草木の音のほかには、何も聞こえない。今のところ、鬼や夕方の変な奴らの姿もない。あたしたちは火を囲み、これからのことなどを話した。
空から白い月の光が降り注ぐ。
大きなまんまるの月の光はひんやりと冷たく、明け方の霧のような匂いがする。
黒い池の真ん中に映る月は、時折、水面を渡る風に吹かれて、不安げに揺れている。
「
凱は火を見つめながら首をかしげた。
「そうですか。ねえ焔、あいつら、確かに言っていたよね。『あっちの山の人鬼じゃあねえだろうな』って」
「ああ。「山の向こうは物騒だ」ってのは聞いたことあるけど、鬼のこととか、さっきの小汚い野郎みたいなののことだと思っていた」
「へえ。知らないのはあたしだけじゃないんだ。やだねえ変なのが色々いて」
夕方の変な奴らは、「人鬼じゃなければ簡単」みたいな言い方をしていたから、人鬼は強いのかもしれない。そしてあたしたちを見てあんなことを言ったんだから、見た目は鬼よりも人間や亜人に近いんだろう。もしかしたら「鬼のように凶暴なヒト」という意味なのかもしれない。
あんな奴らに鬼扱いされるようなのが、山の向こうにいるのか……。
「小夜さん」
凱の声で現実に引き戻される。
顔を上げると、心配そうな凱の顔があった。
やだあたし、これから鬼退治だっていうのに、今、正体のわからない、どうでもいい奴を怖がっていた。
だめだこんなことでは。
強くなければ。
強いということにしておかなければ。
「あ、ごめん。話の途中でぼーっとしちゃった。うーん眠いのかもなあ。ね、どうせ今日はもう移動しないんだから、さっさと寝よ寝よ」
わざとらしいあくびをして、少し離れたところにあった大きな木に寄り掛かる。皆に向かって手招きすると、焔は憲の肩を叩いて立ち上がった。
「この辺、獣とか小汚い奴とかがいるかも知れねえだろ。だから俺と憲は道の入り口あたりで見張りしながら休むよ。二人はそこで寝な」
あたしを見て、にやりと笑う。
そこで気づく。
焔の奴、もっともらしいこと言いやがって。
「焔、それはかえって危険じゃないかな。皆で固まっていたほうが」
「うるせえ
「洟たれ小僧はひどいな! 僕もう十二だよ!」
「だったらなおのことわかるだろうが。俺が十二の頃なんてなあ……」
そんな会話をしながら、二人はさっき来た道の近くまで歩いて行った。
途中、焔が振り返り、あたしを見た。
だが何も言わず、なんの表情も見せない。すぐに憲の方を向いて何かを話し始める。
大丈夫、わかっている、と、彼の背中に向かって心で呟く。
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