26 行かずにはいられなかった

 焔の叫びを聞いて、ようやく気づく。あの女性、みさをさんに似ているのだ。

 目鼻立ちがみさをさんそっくりな猿人。焔は迷いなく彼女を「みさを」と呼んだけれど、みさをさんその人ではないと思う。


 みさをさんは朗らかで、よく笑う人だ。それに焔好みのお尻が大きくてころんとした体つきだし。

 第一、焔とこうして会えたというのに、彼女が喜んでいるように見えない。驚いたように焔をしばらく見た後、俯いてしまったのだ。

 あたしの知っているみさをさんなら、歓声をあげるか大泣きしながら、焔に抱きつきそうなものなのに。


「焔! どうしたんだよ一体」


 憲が駆け寄って二人の間に割って入ろうとした。だが焔に突き飛ばされてよろめく。

 焔は女性の肩を手が震えるほど強く掴み、顔を寄せた。彼女は焔の視線を避けるように顔を横に向ける。


「みさを、なあみさを、どうした。俺だよ。生きていたんだな。生きていてくれたんだな。よかった。本当によかった。なあ、俺を見てくれよ。なあ」

「焔、やめなよこの人、嫌がって」

「うるせえ!」


 焔、みさをさんを想うあまり、どうかしてしまったのだろうか。とりあえず、具合の悪そうな女性に、あの態度はない。一言言ってやろうと立ち上がった時、女性の口から呟きが漏れた。


「ごめんよ……」


 焔の動きが止まる。女性は横を向いたまま、声を震わせる。


「私、どうしたら……」


 凱が動く気配がしたので目を向ける。このような状態なのに、彼はやおら立ち上がり、焔たちのもとへと静かに歩み寄った。焔の横に座り、女性に声をかける。


「お久しぶりです。ええと、みさをさん……でいらっしゃいますよね」


 その声に、女性は軽く身を震わせて顔を上げた。こわいものでもいるかのように凱を見る。

 震える唇が開く。


「出水の……若様」


 憲が音を立てて息を吸い込む。あたしも同時に変な叫び声をあげた。


 この人、凱を知っている。


 凱は詰め寄ろうとする焔をやんわりと制し、女性――みさをさん、なのか――に語りかけた。


「ご無事で何よりです。今、おかげんがよくないのですね。とりあえずどこかでお休みになりませんか。あの……」


 凱はためらうように言葉を切った。

 みさをさんの顔を見ていた視線を下げる。

 また上げる。

 唇を開く。


「お腹の中のお子さんに、さわるとよくありませんから」




 町長以外のあたしたちは奥まった場所にある部屋に移った。ここでみさをさんは寝起きをしているらしい。


 薄暗く小さな部屋だが、中は眠気を誘うようなぬくもりに満ちている。

 部屋を暖めるために床下に鉄管を張り巡らせ、中に熱い湯を流しているそうだ。その湯は建物内にある巨大な窯で、昼夜を問わず沸かしているらしい。


 脚つきの寝床で横になるみさをさんを四人で囲む。憲が大きく息を吐いた。


「まさか、こんな偶然があるなんて」


 焔に向かって話しているのだが、彼は寝床のわきに跪き、みさをさんの手を握り締めたまま何も答えなかった。


「さっきレオンさんがちょっと言っていたけどさ、この町、みさをさんと似たような境遇の人がほかにもたくさんいるんだろうね。鬼を退治した際に助けられた人とか」


 焔は憲の言葉を聞いていないようだった。握りしめたみさをさんの手を自分の額に当て、深く息を吐く。


「みさを。なんで、帰ってきてくれなかったんだ……」


 横になっていたみさをさんが、焔を見つめて唇を噛んだ。焔に握られていない方の手で、ゆっくりとお腹をさする。

 別人のように痩せてしまった体の中で、そこは新たな命の分だけ、ほんのり丸く膨らんでいた。


 微かに聞こえる外の音が、かえって室内の沈黙を深くする。


 焔の気持ちは分かる。彼は、みさをさんが鬼に命を奪われたと思って、何月なんつきも過ごしていた。村人の冷たい視線や陰口を受けながら、鬼への復讐心を秘めながら、何月も。

 みさをさんが生きていて、自分の子供を身ごもっていることも知らぬまま。


 あたしは焔のすぐそばに立った。

 本当は、みさをさん本人か、主人の凱が声をかけるのを聞いているだけにしたほうがいいのかもしれない。あたしは長様の家の使用人だし、ちょっとなんともいえない立場だから。

 でも、だからこそ、口を開く。


「あんたさ、父ちゃんなんだろ。だったらもっとはらをどーんと据えて、頭冷やして考えてみなよ」


 あああ、なんでこんなきつい言い方しちゃったんだろう。部屋の空気が一気にささくれ立つ。その空気にうろたえ、まずは自分が頭を冷やさねばと一度咳払いをする。


「ねえ、みさをさん。あなたがあの日の夜、焔の所へ行こうとしたのって、逢引のためじゃなかったんじゃないの?」


 憲が「えっ」という叫び声をあげた。みさをさんがあたしを見て頷く。


「私、どうしたらいいか……わかんなくて」

「だよね。あの村で、嫁入り前の娘が身ごもったって知れたら、何言われるかわかったもんじゃない」


 憲は驚いていたが、こんなの、あたしがあえて言うほどのことじゃない。

 みさをさんの今の状態から考えて、あの日のあたりで、自分の体の変化に気づいたのだと思う。

 きっと、一人では抱えきれない様々な想いに押しつぶされそうだったんだろう。だから焔のもとへ行かずにはいられなかったんだ。


 そんな、心も体も一番繊細だった時に、鬼に攫われた。


「そんなみさをさんの気持ちも考えずに、なんだよあんたはさっきから。ちょっとはいたわれよ。そもそもさ、あの村へ帰るには、あの山を歩かないといけないんだよ。なんで帰ってこないって、あんた、この体で歩かせる気なの?」

「や、あの、そうじゃ……」

「仮に元気だったとしてもさ、あそこには野盗がいるじゃないか」


 この一言が決定的だったらしい。焔はみさをさんの手を離し、深く深く頭を下げた。


 焔に話しながら、あたしはみさをさんのこととは別のことに、なんとなく気づいた。

 この町が「人鬼の里」と言われる理由だ。


 鬼に攫われたところを助けられても、簡単には帰れない。憲の言う通り、この町はそういった人たちを受け入れ続けてきたのだろう。

 町の雰囲気からして、中心になっているのは異国人たちだ。そこに、助けられた人たちが暮らすようになる。

 異なる言葉を話し、様々な姿をし、鉄砲を作る「ソトの者」の町。

 そんな彼らを受け入れることも理解することもできなかった人々が、「人鬼」という言葉を作ったのかもしれない。


「みさを」


 焔はみさをさんの額にそっと触れ、囁いた。


「ごめんな」


 額から手を離し、丸いお腹を指先で触れる。

 掌で柔らかく包み込む。

 瞳を潤ませ、はなをすすった後に、きゅっと目を細めて笑みを浮かべる。


「これからは、ちゃんとお前たちを守るからな」


 焔の手の上に、みさをさんの手が重なる。

 みさをさんは焔を見つめていた。唇がわなないている。焔はみさをさんと額を合わせた。

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