36 瑠璃の中

 宙に浮いている。

 足元に床はなく、何もない。あたりが全て透き通った瑠璃色に染まっている。

 そういえばさっき、気球から墜ちた。

 じゃあここは、死者の世界なのだろうか。なんの痛みもなく、つい先ほどまでの苦しさもないし。


 いや。

 違う。あたしは今、水の中にいるようだ。

 息をしているし、濡れている感触もない。けれども確かにここは、水の中だ。なぜかはっきりと、わかる。


 あたりには他の人たちも漂っている。

 あたしたちの気球に乗っていた全員がいる。他の気球に乗っていた人たちもいる。ほとんどの人が、気絶しているのか眠っているのか、目を閉じて漂っている。


「小夜さん」


 目を覚ましていた凱が声をかけてきた。水の中なのに話し声ははっきり聞こえ、彼の口からは泡も出ていない。


「ご無事でしたか」

「ええっと、これ、無事って言っていいのかなあ」


 随分ととぼけた会話だ。そういえば、どうして今、あたしの頭の中は、こんなに穏やかなのだろう。

 気球から墜ちて、気がつくと水の中にいて、でも息をして、会話をしているというのに。


 ぐるりと体を動かしてみる。宙に浮かんだような感覚のまま、体がゆっくりと回転する。

 他の人たちが次々と目を覚ます。彼らは少しの間ぼんやりとした後、互いの姿を見て大声で騒ぎだした。


「俺ら、どうしたんだ」

「死んじまった!」

「水? 海? え?」


 自警団の人たちが話しているのは、あたしたちの国の言葉だ。彼らは普段、知らない言葉で話しているし、あたしたちの国の言葉で話しているときは訛っている。けれどもごく自然に、あたしがわかる言葉を使っている、ように聞こえる。


 ごぽん、と瑠璃色が揺れ、体が揺れる。

 瑠璃色の向こうから、二つの人影が滑らかに近づいてくる。


「私の海に墜ちたのが、幸いでした。反対側では助けられなかった」


 水の中に声が響く。人影がはっきりと姿を見せる。

 一人は人間の姿。そしてもう一人は人間に翼が生えた姿。

 白く立派な翼と、唇。かつてのあたしと、同じ姿だ。


「あれだけ強い神の気を出していたのに、すっかり肉のついた姿になっている。ヒトとして育つというのは、おそろしいものです」


 水の全てが響くような声。男とも女とも、子供とも老人ともつかぬ声。話しているのは、翼のない方のようだ。

 二人とも、ヒトより二回り以上大きい。白いゆったりとした着物を着ており、翼のない方は、背丈より長い青色の髪を、瑠璃色の中いっぱいに揺らめかせている。よく見ると瞳も青い。

 そして翼のある方は、黒い瞳に黒い髪。そんなところまで、あたしに似ている。


 彼ら……彼女ら、か、どっちだろう。とにかく彼らは、誰だ。


 皆、色々なことを言って騒いでいる。あたしと凱は、並んで浮かんで彼らと向かい合う。


「舟で行こうとしていたなら、海に渦を作って阻めたものを。空を飛んでまで鬼の棲む島へ行きたかったのですね」


 海に渦を作るって、なんだ。まさか今まで彼らが海を渦巻かせて、舟を進めなくしていたとでもいうのか。


 彼らは互いの顔を見て、ゆったりと首を動かす。

 そしてあたしたちを見る。


「ヒトとして生まれ育ったのに、こんなにも強い神の気を持っている。これなら、あの島に道を作れるかもしれない」


 青い髪の方が、凱に手を差し伸べる。


「はじめまして」


 柔らかな微笑みを向ける。


「人間の肉を持った、幼い風の神。と」


 翼のある方が、あたしに手を差し伸べ、口を開く。


「風の神の使い」


 目の前の二人が微笑む。


 「はじめまして」と言われてたので頭を下げたが、言葉が出てこない。

 彼らはあたしと凱に向かって「はじめまして」と言った。そして凱に向かって「幼い風の神」と言い、あたしに向かって「風の神の使い」と言った。


 「神の気を出している」、「ヒトとして育つ」、そして「幼い風の神と、風の神の使い」。

 三つ合わせると、どうしても、絶対に考えてはいけないような答えが導き出されてしまう。


 つまり、あたしたちはヒトとして育ったけれども、実は凱が「幼い風の神」で、あたしが「風の神の使い」ってことか?

 「神」ってまさか、あの「神」?


 ロンがふわふわと浮かんで、あたしたちの前に出てきた。


「お前らは何者だ。ここはどこだ。一体何が目的だ」


 訛りのない、強い口調で畳みかける。だが彼の目の前の瑠璃色が、ゆらん、とたわむと、何かに押されるような姿勢のまま、後ろへ流されていった。

 後ろを見る。焔や憲、自警団の人たちが浮かんでいる。怒鳴ったり、叫んだりしながら。しかし何かに阻まれているかのように、その場でもがいている。


「はじめまして。我々を助けて下さり、誠にありがとう存じます。しかし……。そうですね、何から伺ったらよいものやら」


 凱がいつもとあまり変わらない調子でそう言い、首をかしげる姿を見て、翼のない方が、ふふふと笑った。

 笑い声はあたりに響き、瑠璃色を震わせる。

 翼のある方が、腕を組んで翼のない方を見る。


「海の神よ。あなたの話はわかりにくい。よく喋るわりには、何を言っているのかわからない」


 確かにそうだけどひどい言いようだ。海の神と呼ばれた方が、またふふふと笑う。


「私の使いよ。仕方がないのです。私はあなた以外とはほとんど話さない。そしてあなたは、私の話すことを全てわかってくれる」  


 海の神と使いが、見つめあってふふふと笑う。

 瑠璃色が細かく揺れ、さわさわと全身を包み込む。胸の奥が、しっとりとしたぬくもりに満ちる。

 翼のある方が口を開いた。


「こちらは、海の神。私は海の神の使い。一緒にこのあたりの海を守っています。そうですね、私たちはヒトの言う、『神様』です」


 使いは指先を揃えてふわりと頭上を指した。


「この海の上には、今、風の神がいません。それなのに風の神の気を感じたので見てみたら、あなた方が空を飛んでいたのです」

「上手な気を使っていました。人間の肉は苦しいでしょう」

「待ちなさい海の神。私が順番に話しているのに」


 神と使い、という呼び名から、なんとなく神が主人で使いが使用人みたいなものなのかと思っていたが、もしかして神、使いの尻に敷かれているのか。


 そんなことを思いながらも、心のどこかであたしの声が呟いている。


 あたしと凱、変だ。「いかにも神様」な彼らを目の前にして、こんな風に会話をしているんだから。普通なら後ろにいる皆みたいに、感情が乱れそうなものなのに。


 隣の凱を見る。彼は神と使いを見て、笑みを零していた。


「おそらく気づいているでしょうが、この海の先にある島には、鬼が棲んでいます。稀にヒトが鬼を退治せんと舟で向かってくるのですが、敵うわけがありません。だから海の神が渦を起こして追い返していました。しかし空から来られては手が出せない。島へたどり着いてしまう。あの空飛ぶ球に乗っていたのが、ヒトたちだけであったらね」


 使いは大きく手を広げた。瑠璃色が緩やかに波打つ。


「空飛ぶ球を浮かべていたのは、幼い風の神、あなたの意志です。海の神の心が海と繋がっているように、風の神の心は風と繋がっている。だからあなたが怒れば突風が吹き、鬼の島へ行きたければ島の方向に風を吹かせ、球を飛ばす。しかし神の気で吹かせた風は、鬼の放つ邪気に弾かれてしまう」

「あの、おそれいります」


 凱が困惑したような顔をして、使いの話を遮った。


「先ほどより私のことを神と仰いますが、私はただのつまらぬ人間です。大地の気を動かすような、大それた技を使うことはできません。そして彼女も、確かに神のごとく慈愛に満ちた、強く優しい女性ですが、神の使いではなく亜人です」


 こんな状況でもそういう一言を挟んでくるって凄い。

 背後から憲の声が聞こえる。


「凱さんって神様なの? え、神様が川から流れて、うちの村に来たの?」


 海の神がゆるゆると手を動かした。その手が指し示す方を見ると、憲がいる。憲はぎょっとしたような表情をして固まった。


「幼い風の神よ。あなたは、やはり川に流されたのですね」


 凱が頷く。ついでにあたしも頷いてみる。彼らに促され、凱は自分が川から流れて村にやってきた経緯を話した。

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