35 島影

 よく晴れた空、穏やかな海、そしてゆったりと吹くあたたかな風。

 これから向かう先を知らぬかのように、気球は空を滑っていく。

 向こうから鬼が飛んできた。翼のある鬼の背に、翼のない鬼が乗っている。気球に乗ってから見かけたのは、これで何頭目だろう。どいつも気球を見るものの、こちらを避けるようにしてそのまま陸へと向かっていく。

 高い所に少し慣れたのか、憲は焔の着物を掴みながらも鬼を目で追った。


「鬼ども、襲ってこないね」


 また咳込む。


「まあ、こんな得体の知れないもんに乗っているのを襲うより、人里に行ったほうが色々奪えるからな」


 憲と焔の会話を聞いて思い出す。そういえば以前、長様のお屋敷の前で鬼に襲われた時、抵抗する「面倒」なあたしよりも、「もっといのちの強そうなもの」を、と言って、どこかへ行った。

 鬼は人間や亜人よりも二回りは大きく、獣の皮をまとっている。その姿や雰囲気から、見境なく牙をむく獣のように考えていたが、そうではないのかもしれない。


「皆さんは、不思議と思いませんか。今の鬼もあっちから来ましたから、鬼ヶ島へ向かってまっすぐ飛んでいるんだろうと思います」

 

 レオンが難しい顔をしている。変な所へ吹き飛ばされているわけでもないのに、どうしてこんな表情をしているのだろう。彼は風に触れるように手を上げた。


「風がずっと同じ向きです。そして同じ強さです。わたしは何もしていません。ただ流されているだけです」

「流されてって、なんか言い方こええな。別に気にするなよ。運がいいだけだろ」

「運……ううむ」


 焔の言う通りだと思うのだが、レオンはまだ難しい顔をしている。

 彼があまりに難しい顔をしているので、少し不安になってきた。隣に座っている凱と目が合ったので、首をかしげてみる。彼も不思議そうに首を傾けた。

 すると今まで吹き続けていた風がぴたりと止まり、気球が驚いたように揺れた。憲が変な叫び声を上げて焔にしがみつく。


「ほら見ろ。せっかく吹いていた風に文句なんか言うからよ、風が臍曲げて止まっちまったじゃねえか」


 レオンが慌てて火に木片をくべる。やがてさっきと同じように風が吹き始めた。


 凱と顔を見合わせ、ほっと微笑みあう。

 そういえば、凱と一緒にいると、いつも風に包まれているような気がするな、と思う。




 全てが青色に染まった中を、延々と飛ぶ。

 風が乱れたのは一度きりで、その後はずっと穏やかな風が吹き続けていた。

 海を見下ろしても、空より青さが深いというだけ。たまに小さな島はあるけれども、どこも鳥くらいしか生き物はいなそうだった。

 昨日聞いていた謎の渦も見かけない。鬼に遭遇しても、奴らは気球を避けるように飛んで、そのままどこかへ行く。


「あれは……」


 町を離れてから、一体どのくらい経った頃だろうか。レオンが指さす方向に、黒い島影のようなものがあった。

 皆が一斉に見る。あれはなかなか大きい。しかし「島」というより「物凄く大きな岩」のようだ。


「あれが鬼ヶ島、かなあ。でもなあ、ううん」


 憲が首をひねる。あたしも一緒に首をひねる。あれ、なんとなく想像していた「鬼ヶ島」とは、規模も様子も違う。

 とはいえ鬼ヶ島の可能性がなくはないから、お腹に力を込めて気合を入れる……。


「おい小夜! いくらなんでもくつろぎ過ぎだろ!」


 いきなり頭の中に焔の大声が響いた。それと同時に視界が開ける。

 焔が呆れたようにため息をついていた。


 まさか、あたし今、眠っていたのか。


「ごめ……」


 謝ってはみたものの、頭の中を違和感が駆け巡る。

 確かに昨夜はほとんど寝ていない。だからといって、変な島が見えているこの状況で寝られるほど、あたしは図太くない。

 それなのに今、深く眠ったところをたたき起こされたような、妙な体の重さを感じる。


 風が止んだ。気球が揺れる。体を支えようと凱の腕を掴んだら、彼の首ががくんと前に落ちた。

 凱も、気球の揺れに気づかないほど深く眠っていた。


「凱!」


 腕を揺らしながら声をかけると、びくりと体を震わせて目を覚ました。ぼんやりとした目であたしを見る。


「ちょっと待ってくださいよ、凱さんもですか。一体どうしたんです」

「すみません……。おかしいな、眠くなかったのに、急に」

「あ、それ、あたしもそうだった。急に寝ちゃったの」


 いくらなんでも、二人とも変だ。凱は頭を軽く振った。


「凱、昨夜眠っていないんじゃない?」

「はい。今日の……」


 何かを言いかけ、口を閉じる。下を向いて眉間に皺を寄せ、苦しげな表情を見せた後、ふっと笑ってあたしの耳元で囁いた。


「昨夜、桃色の光をまとった月が舞い降り、私を柔らかなかいなで包んでくれたのです。それがとても嬉しくて、月が私のもとから空に帰った後も、愛おしさが胸に満ちて眠れなかったのですよ」


 にっこり、と微笑む。だが彼の言葉を聞いて、あたしの頭の血はいつもみたいに沸騰しなかった。

 その言葉に、嘘が混じっているのを感じ取ったのだ。


 下を向いて眉間に皺を寄せた時の表情。あれは、月を使ったたとえ話を考えているようには見えなかった。

 本当のところは分からないけれども、あの表情からして、たぶん、今日のことを考えて眠れなかったのだろう。でも、そんなことはこの場で言えない。

 いや。あたしに言えない。

 だからあたしは、凱の「格好つけ」を受け止める。


「がっ凱! よくもまあこんな状況で、つるつるつるつるそういう言葉が出てくるな!」


 拳を振り上げてみる。凱が軽く身を引く。視界の端で、レオンがぎょっとしたような顔をしていた。


「小夜、危ないからおとなしくしていろ。全く、二人とも呑気にもほどがある」

「だって、だって、凱がっ」


 あたしの言葉はそこで途切れた。

 気球が大きく揺れ、傾く。

 今まで順調に飛んでいた気球は、前に進まず、不安定に揺れ続ける。

 後ろを飛んでいた気球二台が追いついた。だがあたしたちの気球と並んで止まり、揺れている。

 まるで、目の前に見えない壁があるかのように。


 風は吹いているが、ごうごうとあたりを渦巻くばかりだ。台の上の火は、風を受けて大きく膨れ上がっている。


「なんだって急に動かなくなっちまったんだ。おいレオン」

「ちょっと待ってください。風が乱れて、どうしたら」


 レオンは明らかに混乱している。それは他の気球も同じらしい。はっきり声が聞こえるわけではないが、どの気球でもわあわあと騒いでいるのが見える。

 憲は焔を掴んでいた手を離し、前方の島を指さした。


「あ、あのさ、子供みたいなこと言うけどさ、気球が動かなくなったの、あれが何か特別な力を出して、行く手を阻んでいるのかな」


 今まで見かけた緑に覆われた島ではなく、大きな岩の塊のような島。

 今、おそらくここにいる全員が、彼が続けようとしている言葉がわかっている。


「そして、もしかしたら、あれが、鬼ヶ島なのか、な……」


 ぐらぐらと揺れる中、目を凝らす。

 島の様子がはっきり見えるほど近くではないが、ここから見る限り、やはり「島の大きさをした、物凄く巨大な岩」だ。ひたすらごつごつしていて緑もなさそうだし、この距離では何かが動いているのも見えない。

 あたしは「鬼ヶ島」というのは、それなりの大きさのある島で、木々に覆われていて、真ん中に大きな山があるようなものを想像していた。

 だってあんな岩では、いくら鬼でも生活できないだろう。


 いや。あたしの想像なんかどうでもいい。

 今、はっきりしている問題は、気球がこれ以上先に進まないということだ。


「小夜さん、大丈夫ですか。顔色が」


 凱があたしの顔を覗き込む。その時になって、あたしは自分が全身ぐっしょりと汗をかいているのに気がついた。

 心の臓がばくばくと暴れまわっている。普段は存在すら忘れている背中の傷跡が疼く。息がうまくできない。苦しい。気持ち悪い。


 だが、おそらくそれは凱も一緒だろう。

 彼は真っ青な顔に、びっしりと汗を浮かべていた。


 彼の顔に触れようと手を伸ばす。

 それと同時に気球が大きく傾き、よろめく。

 ゴウ、と大きな音を立てて、前方から空気の塊のような風が吹きつけ、気球を大きく揺らす。

 台の上の炎が一気に膨らむ。

 火は、暖かな空気が詰まった巨大な布に燃え移った。


「うわぁっ!」


 全員の叫びをよそに、火は布を伝って燃え広がる。レオンが台の火を消す。だが燃え移った火は、あたしたちを嘲笑あざわらうように勢いを増す。


 気球が大きく傾く。

 皆が同じ方向に傾く。

 足が床を滑り、何かに引っ掛かり、体がふわりと宙に浮く。


 宙に浮く。

 足元に床はなく、気球はなく、何もない。

 時がゆっくりと流れる。

 凱も、ほかのみんなも、青い空に散らばっていく。

 少し遅れて、他の気球からも悲鳴が聞こえる。

 墜落していく気球の残骸と一緒に、あたしたちも青い海へと墜ちていく。

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