15 禁忌

 凱はしばらくあたしを抱きしめたのち、ぱっと手を離して後ずさり、頭を下げた。


「あの、すみません。つい」


 耳を真っ赤に染め、俯く。自分の両掌を見て、しばらく動きが止まる。

 やがてぽつりと地面に落ちるような声で呟いた。


「申し訳ないです、このような手で触れてしまって」


 手についた血を隠すように握る。


 首を大きく横に振る。

 鼻の奥がつんと痛くなる。


 そんな。何を言っているのだ。凱の手がこんなことになってしまったのは、あたしのせいじゃないか。

 あたしが女だから。男の目を引いたから。立ち向かえなかったから。


 頭の中で、もう一人のあたしが大声で叫ぶ。

 あたしは弱い。言い訳できないくらい弱い。

 あまりに弱くて、戦って負けることすらできなかった。

 こんなに弱いのに、凱を守るなどといううぬぼれた考えで、無理やり鬼退治に同行した。


 ……凱を、守ろうと思っていた。

 それは彼が優しくて、そして……。


「いつ、あの技を?」


 言ってしまってから後悔する。あたし、なんで今、こんなことを訊いたんだろう。

 あたしの問いに、凱はいつもの微笑みを浮かべた。


「一応、剣術は六つの頃から習っているのですよ。小夜さんと出逢った頃の印象が強すぎるのかもしれませんが。さあ、行きましょう」


 そう言って歩き出す。

 再度詫びと礼を言おうと口を開いたあたしの口に、そっと人差し指をかざす。


 穏やかな微笑みがあたしの言葉を遮る。

 指の体温が唇に触れる。




 歩き出してしばらくすると、焔が歩く位置を変えようと言い出した。


「俺と小夜が前を歩いて、凱さんと憲は後ろにしよう。俺らとの間は開けてくれ」

「え、なんで。脚の短い順?」

「うるせえぞオイ。ねえ凱さん。凱さんが先頭だと、どうしても歩く速度が速くなりますよね。それに小夜の様子が見えたほうが安心でしょ。そんで、俺ら、背後からでかいのに煽られるとうっとおしいんで、間を開けてもらえますかね」


 その言葉に、凱と憲は素直に従い、そこそこの距離を取って後ろに回った。

 あたしの目の前に曖昧な道と草むらが広がる。既にかなり暗く、先が見通せない分、後ろを歩いていた時より怖い。

 焔は何度か後ろを振り返った後、顔を寄せ、小声で声をかけてきた。


「俺はお前みたいな女は全然好みじゃない。俺は明るくて、よく笑って、むっちりとした尻のでかい女が好きだ」


 何の前置きもなく、いきなり何を言うのだこいつは。

 適当に流してもよかったのに、思わず睨みつけてしまう。


 焔の好みなんか知っている。だってそれは、みさをさんそのものだから。

 みさをさんには何度か会ったことがある。ものすごく朗らかで、ころんとした愛らしい人だった。でもだからってなんで焔なんかに好みじゃない宣言をされなきゃならないんだ。


「そりゃあよかった。だからどうした」

「だけどな。世の中には蓼食う虫も好き好きという言葉がある。単純にお前の顔を見て、『おっ』と思う野郎もいるだろうし」


 一度後ろを見、さらに声を落とす。


「どういうつもりか、お前なんかのことを心の底から惚れぬいていて、せっかくの縁談を切り捨てて父親に怒鳴られている人もいる……かもしれない。かも、だけど。かも」

「なんだそれ。いるわけないだろ、そんなの。いたら顔を見てみたいや」


 あまりにしょうもないことを言うので、呆れてしまう。

 見た目に釣られる奴らなんか、どうせ腹の中は見世物小屋の客と一緒だ。

 あたしは翼のない鳥人なのだから。


 焔はしばらくあたしの顔を見た後、大きなため息をついて呟いた。


「ばかなのかな……」

「なんだとお! 今、ばかって言ったろ!」

いてえ痛え、耳引っ張んじゃねえよ。気のせい、気のせいだ。えっと話変えるぞ。凱さんの話なんだけどな」


 「がい」という音を聞いた途端に、「ばか」が吹き飛び頬が火照る。


 どうしよう、今、顔紅いかもしれない。やだもうあたし、単純すぎる。辺りが暗くてよかった。これなら焔も気づいていないだろう。そういうことにしておこう。


「凱さんが子供の頃な、鬼からお前を助けただろ。あん時、なんの物音もしていなかったのに、いきなり外に飛び出して行ったらしいんだよ。俺はその姿を直接見たわけじゃねえけど。だから勘は鋭いところがあるのかもしれんが、剣はまあ、使用人としてもおだてようがねえくらいド下手だった」


 頷く。その話は何度も聞いている。だからこそあたしは今回、鬼退治に来たのだ。

 焔は後ろを振り向き、あたしに顔を寄せた。


「さっき本人も言っていたけど、六つの頃から稽古はしているんだよ。でも『剣の嗜みがあります』っていう、出水家の跡取りとして格好つけるためだけに嫌々やっていたんだ」


 そんなところだろうと思っていた。おさ様の一番上の坊ちゃんも、将来格好つけるためだけに色々習わされている。でも好きなものでないと、なかなか上達しないものだ。


「じゃあ、なにかのきっかけで、急に剣の才能が目覚めたってこと?」

「いや。凱さんは今でも稽古が嫌いだし、俺の見る限り、悪いけど持って生まれた才能もない」


 焔があたしの目を覗き込む。

 日が落ちかけた薄暗い中、焔の瞳が何かを見通すように光る。

 咄嗟に目を逸らしたあたしに、声を被せる。


「あの剣の腕は、血の滲むような努力の末に得たもんだ。小夜が鬼に攫われそうになったあの日以来、取りつかれたように稽古に打ち込むようになった。今までの師匠のほかに、町まで行って習ったりしてな。まあ、佇まいがふわふわしているから、はた目には遊びまわっているようにしか見えなかったろうが」


 その言葉を聞いて、あたしは後ろを振り向いた。

 少し離れたところを、凱と憲が歩いている。憲は何かをひっきりなしに喋っていて、凱はそれをにこにこと聞いていた。

 凱と目が合う。

 蜂蜜色の髪が、仄かに光って見える。

 彼はあたしに向かって微笑み、軽く手を上げた。

 穏やかで、まるで散歩でもしているかのような雰囲気で。


 思い出す。


 鬼退治に行くことが決まった日、凱はあたしの頬に触れ、幸せを願ってくれた。その左手の掌は、しなやかな見た目に反して硬く、ごつごつとしていた。

 あれは、山仕事のせいではなかったのか。


 焔は凱に向かって軽く会釈をした後、険しい表情であたしを見た。


「剣に打ち込む凱さんに、なぜと訊くといつも『強くなりたいから』とだけ答える。だがな、この間、ついに口を滑らせた。なあ、なんで凱さんが強くなりたいのか、小夜、わかるか。出水家の見栄のためじゃねえし、村の男どもと競い合うためでもねえ」


 あたしを見据える、焔の瞳が揺れる。

 彼は一度息を吐き、こめかみを強く揉み、再び顔を上げた。


「……やめた。答えはお前が考えろ」


 あたしから目を逸らして前を向き、眉間に皺を寄せる。


 なぜ、と問うことはできなかった。

 彼がこれ以上言うとは思えなかったし、心の中で生まれたひらめきが、声を上げようとするのを押さえつけるので精いっぱいだったからだ。


 なぜ、強くなりたいのか。

 それは。

 違う。違う。絶対違う。

 絶対違わなければならないんだ。

 わからない。わからない。そうでなければ。

 それは。


「俺はばかじゃねえ。それなりにいろんな経験もしている。だからわかる。色々。小夜や……うん、胸の内も察している。けど、これ以上ごちゃごちゃ言わん。ただ、最後にお前に二つだけ言いたいことがある。そのためにわざわざお前なんかと並んで歩いているんだからな」


 周囲の草が深くなる。それでも二人並んで歩けるくらいの道ができている中を、歩き進める。

 脚の痛みはどこかに行ってしまった。頭の中を暴れまわる、形にならない何かに押されてしまったのだ。

 焔は人差し指を立てた。


「一つ。生きろ。なんとしても。小夜が一番やらなきゃならんのは、鬼を退治することじゃなく、生きることだ」


 頷く。思うところのある言葉だが、頭の隅のちいさなところで、何かが何かを理解し、あたしを頷かせた。

 焔は一度息をのみ、人差し指のほかに中指も立てた。


「二つ。これは俺個人としては言いたくねえ。言いたくねえよ。だが」


 焔は後ろを振り向き、またあたしを見た。

 

「だが」


 何かの痛みに耐えるように顔を歪ませる。


「絶対に犯しちゃならない禁忌には、触れるな」


 足元で、小枝が折れる音がする。


「俺が何を言いたいのかは、自分で考えろ」


 前を向き、歩く速度を上げる。

 やがて少し開けた場所に出た。



 禁忌を犯してはならない。

 そんなの、嫌というほどわかっている。もう、嫌というほどに。


 人間や亜人といった「ヒト」として、絶対に犯してはならないもの。

 それはたとえば。


 ヒトを食うこと。

 親を手にかけること。


 人間と亜人が、愛しあうこと。

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