32 この戦いが終わったら

 すっかり夜が更けた。

 四人で寝床に向かって長い廊下を歩く。先頭を歩く焔が手にした灯りが、ゆらりゆらりと壁に影を揺らす。あくびをしたら、「おわあ」という、妙に響く声が出てしまった。


 あたしたちは明朝、鬼退治へ向かう。


 あの後、自警団の人たちの紹介があったり、今後の流れについての話し合いがあったりした。

 自警団は鉄砲の扱いには慣れているが、刀や弓は今一つらしい。そんなことも踏まえた上で、役割決めとか、何を持っていくのかとかを決めた。

 聞き逃すわけにはいかない。難しい話はあたしの瞼に何度も重りをくくりつけたが、指で瞼を押し広げて耐えた。


 ひんやりとした、暗い廊下を黙って歩く。鬼退治へ行くのだ、という実感が、床の冷たさとともにじわじわと足元から這い上がってくる。


 明日、行くのだ。明日、空を飛んで、鬼の棲みかへ行くのだ。

 鬼ヶ島がどのくらいの大きさで、鬼がどのくらいいるのかは、自警団の人たちも知らない。

 鬼は神の一種であると自称している。それならば、鬼ヶ島では村を襲っている時よりも強い力を発揮するかもしれない。

 そこに、あたしたち四人と、自警団の人たち十二人で立ち向かう。


 黒いなにかがあたしの覚悟を縛りつける。こわい、という声が、嗤うように耳元で囁く。

 それらを断ち切る。凱を見つめて拳を握る。




 部屋の前に着いた。あたしは贅沢にも一部屋をあてがってもらった。隣の少し広い部屋に、凱たち三人が眠る。


「小夜さんの部屋はこちらと言っていましたよね。私たちは隣にいますから」

「あのっ、凱さん。俺やっぱり、今夜はみさをの部屋で休みます」


 皆の視線を浴びて、焔は俯き、しばらく両指を弄んでいた。やがて顔を上げて凱を見る。


「もしかしたら、今度こそ今生の別れになるかもしれませんし」


 口角がくしゃりと歪み、瞳が滲む。


 震える焔の言葉に、凱は黙って頷いた。

 あたしは何も言えなかった。ここまで来たら、上っ面だけの言葉はかけられない。だって、この状況で、どうして「そんなこと言わないで頑張ろうよ」なんて言えるだろう。


「でも」


 灯りが揺れ、焔の瞳に光を落とす。


「もし、明日の鬼退治を乗り切れたら。このわけわかんねえ戦いが終わったら」


 震える唇で笑顔の形を作る。


「凱さん。俺、出水の家から出て、みさをと所帯を持ってもいいですかね」

 

 憲が息をのむ気配がする。


 どこかから微かな風が吹く。冷たい空気を優しく暖める、真綿のような風。凱は軽く目を伏せた後、焔を見つめた。


「ずっと頼りにしていた兄さんが、家を出て家庭を築くのは、寂しくもありますが、やはり嬉しいものですね」


 目を細め、ふわりと軽やかな微笑みを見せる。


「では、帰りの気球の中で、祝言の時に何を言うか考えておきます」


 その言葉に込められた深い祈りの想いに、胸が焼け切れるくらい熱くなる。焔は深々と頭を下げると、しばらくそのまま動かなかった。




「焔、ちょっと待ってよ」


 灯りを手に、みさをさんの部屋に向かう焔を、憲が引き留めた。

 焔が立ち止まり、振り向く。憲はあたしを少し見て、息をのんだ。


「なんだ」

「あのさ、その灯り、まだ油たくさん入っているよね。僕、焔と一緒にみさをさんの部屋の前まで行った後、それ、欲しいんだけど」

「なんだよ、この夜更けにどこか行くつもりなのか」

「うん」


 憲は唇を軽く噛んだ後、もう一度あたしを見た。


「小夜姉がさっぱりしているのを見てさ、僕もお湯できれいになりたくなったんだ」


 あたしと目が合うと、彼は視線をそらし、俯いた。


「だから、ちょっとゆっくり、お湯のある部屋にいようかと思って」


 焔の着物の袖を掴む。焔はふっと声を漏らすと、憲の頭を軽く叩いた。


「わかったよ。じゃあ、ついてこい」


 憲は凱に頭を下げた後、少し背中を丸めて焔の後ろをついていった。


 二人の姿が、暗闇の中に揺れている。

 少しずつ暗闇が大きくなる。二人を包んだ光が、廊下の角のところで消える。

 何も見えない空間の中で、すぐ隣にいる凱の気配が微かに動く。

 どちらからともなく、指先を絡ませあう。


 指先が、凱の感触を知る。

 山仕事と厳しい鍛錬にさらされ続けた彼の指は、硬くて、骨ばっていて、あたたかい。

 彼を見上げる。暗闇の中にごくごく僅かに漂っている光が、彼の気配を浮かび上がらせている。

 たぶん、あたしを見ていて、そして微笑んでいる。


「凱」


 名を呼ぶ声が、喉の渇きに引っかかる。


「少しだけ、凱たちの部屋に入っていい?」


 気配が動く。目の前の戸が、ごろりと音を立てる。




 部屋の中は群青色に染まっていた。壁の高い部分に穿うがたれた小さな窓から、月の光が差し込んでいる。凱が灯台に火を灯すと、蜂蜜色の光が震えるように広がった。

 灯台の前に、向き合って座る。


「明日は早いから、少しでも休まないとね」


 何か話さなければと口を開いたが、出てきたのはこんなどうでもいい言葉だった。

 凱があたしを見つめている。灯台の不安定な光に照らされた彼の瞳を見ていると、鼓動が早くなってくる。もっと何か話さなければと思うのに、胸が熱すぎてうまく言葉が出てこない。


 部屋が暖かい。これはみさをさんの部屋と同じ仕組みで暖めているのだろう。

 今、あたしの胸が熱いのは、きっとこの部屋のせいだ。部屋も灯台の光の色も暖かいから、熱いんだ。


「そういえばさ、昨日の夜、こうやってぱくぱくって口を動かして、何か話していたじゃない。あれ、なんて言っていたの?」


 さんざん悩み、結局出てきたのがこれだ。どうして鬼退治前の二人きりの夜にこんな話題を口にしたのか、わけがわからないにもほどがある。凱は少し笑った。


「ああ、や、覚えていたんですか」

「勿論でしょ。今なら誰もいないしさ。いいじゃない。何言ったの」

「内緒です」

「ええー。なんだよう。気になるじゃないか。こんな状態で鬼退治なんかやだよう」


 さすがにこのことが気になって鬼退治ができなくなることはないだろうが、なんとなく場を明るくしたくて言ってみる。凱は上を向いてしばらく天井を見ていたが、やがてあたしを見て微笑んだ。

 蜂蜜色の光の中で、凱の頬が微かに桜色に染まる。


「声に出して言ってはならぬことです。今ここで、声にして小夜さんに伝えてしまったら、私は禁忌のほとりに踏みとどまれないかもしれません」


 彼の右手が上がり、あたしの顔に近づいたが、逡巡するように少し動き、再び下ろされる。


「あの夜、月に向かって立つ小夜さんの姿を見て、私のお慕いしている人は、なんと美しく神々しいのだろうと思いました。そんな小夜さんに心を傾けていただけたことが嬉しくて、想いがあふれて破裂しそうになって、つい口を動かしてしまったのです」


 鉄砲で脳天を乱れ撃つような言葉の数々に、首から上の血がぼこぼこと騒ぎ出す。

 頭の中身が沸騰する中、なんとか一つだけ理解した。

 凱が何を言ったのかは知らないが、今はこれ以上、この話をしてはいけない。そうしなければきっと、あたしも禁忌のほとりに踏みとどまれなくなる気がする。


「おう」


 物凄くだめな返事なのはわかっているが、こう言うことしかできなかった。

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