29 空飛ぶ舟
その建物は、まるで巨大な山の怪物のようだった。
山の上から見た時の印象よりもずっと大きい。石だか焼きものだかわからないもので作られた壁は、高さが普通の家二つ分くらいはある。そして出水のお屋敷が庭ごとすっぽり入るんじゃないかというくらいの大きさだ。
壁には鉄の管がぐねぐねと這いまわっている。血管むき出しの、皮を剥いだ肉のようでちょっと気持ち悪い。屋根にいくつも突き刺さった煙突からは、もくもくと煙が噴き出して茜色の空を霞ませていた。
「これは……凄い建物ですね」
建物に圧倒されたのか、凱が彼らしからぬ平べったい感想を述べた。それを受けて町長が鼻を大きく膨らませる。
「ここがこの町を支えているんです。先祖の知恵をもとに我々が編み出した方法で、質の安定した鉄砲や鍋釜を大量に作っておるのですよ。そこはまあ、皆さんにはお見せできませんが。気球はここの倉庫部分にあります」
自分たちの物づくりの力を自慢したい気持ちと、作り方を秘密にしたい気持ちの間で揺れ動いているのが分かって、ちょっと微笑ましい。だがあたしが気になったのは、鉄砲の作り方じゃない。
「先祖の知恵っていえば、町長さんやこの町のみなさん、異国人ですよね」
「ええ、もともとは。もう何代か前に流れ着いているので、皆この国で生まれ育っています。とはいえ商売以外で交流はしませんから、言葉などは昔のままですがね」
「そのへんはまあともかく。なんにせよ、海の向こうにある異国から、『船で』たどり着いたんですよね」
背後で憲が、あっと声を上げている。
そうなのだ。まあ、どこか遠い海岸に流れ着いて、ここまで歩いてきて住み着いた、と考えることもできるのだが。
町長はうんうんと頷いて首をかしげた。
「そうなのです。それが不思議なのです。言い伝えによると、我々の先祖の船は、難破してここから少し離れたところに流れ着いたそうなのですが、そうするとどうやってあの渦を潜り抜けたのか」
渦がどういう向きになると、海の向こうからは流れ着けるけれど、こちらからは海の向こうへ行けなくなるのだろうか。頭の中で渦と水の流れを思い浮かべて考えたが、もちろん答えなんか思い浮かばない。
憲が腰を引いた姿勢で、おずおずと話に入ってきた。
「もしかしたらその渦って、えっと、神様が『鬼ヶ島へ行ってはいけません』って渦を作って追い返しているのか……なー、なんて」
誰かが返事をする前に大きく手を振る。
「や、冗談ですよ! 僕子供じゃないし!」
別に子供っぽいなんて言っていないのに。それにあたしは、憲の意見が、そうそうふざけたものには思えない。
神様は、いるかどうかわからない。こう言ったらいけないのかもしれないが。だってもしいるんだとしたら、なんであたしは十二歳まで、あんな目に遭わなければならなかったのか。
でも。
――メガミに食わそか、わしらで食おか。
「
「まあまあまあ。私たちの先祖のことはどうでもいいでしょう。それよりほら、見てください」
思い切り話がそれたのを、町長が戻す。彼は建物の巨大な扉に手をかけた。
大柄な彼が渾身の力を込めて扉を押し開く。
中を覗く。
中は、たくさんの灯りがともされ、橙色の光に満ちていた。
高い天井の広い空間。そこには大量の木箱の他に寸詰まりの舟が三艘置かれており、舟の周り一帯に布が敷かれている。
舟には太い縄がいくつもくくりつけられている。縄は布につながっているようだ。
壁の向こうからは鉄を打ちつけるような音が聞こえてくる。そして火に水をかけた時のような音や低い唸り。建物内は
で、ききゅうはどこだ。
「さすがですね。思っていたものよりずっと立派です」
凱が、ほう、と息をつく。町長は鼻の孔を全開に膨らませて何度も頷いた。
「海に落ちた時のことを考え、人が乗る部分は籠ではなく舟型にしました。先祖の言葉を信じるなら、渦の向こうからこちらへは入ってこられるはずですからな」
「一台に六人乗れるのでしたっけ」
「はい。まあ、私でしたら三人分かもしれませんが」
自分の言葉がよほど面白かったのか、お腹をゆさゆさと揺らして笑う。
で、ききゅうは……。
「なあ町長さん。まさかと思うが、あの寸詰まりな舟がききゅうなんですか」
焔が眉間に皺を寄せて指さす。
「はい。舟部分が人の乗るところです。そしてこれの中の空気を熱で膨らませて飛ばすんですよ」
そう言って、縄のついた布を手に持った。
間近で見ると、密に織られた分厚い布だ。それが幾つもつぎ合わされて床をのたくっている。広げたら一体、どれほどの大きさになるのだろう……。
え、これの中の空気を膨らませるだあ?
「いやあ、これ、作るのに苦労しましたよ。膨らませると、この建物二つ分くらいの高さになります」
全身から自慢の気があふれ出している町長の話を聞いて、あたしは今、自分がどんな感情を抱いているのかわからなくなってしまった。
あたしの頭の中の「ききゅう」は、背負い籠を大きくしたようなものに、ちょっとした天幕くらいの大きさの袋を逆さまにしたものだった。そんなもので飛べるものなのかと思っていたのだが。
なるほど。
自分の想像をはるかに超えるものを見せられると、「凄い」という言葉しか思い浮かばないものなんだ……。
町長が好きにしていいと言ったので、あたしたちは「気球」の布を触ったり、舟に乗ったりしてみた。
舟部分には六人乗れて、中央に据え付けてある台で火をおこし、巨大な布袋を膨らませるのだという。空を飛べる理屈は、理解したつもりだが説明しろと言われたら多分できない。
気球の動かし方のことを簡単に考えていたが、これをうまく動かすのは、それなりの経験が必要なのではないか。
もし、その練習のためにここに長居することになってしまったら、時間がもったいない。
気球に夢中になっていたせいで、時が経つのを忘れてしまったようだ。扉の向こうに見える空は、すっかり藍色に沈んでいた。
気がつくと、壁の向こうから聞こえていた物音も止んでいる。建物の中もひんやりとしてきた。
しまった。日が暮れてしまった。
いや、怖がるな。旅の途中だって、ずっと鬼に遭わなかったじゃないか。それにここは昼夜を問わず鬼が出るのだ。日が暮れたからといって何かが変わるわけではない。
第一、あたしは鬼退治をしに来たんだろうが。
そう思っても、空の深い藍色は、心に恐れを流し込んでくる。
凱を見る。彼は舟の底部分に巻きつけられた蔓を触っていたが、あたしの視線に気づいたらしく、振り返って微笑んでくれた。
蜂蜜色の微笑みが、冷たい頬をふわりと温める。
凱を見ただけで恐れが溶ける単純さと、凱がいなければ恐れに囚われそうになっていた自分の弱さが嫌になる。
凱の心に寄り掛かるな、あたし。
彼はあたしに心を寄せてくれた。だが彼はあたしのものにはならないのだ――。
「こんばんは! ようこそ!」
建物の入り口の方から威勢の良い声が飛んできた。焔より少し年上に見える人間の男性が、右手を上げて凱に向かって歩いている。
彼は左右対称に口角を上げた笑顔を浮かべ、凱の右手を握り、ばしばしと肩を叩いた。
「あなたがカイさんでしょ。はじめまして。私の名前はロンといいます。自警団長です。カイさんは、とても強いと聞きました。レオンが言いました。うんうん。良い肩を持っていますよ。とても鍛えているんだろうと思います」
「あの……。はじめまして、ロンさん。えっと、
凱は基本的に物おじしないたちなのだが、ロンの勢いに飲まれたのか、惚れた男に初めて話しかける小娘みたいな声で挨拶をした。
ロンも異国人なのだろう。肌の色が抜けるように白く、よく見ると瞳が
顔だけ見るとたおやかな女性のようだが、豪快な喋り方からして、彼の性格は見た目と一致していないのがわかる。あたしと同類だ。
「
彼は町長に声をかけると、異国の言葉で何かを話し始めた。あたしたちはなんとなく凱の周りに集まり、二人の様子を見る。
知らない言葉で話す二人の姿を見ていると、ふと「こわい」という言葉が頭をかすめる。
知らない言葉。あたしたちの村に比べ、明らかに進んでいる技術。巨大な気球。
鬼が飛び交い、鉄砲が日常の町。
こわい。
だめだだめだ。これじゃあ彼らを「人鬼」と呼ぶ奴らと同じになってしまう。皆、明るくて親切で、いい人ばかりじゃないか。
首を大きく横に振る。不思議そうな顔をした凱に向かって微笑んでみる。
彼には、弱いところも、嫌なところも見せたくない。
「お待たせしてすみませんな、皆さん」
話が終わった町長とロンがこちらに来た。
町長は笑顔だ。だがそれが楽しさから来た笑顔でないことは、なんとなくわかる。笑顔、というより、口角を上げている、という感じだ。
「ロンが、町の自警団員たちも交えて、皆さんと飯を食べましょうと言っております」
「ああ、そんな。おそれいります。突然紛れ込んできた私どもに、そこまで親切にしていただいて、なんとお礼を申し上げたらよいのか」
深く頭を下げた凱に、町長は笑顔の形を崩し、困ったような表情をした。
「いやいや、いいんですよ。十分なもてなしはできませんのでね。ううむ、まあその、それに、飯の席は、どうしても今夜でなければならんのですよ」
町長とロンは顔を見合わせて頷いた。
ロンが口を開く。
「自警団に、
一度、言葉を切る。傍らで凱が息をのむ。
「『自由飛行試験は、時間がもったいないですから、明日の朝、鬼退治へ行きましょう』と言いました」
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