46 黒い靄(もや)
鬼の居場所を目指して歩いていく。使いに姿を見られてしまったので、坂をまっすぐ上らず、遠回りするようにして歩く。ただでさえ足元が悪いのに、凄く歩きづらい。
凱の隣を歩いているのだが、少し距離を置いている。手を握ったりすると無意識に強い気が出てしまい、鬼に気取られるかもしれないから。
日は傾き始め、空は熟した橙色に染まっている。太陽は炎の輝きを見せているけれども、あたたかさは地上を離れ、急激に冷え込んできた。襟元から冷気が入り込んでくる。
石を踏んづけて軽くよろけ、「気が抜け」た。それと同時に胸が苦しくなる。
ここは鬼ヶ島だ。それを常に意識して「気を張って」いないと、邪気がヒトの体を突き抜けて入り込んでしまう。
坂を上るにつれ、それでは自分の体が保てないことに気づいた。
あたしでもはっきりとわかるほど、邪気が強くなっている。鬼ヶ島に上陸したときの比ではない。
常に頭が重く、背中の傷痕は「気を張る」だけではどうしようもないくらい、じくじくと痛んでいる。
つまり、それだけ鬼の居場所に近づいている、ということなのだろう。
坂のてっぺんを視界が捉えた。道を阻む大きな岩が減り、前方にある橙色の空が少しずつ広くなる。遥か上空を飛んでいる鬼を何度か見かけたが、皆、あたしたちには気づいていないようだ。
息を吸って、吐く。右足を出し、左足を出す。小声で話をしている人たちもいる中、あたしも凱も、何も話さず、視線も交わさず、ひたすら歩く。呼吸すること、移動することに集中する。
空も太陽も鮮やかな中、坂の向こうから一筋、黒い
ロンが額の汗をぬぐいながら凱に話しかけた。
「出水さん。もし日が落ちたら、舟に乗って一旦鬼ヶ島を出ますか」
確かに今の状況がしばらく続いたら、そうしなければならなくなりそうだ。
凱があたしを見た。なんとなく言いたいことを察したので、頷いてみる。
「あたし、それはないと思う。凱もそう思うでしょ」
彼は頷き、前方を見据えた。視線の先にあるのは、黒い靄だ。
「おそらく、坂を上り切ったらすぐです」
橙色の空が広がっていく。やがて坂を上りきると、視界が一気に開けた。
後ろを歩いていた皆と眼下に広がる光景を眺める。
凱は鋭い眼光を宿しながら
そこは、巨大なすり鉢のような形をしていた。反対側がよく見えないくらいの広さだ。
整地は全くされておらず、大小さまざまな岩が方々に転がっている。
そしてその合間に点在する、木片や皮、藁のようなものをくみ上げた小屋の数々。時折そこから出入りしているのは、鬼だ。
村を襲い、人間や亜人を攫い、作物を奪う鬼どもが、すり鉢の溝にこびりついた胡麻の
鬼どもが飛んでいる。
霞んでいてはっきりと見えるわけではないが、あたしたちのいる場所のちょうど向かいになるあたりを、飛び立ったり帰ってきたりする場所と決めているらしい。そこから色々な方向へ飛んで行くのもいれば、どこかから飛んできて降り立っているのもいる。人々を襲う日没が近いからか、飛んでいく数の方が多いようだ。
中央あたりの一番土地が低い所に、小さな丘のようになった部分がある。てっぺんがへこんでおり、潰れた
黒い靄は、そこから立ち昇っていた。
あたしたちはしばらく無言でその光景を眺めた。ついに見つけた鬼の棲みかを目の前にして、言葉よりも前に強い感情が体の中に溢れた。
驚きとか恐れのような、はっきりとした形のある感情だけではない。心の隙間から滲みだすのは、名前にできない、にちゃにちゃと湿った嫌な臭いのする感情だ。
背後で焔の声がした。
「堕ちる、って、こういうことなんだな」
振り向くと、焔は腕を組んで息を吐いた。
「だってそうだろ。奴ら、もとは神様だったんだよな。さっきの海の神様みたいに、きれいな場所で海だの山だのを守っていたんだよな。なのにこのざまだよ。刀や鉄砲であっさりやられる体になって、こんな場所で、あんな小屋に棲んで、ヒトから食料だの魂だの奪って、何が楽しいんだか」
焔の言葉を聞いて、改めて岩に貼りつく鬼どもを眺める。
「別に楽しくはない、んじゃないかな。でもさ、生きようとしちまうんだよ、きっと」
心の中が、にちゃにちゃで満ちる。
「なんでなんだろうね。光の射さない地獄の釜の底でも、生きちゃったりするんだよ。『生き物』ってさ」
凱があたしを見ているのがわかる。だからあたしは凱を見ず、口を閉じる。邪気が入らないように、これ以上感情を揺らさないように、心の壁に意識を向ける。
「出水さん。鬼の町は大きいです。私はもっと小さいと思いました。でも歩いている鬼の数は少ないですよ。手分けして、様子を探れるだろうと思います」
冷静なロンの声に救われる。彼は腰に下げた袋から何かを取り出した。あたしの掌にすっぽり収まるくらいの大きさの、厚みのある円盤状のものと小さな把手だ。
円盤の周囲には数の違う短い線が等間隔で描かれており、針が真ん中に取り付けられている。そこだけ見ると、長様自慢の時計をうんと小さくしたような形だ。
「そうですね。ではそれをお借りできますか、ロンさん」
「どうぞ。二人一組にしましょう」
ロンの言葉を聞いて、自警団員たちが二人ずつの組になった。皆一斉に手持ちの円盤の縁に把手を差し込む。
「日没が近いですから、針が一回転するまでに、ここに戻ったほうがいいですよ」
「では焔と憲は向こうの、あの小屋からあそこの突き当りまで」
凱とロンによってそれぞれの行き先が決められる。ひととおりの指示が終わった後、凱があたしを見た。
「で、あたしと凱が、あの真ん中の丘、かな」
凱が頷く。まあ、そう来るだろうな、と思っていた。あの黒い靄は、きっとあたしたちにしか視えていない。
ロンの合図で皆が調子を合わせて把手を回す。把手を外すと、円盤からじりじりと小さな音が聞こえてきた。
円盤の内部には小さな歯車が仕込まれており、一回転でちょうど半刻になるようにできているそうだ。
「では」
ロンの一声で、自警団員たちは指示された方向へと走っていった。その姿はいかにも「訓練されている」といった感じだ。
しかし呑気に感心している場合ではない。本業が山の管理と子守のあたしたちも、これからやることは同じ。鬼退治だ。
息を大きく吸う。少し止め、ゆっくりと吐き出す。
頭の奥のほうが、あたしの手を震わせ、脚をすくませる。こわい、逃げろと叫んでいる。
足の指に力を入れ、岩を踏みしめる。
拳を握る。背中の傷痕が熱くなる。
「焔、憲、気をつけてください」
「任せといてくださいよ。凱さんと小夜も気をつけてな」
両頬を強く叩いてみる。凱と一瞬目を合わせ、前を向き、ごつごつした坂を下る。
負けるもんか。自分に克ち、鬼に勝て。
そして、そうだ。あたしは大事なことを間違えていたんだ。
強くなれ、あたし。
いとしい人を守るために。ヒトの世のために。
そして、いとしい人が愛してくれている、あたし自身が生きるために。
ロンの言う通り、出歩いている鬼は少ない。空を見ると結構飛んでいるので、今は地上にいる鬼自体が少ないのかもしれない。
あたしたちがこの島に来ているのを知っている鬼は、どのくらいいるのだろう。
それを考えると恐怖に囚われそうになる。だが岩や小屋に身を潜ませながら鬼の懐に潜り込んでいる今、そこで動きが止まってしまったらおしまいだ。
あたりには獣の匂いが充満している。「気」がどうこう以前に、空気が澱んでいる。物陰から覗き見る鬼の姿は、ついさっきやりあった鬼とは違う生き物のようにすら見える。
煮しめたように汚れ、濁った瞳を宙に漂わせている鬼ども。
これが、罪を犯し、償いから逃げ、地上に墜ち、肉を纏った神の末路なのだ、と思う。
手元の円盤の針が大きく動いていた。急がねば。
丘が近づく。胸が潰れそうに重い。
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