第33話 黒い靄(もや)

 鬼の居場所を目指して歩いていく。使いに姿を見られてしまったので、坂をまっすぐ上らず、遠回りするようにして歩く。ただでさえ足元が悪いのに、凄く歩きづらい。

 凱の隣を歩いているのだが、少し距離を置いている。手を握ったりすると無意識に強い気が出てしまい、鬼に気取られるかもしれないから。

 日は傾き始め、空は熟した橙色に染まっている。太陽は炎の輝きを見せているけれども、あたたかさは地上を離れ、急激に冷え込んできた。襟元から冷気が入り込んでくる。


 石を踏んづけて軽くよろけた。それと同時に胸が苦しくなる。

 だめだ。もっと「気を張って」いないと。奥歯を噛み、自分に意識を向ける。

 ここは鬼ヶ島だ。それを常に意識していないと、邪気がヒトの体を突き抜けて入り込んでしまう。


 よろけた時など、つい「気」が意識の外に行ってしまう。坂を上るにつれ、それでは自分の体が保てないことに気づいた。

 あたしでもはっきりとわかるほど、邪気が強くなっている。鬼ヶ島に上陸したときの比ではない。

 常に頭が重く、背中の傷痕は「気を張る」だけではどうしようもないくらい、じくじくと痛んでいる。

 つまり、それだけ鬼の居場所に近づいている、ということなのだろう。




 坂のてっぺんを視界が捉えた。道を阻む大きな岩が減り、前方にある橙色の空が少しずつ広くなる。遥か上空を飛んでいる鬼を何度か見かけたが、皆、あたしたちには気づいていないようだ。


 息を吸って、吐く。右足を出し、左足を出す。小声で話をしている人たちもいる中、あたしも凱も、何も話さず、視線も交わさず、ひたすら歩く。呼吸すること、移動することに集中する。

 空も太陽も鮮やかな中、坂の向こうから一筋、黒いもやが立ち上っているのが視える。ここまでくれば、それが煙とかの類でないことはわかっている。


「出水さん。もし日が落ちたら、舟に乗って一旦鬼ヶ島を出ますか」


 ロンは話しかけながら額の汗をぬぐった。確かに今の状況がしばらく続いたら、そうしなければならなくなりそうだ。

 凱があたしを見た。なんとなく言いたいことを察したので、頷いてみる。


「あたし、それはないと思う。凱もそう思うでしょ」


 彼は頷き、前方を見据えた。視線の先にあるのは、黒い靄だ。


「おそらく、坂を上り切ったらすぐです」


 橙色の空が広がっていく。やがて坂を上りきると、視界が一気に開けた。

 後ろを歩いていた皆と眼下に広がる光景を眺める。

 凱は鋭い眼光を宿しながら睥睨へいげいし、ぶるりと小さく身震いした。




 そこは、巨大なすり鉢のような形をしていた。反対側がよく見えないくらいの広さだ。

 整地は全くされておらず、大小さまざまな岩が方々に転がっている。

 そしてその合間に点在する、木片や皮、藁のようなものをくみ上げた小屋の数々。時折そこから出入りしているのは、鬼だ。

 村を襲い、人間や亜人を攫い、作物を奪う鬼どもが、すり鉢の溝にこびりついた胡麻のかすのように貼りついている。


 鬼どもが飛んでいる。

 霞んでいてはっきりと見えるわけではないが、あたしたちのいる場所のちょうど向かいになるあたりを、飛び立ったり帰ってきたりする場所と決めているらしい。そこから色々な方向へ飛んで行くのもいれば、どこかから飛んできて降り立っているのもいる。人々を襲う日没が近いからか、飛んでいく数の方が多いようだ。


 中央あたりの一番土地が低い所に、小さな丘のようになった部分がある。てっぺんがへこんでおり、潰れた面皰にきびみたいな形だ。

 黒い靄は、そこから立ち昇っていた。


 あたしたちはしばらく無言でその光景を眺めた。ついに見つけた鬼の棲みかを目の前にして、言葉よりも前に強い感情が体の中に溢れた。

 驚きとか恐れのような、はっきりとした形のある感情だけではない。心の隙間から滲みだすのは、名前にできない、にちゃにちゃと湿った嫌な臭いのする感情だ。


「堕ちる、って、こういうことなんだな」


 背後で焔の声がした。凱が振り向くと、焔は腕を組んで息を吐いた。


「だってそうじゃないですか。奴ら、もとは神様だったんでしょ。さっきの海の神様みたいに、きれいな場所で海だの山だのを守っていたんでしょ。なのにこのざまですよ。刀や鉄砲であっさりやられる体になって、こんな場所で、あんな小屋に棲んで、ヒトから食料だの魂だの奪って、何が楽しいんすかね」


 焔の言葉を聞いて、岩に貼りつく鬼どもを改めて眺める。


「別に楽しくはない、と思うよ。でもさ、生きようとしちまうんだよ、きっと」


 心の中が、にちゃにちゃで満ちる。それが邪気を引き寄せないよう、心を壁でふさぐ。


「なんでなんだろうね。光の射さない地獄の釜の底でも、生きちゃったりするんだよ。『生き物』ってさ」


 凱があたしを見ているのがわかる。だからあたしは凱を見ず、口を閉じる。邪気が入らないように、これ以上感情を揺らさないように、心の壁に意識を向ける。

 

「出水さん。鬼の町は大きいです。私はもっと小さいと思いました。でも歩いている鬼の数は少ないですよ。手分けして、様子を探れるだろうと思います」


 冷静なロンの声に救われる。彼は腰に下げた袋から何かを取り出した。あたしの掌にすっぽり収まるくらいの大きさの、厚みのある円盤状のものと小さな把手だ。

 円盤の周囲には数の違う短い線が等間隔で描かれており、針が真ん中に取り付けられている。そこだけ見ると、長様自慢の時計をうんと小さくしたような形だ。


「そうですね。ではそれをお借りできますか、ロンさん」

「どうぞ。二人一組にしましょう」


 ロンの言葉を聞いて、自警団員たちが二人ずつの組になった。皆一斉に手持ちの円盤の縁に把手を差し込む。


「日没が近いですから、針が一回転するまでに、ここに戻ったほうがいいですよ」

「では焔と憲は向こうの、あの小屋からあそこの突き当りまで」


 凱とロンによってそれぞれの行き先が決められる。ひととおりの指示が終わった後、凱があたしを見た。


「で、あたしと凱が、あの真ん中の丘、かな」


 凱が頷く。まあ、そう来るだろうな、と思っていた。あの黒い靄は、きっとあたしたちにしか視えていない。


 ロンの合図で皆が調子を合わせて把手を回す。把手を外すと、円盤からじりじりと小さな音が聞こえてきた。

 円盤の内部には小さな歯車が仕込まれており、一回転でちょうど半刻になるようにできているそうだ。


「では」


 ロンの一声で、自警団員たちは指示された方向へと走っていった。

 その姿はいかにも「訓練されている」といった感じだ。しかし呑気に感心している場合ではない。本業が山の管理と子守でも、これからやることは同じ。鬼退治だ。


 息を大きく吸う。少し止め、ゆっくりと吐き出す。

 頭の奥のほうが、あたしの手を震わせ、脚をすくませる。こわい、逃げろと叫んでいる。

 足の指に力を入れ、岩を踏みしめる。

 拳を握る。背中の傷痕が熱くなる。


「焔、憲、気をつけてください」

「任せといてくださいよ。凱さんと小夜も気をつけてな」


 両頬を強く叩いてみる。凱と一瞬目を合わせ、前を向き、ごつごつした坂を下る。


 負けるもんか。自分に克ち、鬼に勝て。

 そして、そうだ。あたしは大事なことを間違えていたんだ。


 強くなれ、あたし。

 いとしい人を守るために。ヒトの世のために。

 そして、いとしい人が愛してくれている、あたし自身が生きるために。




 ロンの言う通り、出歩いている鬼は少ない。空を見ると結構飛んでいるので、今は地上にいる鬼自体が少ないのかもしれない。

 あたしたちがこの島に来ているのを知っている鬼は、どのくらいいるのだろう。

 それを考えると恐怖に囚われそうになる。だが岩や小屋に身を潜ませながら鬼の懐に潜り込んでいる今、そこで動きが止まってしまったらおしまいだ。


 あたりには獣の匂いが充満している。「気」がどうこう以前に、空気が澱んでいる。物陰から覗き見る鬼の姿は、ついさっきやりあった鬼とは違う生き物のようにすら見える。

 煮しめたように汚れ、濁った瞳を宙に漂わせている鬼ども。


 これが、罪を犯し、償いから逃げ、地上に墜ち、肉を纏った神の末路なのだ、と思う。




 手元の円盤の針が大きく動いていた。急がねば。

 丘が近づく。胸が潰れそうに重い。

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