18 月の雫(2)
「……あたしもね、ずっと好きな人がいて」
凱の表情から笑顔が消え失せる。彼は体を少し前に傾けた。
「最初に『その人』に会って、あれっ、なんだこの感情はって思った時は、感謝の情の一種だと思っていたんだよ。だってその人は、今まで見たことないような、なんじゃこりゃってくらい、きれいな優しさをあたしに向けてくれたからさ。もうね、あそこにある磨いた水晶みたいにきれいなの」
ひんやりとした悲しみの広がる胸の中は、月の映る池みたいだ。
凱は前のめりのまま、片手を地面について聴いていた。
「でもね、その後、長様の所に仕えるようになって、いろんなところで『ありがたいなあ』って思うことが増えてさ。それで、わかったんだ。『ああ、これが感謝の情か。あたしがその人に抱いているのは、感謝の情だけじゃないな』って。ばかでしょう。すんごい遅かったの、気づくの。自分の想いが、恋慕の情だってことに」
言葉を切る。考える。ここで話を終えて、なんとなく話題を変えることだってできる。たぶん、それが正しい。正しいのだけれども。
凱の話と心を、曖昧なままにしたくない。
心の中が決着をつける前に、唇はあたしが心の奥にずっと隠していたものを、するりと紡ぎだした。
「それからずっと、ずーっと好きなの。気がつく前から数えると、五年前、鬼に攫われかけていたのを、その人に助けてもらった時から」
ああ、言ってしまった。
胸がもの凄い勢いで鳴る。頬が熱い。
でもそれは、高揚感を伴った「どきどき」とは少し違う。
凱がぴくりと身を震わせ、目を見開いた。口を開きかけ、閉じ、俯き、顔を上げる。
目頭が熱く痺れる。
鼻の奥が痛くなる。
感情のうねりを縛りつけるように、あたしは大きな笑顔を作った。
「あたしはね、月なんだ。夜をぼんやり照らす以外、なんにもできない月なんだよ。太陽の持つ強さも激しさも知らないで、自分は強いって大きな態度を取っているの。そのくせいつも太陽の姿を追って、同じ空にいるときは嬉しくてたまらなくて、でもそんなの言えないから、太陽の光にまぎれながら、こっそり空の下に沈んでいくんだ」
そうか。そうだな。自分で言って、なんだかわかった。
あたしは、月なんだ。
大地をあたため、草木を育み、空をぴかぴかに照らす太陽とは違うんだ。
「どんなに太陽に憧れても、恋焦がれても、手を伸ばしても届かない。それに届いちゃいけないんだ。触れたらきっと月は燃えてしまうだろうし、太陽は月の冷たさに凍えて墜ちちゃうだろうし」
感情があふれ、言葉があふれ、まとまらない話が次々と唇から零れる。
「しょうがないよね。しょうがないんだ。太陽は昼で、月は夜で、住む世界が違うし、それに太陽と月は」
目頭が熱い。
鼻の奥が痛い。
痛いよ。
「『種』が、違うから」
あたしを抑えていた最後の細い糸が、ぷつりと切れる。
熱い目頭から、ころりと涙が落ちる。
これはきっと、月のせいだ。
こんなに悲しく光るからだ。
もしあたしが人間だったら、今頃心があたたかく晴れ渡っていただろうに。
あたしは、亜人だから。
「……って、あ、やだもうあたし、なんなのこれえ!」
熱い目頭から、ころりころりと涙が零れる。その事実を認識し、あたしはうろたえ、変な大声をあげた。
やだ、まさかあたし、泣いているのか。恥ずかしい。何やっているんだ。弱い。弱すぎる。いくらなんでもあたしはこんなに弱くない。そうだ、だからこれは涙なんかじゃないんだ。
「なんか慣れない話し方したら、目から変なの出てきたよ。ごめん気にしないで。なんだろ変だな、泣いてない、泣いてないよこれは、えーと目から汗が、えーと目から鼻水、いや鼻じゃないか」
ごまかす言葉が汚すぎる。なんだよあたし、鼻水って。無駄にうろたえる要素が増えているぞあたし。
勝手に頭を混乱させていると、凱があたしの顔に手を差し出してきた。
彼の長い指が、あたしの頬をそっと滑る。
「――月の雫」
柔らかく微笑み、涙を拭う。
「小夜さんが月ならば、これはきっと、地上に零れ落ちた月の雫なのでしょう」
あたしの涙を拭った手を、月にかざす。
「月の輝く夜は、太陽にはない静かな優しさがあります。その美しさや奥に秘めた強さを、月自身は気づいていないかもしれませんが」
月に手をかざしたまま、あたしに顔を向ける。
目を細め、笑みを浮かべる。
蜂蜜色の髪の縁が、月の光を受けて白金色に浮かび上がる。
「太陽はずっと、月に憧れ、恋焦がれていました。だからぴかぴかと光をまき散らしながら、恥じらい身を隠す月を追いかけていたのです。追いかけてはならぬと知っているのに」
手を下ろす。
下ろした手で、地面についたあたしの手をそっと握る。
彼の掌からあたしの腕を通って痺れが全身を駆け巡る。
「太陽と月。その違いを踏み越えることはできませんが」
彼の囁きが、あたしの心にじわりとしみる。
「せめて今だけは、同じ空にいさせてくださいませんか」
こく、と頷くあたしを見て、凱は握った手に少し力を入れた。
さあ、もう休みましょう、と言って、凱は木に寄り掛かった。
あたしも同じ木に寄り掛かる。手を繋いだまま。
少しだけ、凱に近寄ってみる。
肩の先が、少しだけ触れる。
凱はあたしに笑みを向けた後、顔を伏せて目を閉じた。
月の雫がひたひたと胸に満ちる。
あたしは眠ったふりをしている凱の肩に頬を寄せ、目を閉じた。
頬から、繋がれた手から、凱のぬくもりが伝わってくる。
禁忌のほとりは、あまりにも甘く、あたたかい。
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