第十九話 交渉

 というわけで、俺と水川は交渉を、水川涼子弁護士に一任することになった。まあ、そもそも俺はこの件に関しては部外者だし、水川も母親を信じているようだから、心配することは何もない。愛娘の契約なのだ。誰よりも真剣に交渉してくれるはずだ。


 というわけで、俺と水川は五階フロアの端にある休憩スペースへとやってきた。俺はカップの自販機の前に立つと、ポケットから財布を取り出した。財布から銀色の硬貨を一枚取り出すと、投入口に入れると水川に目で合図を送る。


 たまには年上らしいところを見せておくか。


「もしかして、彼女にはお金は出させない的な、あれですか?」


「いや、単に年上としての見栄だよ」


「じゃあ、恋人からの初プレゼントとして奢ってもらいますね」


 と、あくまで彼女として奢ってもらったということにしたい水川は、悪戯な笑みを浮かべながらオレンジジュースのボタンを押した。


 まあ、数日前までのどうしようもない気まずさはなくなったから、ここは良しとしておくか……。彼女がカップを取り出したのを確認すると俺もコーヒーを購入して、既に四人掛けのテーブルに腰を下ろしていた水川の向かいの椅子に腰を下ろす。そんな俺を見た水川は立ち上がると、隣の椅子に座りなおした。


「少しはここが芸能事務所の中だってこと、意識したらどうだ?」


「え? 何を意識するんですか?」


 ほお、とんだ肝っ玉の持ち主だ。


「彼氏と一緒に芸能事務種に契約に来るだけでも、かなりロックだと思うんだけど……」


 そこまで言って、ようやく彼女は、俺の言いたいことを理解したようで「あぁ……」と間抜けに口を開く。が、すぐに笑みを浮かべる。


「別にいいじゃないですか。私たち、建前上も、戸籍の上でも兄妹なんですし」


 まあ、馬鹿な両親のせいで戸籍上はまだ兄妹じゃないんだけどな。


「それに見てください。私たちに誰もいませんよ?」


 そう言って水川は無人の廊下を指さした。


「まあ、そうかもしれないけどさ……」


「そんなことより……」


 水川は俺から距離を取るどころか、逆に椅子を俺の椅子にぴったりとくっつけると、体を寄せてくる。


「なんだよ。いきなり……」


「私、結構寂しかったんですよ……」


「寂しいって、俺たちここんところ、ずっと一緒にいたじゃねえかよ……」


 事実を答えると水川は不満げに口を尖らせた。どうやら、俺に求めていたのは文字通りの回答ではなかったようだ。彼女はテーブルの下で、膝に置いた俺の手へと、腕を伸ばす。自分の掌を俺の掌に重ねると、ぎゅっと手を握って、俺を見つめた。


「あのなぁ……」


 こいつ、本気で事務所に喧嘩を売ってるな……。


「せっかくお互いの気持ちが分かったのに、全然、甘えられなくて、私、寂しかったですよ……」


「…………」


 俺は心から水川を尊敬する。って言うと皮肉っぽくなるけど、少なくとも、俺には彼女のように、自分の気持ちをここまで素直に伝えられる勇気はない。人目がないことは知っていたが、思わず周りを見回してしまう。


「しばらく、握っていてもいいですか?」


 水川は小首を傾げながら尋ねる。


「いいけどさ……」


 付き合うということはこういうことだってことはわかっている。だけど、やっぱり……俺にはこういうのは、こっ恥ずかしい。自分の水川に対する気持ちが嘘ではないことは知っているが、こういうのに慣れるのにはまだ時間がかかりそうだ。


 それからしばらく会話はなかった。


 別に気まずかったわけではない。いや、俺はほんの少し気まずかったけど、水川の表情を見る限り、彼女は気まずいというよりは会話の必要性を感じていないように思えた。きっと、こんな風に物理的に接触していることが、彼女に安心を与えているのだろう。俺が彼女にとってそんな存在に慣れたことは、素直に嬉しかった。


 それからどれぐらい時間が経っただろうか。


 体感は一〇分。だけど、実際には五分ぐらいだったと思う。


「てめえ、ふざけてんじゃねーぞっ!! この野郎っ!!」


 突然、静かな五階フロアの耳をつんざくような怒号が響き、俺は身体をビクつかせる。


「おいおい、今の何だよ……」


 とっさに立ち上がって、あたりを見渡す。が、声が聞こえただけで人影はない。そして、その声は明らかにさっき涼子さんの入った部屋から聞こえてくる。


「お、お母さま、ですから……」


「こんな条件、飲めるかって言ってんだよっ!! てめえ、優菜を百年に一人の逸材ってさっき言ったよな? だったら、もっと誠意を見せやがれっ!!」


 ん? ちょっと待て。今優菜がどうとか聞こえなかったか?


 俺はとっさに水川を見やった。すると、水川は俺の手をぎゅっと握ったまま、恥ずかしそうに俯いていた。


「もしかして今のって……」


「お母さんの声です……」


「ああ、やっぱり……」


 なんというか、その声は普段の涼子さんからは、あまりにも想像できないほど、おぞましいドスの利いた声だった。


「じ、実はお母さん、ああ見えて昔は色々とやんちゃしてたみたいで……それで時々でてくるんですよね……」


 ああ、わかんない……。どうやら水川涼子という女性は雲をつかむよりも難しいようだ。そりゃ、うちのわけのわからん父親と波長が合うわけだ。


 俺は妙に納得してしまいつつも、ため息を吐いた。


 その後も、数分間、言い合いが続き、しばらくの静寂を挟んでガチャリと部屋のドアが開いた。直後、水川は素早く俺から手を放して立ち上がった。俺もまた水川に遅れて立ち上がる。すると、げっそりとした表情の中年の男と、いつものにこやかな涼子さんが出てくる。


「ごめんね、お待たせ~」


 涼子さんはさっきまでの怒号が嘘のように、柔和な笑みを浮かべながら俺たちの方へと歩いてくるので、思わず後ずさってしまう。


「あら? 友一くん、どうかしたの?」


「え? あ、いや、なんでもないです……」


 涼子さんはしばらく不思議そうに俺を眺めていたが、水川を見やると再び柔和な笑みを浮かべる。


「大丈夫だよ。お母さんと、こちらの専務さんとで、優菜ちゃんにとって一番安心できる契約を交わしたから」


「そ、そうなんだ。あ、ありがとう……」


 さすがに水川もドン引いているようだ。


 結局、この日、涼子さんと専務さんとで交わされた契約を要約するこういうことだ。


 まず芸能活動は水川の学業を優先すること。次に、生活については今後も『兄』である俺と二人暮らしをすること。つまり、彼女が芸能界に入ることによって、俺と水川が離れ離れになることはなくなったということだ。その二つが飲めない限りは契約をしないと涼子さんが要求したところ、最終的には専務のおじさんも折れたらしい。なんでも、涼子さんは水川が他の事務所からもいい条件の話が来ていると、はったりをかましたらしい。


 かくして、水川優菜はこの日、みんなの水川優菜になった。

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