第十八話 天才と何かは紙一重

 覚悟を決めて水川と唇を交わすつもりだった。ファーストキス……ではないが、初めて自分の意思でキスをするのは、心臓が口から飛び出しそうなほどに怖い。それでも、勇気を振り絞ってしようとしたのに……。


「ただいま~」


 そんな俺たちの緊張感など、まったく構うことなく呑気な挨拶でリビングへと歩いてくる涼子さんの登場に、俺も水川も愕然とする。


 水川はすっと俺から体を放すと、歩いてくる涼子さんににっこりと微笑む。


「お帰り、お母さん……」


 彼女はそう言うと、涼子さんのもとへと歩み寄り、彼女にぎゅっとハグをした。そんな水川に涼子さんは「もう……相変わらず甘えん坊さんなんだから」と、彼女の頭をよしよしと撫でる。


 いるはずのない人間の登場に、俺が愕然としていると涼子さんはゆっくりと水川の身体を放して、今度は俺の方へと歩いてくる。


「友一くんもただいま」


 そう言って今度は俺をぎゅっとハグをする。彼女の豊満な胸に頬を押し付けられ、俺は頬が火照るのを感じる。


 あぁ、当たってるよ。やばいやばい……。


 俺はその弾力のある、なんとも幸せな感触を頬に感じながら「お、お帰りなさい。涼子さん」と答えると水川同様に、頭をよしよしと撫でられた。


「先輩、鼻の下、伸びてますよ……」


 そんな俺を水川が冷たい目で見つめる。


 と、そこで俺はようやく涼子さんに解放されると、彼女は「あぁ……やっぱり、長時間のフライトは体に堪えるわね」と自分の肩をポンポンと叩きながら椅子に腰を下ろした。


 いや、ちょっと待て。なんで、涼子さんがここにいるんだよ……。


 シンガポールで父親とよろしくやっているはずの母親の登場に俺が戸惑っていると、そのことにようやく気がついた涼子さんが首を傾げた。


「あれ? 優菜から聞いてないの?」


「いえ、なにも……」


 って、ことは水川は知っているということか……。まあ、彼女の反応から察するに、到着が予定よりもかなり早かったようだが……。


「で、なんで急に帰国なんて……」


 と、そこで俺はようやく彼女に疑問を投げかけた。


「いや……実はシンガポールに行く前に婚姻届けを出すのを忘れちゃったのよね……」


 と、彼女は少し恥ずかしそうに頭をぽりぽりと掻く。


 いや、それ一番、大事なやつだろ……。


 そのとんでもない忘れ物に、俺は度肝を抜かれたが、まああの父親と涼子さんならば、あながちなくもないと思えてしまうから不思議である。


「あとは、優菜ちゃんの契約の立ち合いかな」


「契約?」


「あら? それも聞いてないの? 今度、優菜ちゃんが芸能事務所に所属するから、その契約の立ち合いに来たのよ?」


 と、涼子さんが不思議そうに言うので、俺は水川を見やった。


 すると水川は少し恥ずかしそうに俺から顔を背ける。


「だ、だって、こんなことになるなんて思ってなかったですから……」


 どうやら、彼女にとって今夜の俺との出来事はかなり想定外だったらしい。まあ、彼女に芸能界入りを勧めた俺なのだけど、母親との間では契約するということで話を進めていたらしい。


 俺と水川の間に妙に気まずい空気が流れる。


 そんな俺と水川を見て涼子さんは不思議そうに首を傾げていた。が、すぐに笑顔を浮かべると俺を見つめる。


「というわけだから、数日間はここで居候させてもらうつもりよ。二人の愛の巣をお邪魔するみたいで心が痛いけど、許してね」


 と、涼子さんは冗談を言う。のだが、状況が状況だけに、俺も水川もその冗談に一ミリも笑えそうになかった。



※ ※ ※



 その日から、俺と水川、そして涼子さんの三人暮らしが始まった。そこで起きたのは涼子さんの寝る場所問題だったのだが、結局、水川と同じベッドで眠るということで話はまとまった。とてもいけない妄想だということはわかっているのだが、水川と涼子さんが狭いベッドで身を寄せ合って眠る姿を想像してしまった。


 が、一番の問題は俺と水川の関係だ。


 一応は彼女に自分の気持ちを伝えることはできたし、彼女も俺の気持ちに応えてはくれたが、母親が一緒に生活している以上、そのことを悟られるわけにはいかない。俺と水川はあくまで兄妹として、数日間、健全な関係を演じることになったのだが、結果的に二人の関係が一時的に宙づりの状態になり、お互いに何ともに煮え切らない。


 そんなこんなで数日が経ち、俺と水川は涼子さんの借りたレンタカーに乗って、都内某所にある芸能事務所を尋ねることとなった。


 俺と水川は後部座席に乗り込み、首都高の車窓を眺めていると、不意に俺の空いた左手に何かが触れる。左手を見やると、水川が俺の手に自分の手を絡めるのが見えて、頬が熱くなる。


 水川もまた顔を真っ赤にして俯いてる。


 そんな彼女を見て、俺はお互いの気持ちを伝えたという事実に現実感を抱いた。小さくて柔らかい彼女の指が、俺の指とクロスする。その感触だけで、心臓がはち切れそうになる。


 彼女はぎゅっとつないだ手に力を入れるので、俺も返事をするようにぎゅっと力を入れた。


 車は数十分後に首都高を降りて、目的のビルの前で止まった。


 ここが鳥プロか……。


 何階あるのかもわからない巨大なビルに、契約をするわけでもない俺まで委縮してしまう。


「じゃあ、行こっか」


 が、涼子さんの方は別段いつもと変わらない様子で、俺と水川に微笑みかけると、そそくさとビルの中へと入っていった。


 涼子さんの後ろを歩く水川の背中を眺めながら、俺は不安になってくる。


 俺と水川の生活はどうなってしまうのだろうか?


 水川が芸能人になってしまったら、今のような生活が送れないのではないか? せっかく気持ちを伝えあったのに、その生活が崩壊するのは俺にとってはどうしようもなく怖い。


 自然と足取りが鈍くなる。


 と、そこで水川が足を止めて振り返るとにっこりと微笑む。


「心配しなくても大丈夫です。お母さんはこの手の交渉は得意なので」


 交渉が得意な母親ってなんだ?


 俺は首を傾げつつも、ビルへと入った。


 それから涼子さんは受付で、要件を伝えると、受付嬢の案内でロビーのソファに腰掛けて待つことになった。それから数分後、エレベーターホールから中年の男がこちらへと歩いてくる。


「ああ、どうも御足労をおかけしました。どうぞ、こちらへとお越しください」


 と、その男性に促され、俺たちはエレベーターに乗って五階へと上がると、その中の一室の前で立ち止まった。


 そして、


「じゃあお母さん、お仕事してくるから、優菜と友一くんはちょっと待っててね」


 と言って男性に連れられて部屋の中に入ろうとする。が、その直前、


「あ、ちょっと待ってくださいね」


 と、ポケットから何かを取り出すとスーツの襟の部分に何かを取り付けた。一瞬それが何かわからなかったが、そのピンバッジのような物には天秤のような模様がついていることに気がつき、心臓が止まるほど驚いた。


「なっ……」


 俺は慌てて水川の袖を引っ張る。


「おいっ」


「なんですか?」


「なんで涼子さんが弁護士バッジなんて持ってるんだよ……」


「なんでって、司法試験に通った以外に何か理由があるんですか?」


「はあっ!?」


 え? ちょっと待って。何言ってんのこの子……。


「あれ? 先輩、お母さんから聞いてないんですか?」


 俺は激しく首を横に振る。


「お母さんは私の幼い頃に、食いっぱぐれないようにって、通信制の大学を出て、司法試験を受けたんです」


 さらっと、そんなことを言う水川。


 こいつ司法試験を主婦が取ると便利な資格感覚で言いやがる……。


 天才と何かは紙一重と聞いたことがあるが、どうやら涼子さんはちょっと頭のねじが緩んだ結果、とんでもない才能を手に入れたようだ……。


「なので契約のことはお母さんに任せておけば大丈夫です。先輩、それよりも喉が渇きました」


 そう言って水川は五階フロアの奥にある休憩スペースへと歩いていった。


 俺はしばらくその場を動くことができなかった……。

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