第二十五話 お兄ちゃんはやっぱりしっくりこない
とにかもかくにも水川を追いかけなきゃ……。家を飛び出した俺は十数分ほどかけて、駅近くの川に掛かっている乗用車用の橋へとたどり着いた……のだが。
いない……。
河川敷へと降りて、橋の下を確認してみるが水川の姿がない。確かにここが冴木さんの話していた橋のはずだ。が、橋の下では高校生カップルがイチャイチャしているだけで、それ以外の人影はない。
俺はこんなものを見るためにここまで全力疾走してきたのか?
とんだ拍子抜けで、全身の力が抜ける。
「こ、こんなのところで何やってるんですか?」
と、そこで背後で声が聞こえたので振り返ると、水川がいたので俺は呆れ顔で彼女を見やる。
「いや、冴木さんからお前がここにいるって聞いたから急いで追いかけてきたんだよ。それなのに高校生がイチャイチャしているだけで、お前の姿なんてないじゃねえか……って、おいっ!!」
あまりにも水川が普通に話しかけてくるので、思わず話を合わせてしまった。
「な、なんでお前がここにいるんだよっ」
「な、なんでって、ここを目指して歩いていたら、後ろから先輩がもの凄い速さで走ってきて、私を追い抜くから、心配になって追いかけてきたんですよ」
「え? 俺、お前のこと追い抜いたのか?」
水川はこくりと頷いた。
どうやら先走りすぎたようだ。どうやら俺は、水川を探すのに夢中で水川を見落とすという本末転倒なことをやらかしたらしい……。
「先輩、こんなところで何やってるんですか?」
「お前を慰めるために来たんだよ。そしたら、間違えてお前を追い抜いた」
そう真面目に説明する俺を水川はしばらく眺めていたが、不意にクスッと笑いを漏らす。
「先輩って意外とバカなんですね」
「うるせえな。俺はお前が心配で……」
「ありがとうございます。だけど、私のことは心配していただかなくても大丈夫です」
そう言って俺に微笑みかける水川。
「なんだよそれ……」
俺は脱力感で思わず、河川敷の芝生の上に座り込む。そんな俺を見て微笑む水川もまた、その場にしゃがみ込む。
「本当に先輩は優しいお兄ちゃんですね」
そう言って水川は俺の頭を撫でた。俺はなんだかムズ痒いのでその手を払いのける。が、俺のそんな反応が面白かったのか、彼女は再び俺の頭を撫でるので、俺は観念して受け入れた。
「どうして、そんなに私のことを心配してくれたんですか?」
と、そこで水川はそんな質問をして首を傾げる。
「そりゃ、泣きながら家を出ていく妹を見て、心配しない兄なんていないよ」
「私、泣いてましたか?」
「お前は自分の涙に鈍感すぎるんだよ……」
そう言って水川を睨むと、彼女は「えへへっ……」と苦笑いを浮かべた。
「俺にはお前らが喧嘩する理由が正直わからない。どうしてあんなに仲のいい姉妹が声を荒げてまで喧嘩なんかしなきゃいけないんだよ」
そう言うと、水川は意地悪な笑みを浮かべて、今度は俺の頬を指先でつつきはじめる。
「鈍感な先輩にはわかりませんよ」
「うるせえ……」
「私は少し恵まれすぎているんですよ……」
と、そこで水川は俺から手を放すと、膝に手を置いて川面を眺める。
「私は今、とても幸せです。だけど、その幸せはなんだかお姉ちゃんから横取りしたものみたいで、私一人が幸せになるのは、なんだか複雑なんです……」
「本当にお前ら姉妹は無駄におせっかいなところがよく似ているな……」
俺は彼女を見てそう思った。
本当によく似ている。こいつらはお互いのことを気遣いすぎて、自分のことをおろそかにしすぎている。それはもちろん、水川にしても、認めたくはないけど冴木さんにしても優しすぎることが原因なんだろうが、その優しさが今回はあだとなっている。
「え?」
俺の言葉に水川は不思議そうに首を傾げる。
「お前はそんなに冴木さんのことが信用できないのか?」
「そんなことないです。私はお姉ちゃんのことを一番信頼しています」
「だったら信じてやればいいじゃねえか」
「どういうことですか? 今言ったじゃないですか。私はお姉ちゃんのことを一番信頼――」
「だったら、彼女の選択を信じてやればいいじゃねえか……」
「…………」
「正直、俺は水川にシンガポールに行けって言ったことを後悔している……」
ああ、本当に柄じゃない。俺なんかが水川に何かを語るなんて本当に本当に柄じゃない。本当はこういうのは一番苦手なんだ。なんだか人生を語ろうとしている自分を想像して、悪寒が走るほどに寒気がしたが、今更後戻りなんてできない。
「俺は本当は日本で水川と暮らしたかった。昨日も言っただろ? 俺は水川と一緒にいるのがどうしようもなく楽しいんだ。お前と飯を食ってるときも、一緒に学校に行くときも、道草を食っているときも、楽しくて楽しくてしょうがないんだ」
ああ、恥ずかしい。本当に川があったら飛び込みたいぐらいだ。
「だけど、俺はあの時、お前が母親にいるのが一番幸せだと思ったし、俺なんかがお前の母親代わりなんてできないって思っていたんだ。だけど、それは間違っていた」
水川は何も答えずにじっと俺を見つめていた。
「俺は水川がいなくなる自分ってのは、すっかり無視しちまってたんだ。しかも、お前にシンガポールに行けって言った次の日から、お前はなんだか様子がおかしいし、本当にわけがわかんねえよ……」
俺は結局まだ高校生だったのだ。大人ぶって水川の幸せなんてものを勝手に決めつけて、シンガポールに行くことが彼女にとって一番の幸せだなんて、何様目線で決めつけていた。
きっと、それが俺の失敗だ。
彼女にとって何が幸せなんかなんて、俺には知りようがない。
「だけど、それはお前も冴木さんも同じだ……多分」
「同じ、ですか?」
「そうだよ。多分同じだ。俺が水川に余計な気遣いをしたように、水川もまた冴木さんに余計な気遣いをした。そして、冴木さんだってお前にいらぬおせっかいをしているんだ。だけど、それで俺たちはこの数日間、笑顔になれたのか?」
「それは……」
水川の表情が曇った。
「ああ、恥ずかしい。ホント俺なんかがこんな話してるのに本気で寒気がするぜ。だけどよ、あと一分でいいから聞いてくれ。この言葉は正しいかどうかはわからないが、少なくとも大きくは間違えていないとも思う」
俺は芝生に膝をついた。そして、彼女に向き直ると、彼女の肩を掴んで彼女をじっと見つめる。
「俺は高校生のくせに大人ぶるのは止めたんだ。だから、俺は自分のために生きることにする。それが俺たち子どものわがままだ。水川、俺はお前に日本にいて欲しい。俺はまた一人でレトルトカレーを食うような生活はしたくないんだ。お前にからかわれて、掌で転がされて、それでいてお前と冴木さんの姉妹愛に嫉妬していたいんだ。これが、俺の今世紀最大のわがままだっ!!」
言ってから恥ずかしさが最高潮に達する。俺は自分の顔がゆでだこになっているのがわかる。ああ、ダメだ。本当にこんな臭いセリフ糞くらえだ。
「…………」
水川はやっぱり何も答えずにじっと俺を見つめていた。
「どうだ。俺は胸の内をすべてぶちまけた。だけど、これはあくまで俺の願望だ。俺が聞きたいのは水川の言葉だ。水川の本当の言葉だ。お前が俺と一緒に住みたくないって言うんだったら、俺は潔くそれを受け入れる。だけど、自分に嘘を吐いたら、そのときは……そのきは……」
そのときはどうするのか何も考えていなかった。
俺は慌ててあたりを見渡す。
「その時は俺はケータイをポケットに入れたまま、川に飛び込んで水没させてやる。このケータイ端末代十万円もするんだぞ? そんなことしたら俺は親父にぶん殴られるぞっ!!」
何言ってんだ俺っ!?
恥ずかしすぎてわけわからないことを言った。けど、水川は表情を変えずにじっと俺を見つめていた。
「わ、私は……」
震える声で口を小さく開く。
「私は……先輩を……先輩を……本当はお兄ちゃんだなんて認めたくありませんっ」
「え、ええ?」
その斜め上をいく言葉に俺は拍子抜けする。
「私は本当は先輩のことお兄ちゃんだなんて、呼びたくないんです。先輩は先輩でしかないんです。だけど、一緒に住んだら、私はお兄ちゃんの妹であることを認めなきゃいけなくなるような気がするんですっ。だから、私はそれが嫌でシンガポールに逃げようと思いました」
水川はそう言って瞳に涙を浮かべた。
「先輩がどうしても私に残ってと言うのなら、私は絶対に先輩のことをお兄ちゃんだなんて認めません。誰に何を言われようとも絶対にっ!!」
俺には水川の言葉一つ一つの意味を理解してやれるほど、勘のいい男ではなかった。だけど、彼女の声が、目が、そして、頬を伝う涙が、その言葉が彼女の本当の言葉だということを気づかせてくれる。
だったら、俺はその言葉を真剣に受け止めてやらなきゃいけない。
「おう、俺だって、お前にお兄ちゃんなんて呼ばれるのは正直ムズ痒い。だから、俺のことを無理にお兄ちゃんだなんて思うな」
そう全力で答えると水川は涙を流しながら、ハッとしたように目を見開いた。
本当に絵になる女の子だ。美少女という生き物は泣いていても、笑っていても、怒っていても、悲しんでいても、他人の心を揺さぶってきやがるのだ。
しばらく沈黙が続いた。俺は言いたいことをすべて言った。これ以上の言葉は俺の一番嫌いな説教臭い退屈な言葉になるはずだ。
二人の沈黙を破ったのは意外なことにグゥ~と鳴った水川の腹の音だった。
水川は予想外な生理現象に恥ずかしげに顔を赤らめる。
「そ、そう言えば今日は昼を食べてませんでした……」
「わかったよ。じゃあ、今晩は俺が腕をふるってカレーライスでも――」
「それは大丈夫です」
と、水川はきっぱりと俺の提案を断って、立ち上がった。
「やっぱり先輩に自炊は無理みたいです」
そう言って意地悪な笑みを浮かべると、彼女は歩き出した。
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