第二十四話 気遣いはときに軋轢を生む

 翌日の放課後、特に誰かと会話をするわけでもなく、学校を後にした俺は、校門を出たところで誰かに肩を叩かれた。反射的に振り返ると、俺の頬に人差し指が突き刺さる。


「やった。引っかかった」


 初歩的なトラップに引っかかった。俺は嬉しそうに笑う冴木さんを睨む。


「本当に性根の腐った人ですね……」


「そこまで言わなくてもいいじゃない……。ちょっとした冗談よ」


 そう言って冴木さんはつまらなそうに唇を尖らせると、俺の隣を歩き始めた。


「何か用ですか?」


「恋人の隣を歩くのに理由なんて必要かしら?」


 そう言って彼女は俺の腕にしがみついてくる。


「ちょ、ちょっと待ってください。さすがにここでそれはマズいです……」


 俺は顔を真っ赤にしてあたりを見渡す。


「つまり、二人っきりになれる場所ならこうしてもいいってこと?」


 そんな俺に追い打ちをかけるようにそう言うと、冴木さんはいつもの悪戯な笑みを浮かべる。


「いや、あんたは根本的に何か――」


 と、そこまで言ったところで、俺はようやく昨日のことを思い出す。


「そうだ」


「京都へ行こうっ!!」


 と、そこで冴木さんは嬉しそうに右手を上げる。そんな彼女に俺はポカンと口を開ける。


「なんすかそれ?」


「わからないならいい……」


 と、何やらつまらなさそうに唇を尖らせる。どうやら今のは彼女なりのギャグだったらしい。


「そういえば、昨日、水川が家に来ました」


 と、そこで俺はふと思い出して足を止める。


「知ってるわよ。ちょうどあなたの家を出たときに鉢合わせたから」


 そう言えば、昨日は冴木さんが帰った直後に、水川が帰ってきたんだっけ? だとしたら、鉢合わせたとしてもおかしくない。


「どうやら俺たちの関係が嘘だってことは、水川には初めからバレていたみたいです」


「へぇ……まあ優菜ちゃんは勘の鋭い女の子だものね。で、それがどうかしたの?」


「決まってるじゃないですか。彼女にバレてしまった以上、俺と冴木さんが恋人のフリをする理由はなくなったわけです」


 そう言うと、冴木さんは俺の腕から体を放すと、何やら首を傾げて俺を見上げた。


「つまり、何が言いたいの?」


「決まってるじゃないですか。こんな猿芝居止めましょうってことです」


「つまり、私と別れたいって言いたいの?」


「そういうことです……」


 そもそも俺たちは水川のために、こんな猿芝居を続けてきた。正直、俺にはこんな猿芝居のどこが彼女のためになるのかは、わからなかったが、冴木さんの言葉を信じて続けてきた。

 が、そもそも水川が俺たちのことに気づいてしまったのに、わざわざこんなわけのわからないことを続けている理由はない。


 俺の言葉に、水川さんはしばらく何も答えずに俺を見つめていた。


「どうかしましたか?」


「何もないわよ。あなたが私と別れたいのならば、別れてあげてもいいけど……」


「別れたいのは冴木さんだって一緒だと思いますけど」


「どうして、そう思うのかしら?」


「だって、冴木さんは俺のことが嫌いなんじゃないんですか?」


「嫌いよ。あなたの顔に唾を吐きたいくらいに」


「別に嫌いの度合いは聞いてないです……」


 というわけで、彼女だって何も俺を好きで、俺とこんな猿芝居を続けていたわけではないのだ。だとしたら、すぐにでもこんなことは止めるべきだと思った。冴木さんはまたしばらく黙り込んでいたが、不意ににっこりと笑みを浮かべると「わかったわ」と了承してくれた。


 俺と冴木さんは再び歩きはじめる。


「で、どうだったの?」


 と、そこで冴木さんは何やら漠然とした質問をぶつけてくる。


「どうって、何がですか?」


「決まっているじゃない。優菜ちゃんのことよ。ちゃんと引き留められたかしら?」


「無理でした……」


 俺が苦笑いを浮かべて、そう答えると冴木さんは不意に足を止めた。俺も足を止めて、彼女を見やると、彼女は信じられないといった様子で俺を見つめる。


「ねえ、友一くん、きみは優菜ちゃんに、ちゃんと一緒にいたいって言ったのかしら?」


「は、はあ?」


「友一くんが引き留めて優菜ちゃんがシンガポールに行くなんて、言うはずがないわ」


「な、なんなんですか、その確信めいた言い方は……」


「そうに違いないの。ねえ、友一くんは優菜ちゃんになんて言ったの?」


「楽しいって言っただけです。俺は水川と一緒にいると楽しいし、彼女がシンガポールに行くと寂しいって言いました……」


 水川が言ったように、子どもの作文みたいなことしか言ってねえ。さすがに冴木さんにそれを白状するのはなかなか恥ずかしいものがある。俺は羞恥心で顔を真っ赤にするが、彼女は意外にも茶化すわけでもなく、俺の話を真剣に聞いていた。


「で、優菜ちゃんはどう答えたの?」


「どうって……言ったじゃないですか……。彼女はシンガポールに行くって言ったんです」


「他には何も言っていなかったの?」


「それは……」


 俺は思わず口籠る。そうだ。水川は冴木さんに気を遣ってシンガポールに行くと言っていたのだ。だけど、そのことを素直に彼女に話すのは躊躇われた。


 が、口籠った俺を見た冴木さんは俺に詰め寄る。息がかかるぐらいに顔を近づけると、鋭い形相で俺を睨んだ。


「何を隠してるの?」


「それは……」


「言ってっ!!」


 そのあまりにも威圧的な物言いに、俺は思わず動揺してしまう。彼女の目はどこまでも真剣だった。そんな彼女の顔を見たのは初めてだった。


 俺はその彼女の切羽詰まった表情に負けた。


「あなたに気を遣っているんですよ。きっと……」


「どういうこと?」


「わからないです。だけど、あなたは水川のために尽くしすぎているんです。俺と付き合うなんて言ったのもそうです。あなたは水川のために少し自分を犠牲にしすぎている。水川がそんなあなたのことを心配しているのはわかりますよね?」


「わからないわね」


「どうしてですか? 俺も加担してしまったんで、強くは言えませんが、少し俺たちはやりすぎました。お互いの気持ちを無視して嘘の恋愛をするのは――」


「友一くん」


 と、そこで冴木さんは俺の名を呼ぶ。


「私、今日は少し用事があるから、もう行くわね……」


 冴木さんは無表情のままそう言うと、俺を置いて歩いていってしまった。


 そんな彼女の後ろ姿を俺は呆然と眺めていることしかできなかった。



※ ※ ※



 なんだか胸にモヤモヤを抱いたまま、俺は自宅へとたどり着いた。本当は駅までの喫茶店でお気に入りのラノベを読んで帰るつもりだったのだが、さっきの冴木さんのことで頭がいっぱいでとてもじゃないが、読書に没頭なんてできそうになかった。


 ポケットから狸のキーホルダーの付いたカギを取り出すと鍵を回す。そして、ゆっくりと扉を開くと、俺は気がついた。


 水川がいる。彼女のローファーが見えたのだ。が、すぐにその隣にもう一足ローファーが脱ぎ散らかされていることに気がつく。


 胸騒ぎがした。


 俺は急いで、靴を脱ぎ捨てるとリビングへと駆けていく。


 リビングの扉を開けると、想像通り水川の姿と、その腕を掴む冴木さんの姿があった。冴木さんは水川の腕を掴んだまま、彼女を睨んでいたが、ドアの音に気がついたのか驚いたようにこちらを振り向いた。


 明らかにただならぬ空気がリビングを覆っている。


「な、何やってるんですか」


 俺が思わず尋ねると、冴木さんは俺から目を逸らす。


「勝手にお邪魔してごめんね。だけど、ちょっと、この子の目を覚まさなくちゃいけなくて」


 俺は次に水川を見やった。水川は俺の視線に目を見開いたが、すぐに冴木さん同様に俺から視線を逸らした。


「お、お姉ちゃんには関係ないでしょ。私はもうシンガポールに行くって決めたの……」


 水川は冴木さんを見やると、そう小さく呟いた。


 すると、冴木さんは水川に顔を接近させて、彼女を睨みつける。


「それで私に気を遣っているつもりだったら、あんたは本当に馬鹿よ。そんなくだらない気遣いであんたは一生後悔するかもしれないのよ?」


「それはお姉ちゃんだって一緒じゃない。お姉ちゃんはどうして、そうやっていつも私のために自分を犠牲にするの? お姉ちゃんだって、自分が幸せになるために――」


「わかったような言い方しないでっ。あんたが日本に残ることと、私の幸せを勝手に結びつけないでくれないかしらっ」


 修羅場だった。


 水川と冴木さんはそれぞれ、俺に一度も見せたことのない表情でにらみ合っていた。


 どうしてこんなことになっている。いったい、何が原因だ? 確かに冴木さんが水川のために自分を殺しているというのは理解できる。だけど、それだけでどうして二人がこんなにも声を荒げて喧嘩をする必要がある。俺には彼女たちの喧嘩の核心がつかめないでいた。


「正直、荷が重いの。お姉ちゃんのその気遣い……」


 と、そこで水川は声を震わせながら、小さく呟く。そこで俺は気がついた。彼女の瞳からボロボロと涙が零れ落ちていることに。


「お姉ちゃんが傷ついているのを見るのが辛いの私……。だって、本当はお姉ちゃんは――」


「それ以上言わないでっ!!」


 と、そこで冴木さんは水川の言葉を遮った。そして、冴木さんは不意にこちらを見やった。冴木さんはしばらく俺のことを見つめていた。が、不意に水川が冴木さんの手を振りほどくと、走り出した。俺を横切るとそのまま玄関へと走ってそのまま家を出て行ってしまった。


 俺は一人、状況を理解できないまま呆然と立ち尽くすことしかできない。


 ホント情けない……。


 呆然と、閉まったドアを見つめていると、いつの間にか冴木さんは俺のそばに立っていた。


「あ~あ、優菜ちゃんのこと悲しませちゃった……」


 そう呟くと、不意に苦笑いを浮かべる。


「俺は冴木さんのことが嫌いです。だけど、水川のことを誰よりも愛しているのも知っています……。だから、あなたがやったことを否定するつもりはありません」


 彼女はどこまでも実の妹、水川優菜を愛している。


 それはとてもじゃないが、俺なんかには敵わないような愛だ……。兄として俺が嫉妬してしまいそうなほどの愛。


「ごめんね、私は優菜ちゃんのことをなめてたみたい」


 冴木さんはそう呟いた。


「きっと優菜ちゃんは私が思っているよりも何倍も成長していて、本当は私が彼女のことなんて守ってあげなくても生きていける。それなのに、私はそれが寂しくて、つい過保護になっちゃうのよね」


「冴木さん」


「なぁに?」


 冴木さんは可愛らしく小首を傾げる。


「俺は水川が悪いとも冴木さんが悪いとも思いません。だけど、あなたはもっと自分の幸せのために生きるべきだと思います」


「確かにそうかもね。だけど、それを友一くんに言われるのは少し寂しいな……」


「どうしてですか?」


「そういう鈍感なところが、あなたの良いところであり、悪いところよ」


 冴木さんはゆっくりと玄関へと歩いていく。


「ついカッとしちゃったわ。ホント私らしくない……。あなたの家で喧嘩なんかしちゃってごめんね。私はもう帰るわ」


「水川を追いかけなくてもいいんですか?」


「何言ってるの? それはあなたの仕事でしょ? だって、私たちが喧嘩をしているのはあなたのせいでもあるのだから」


「俺のせいですか?」


 そう尋ねると、冴木さんは俺に歩み寄って微笑むと、俺にデコピンをする。


「言ったでしょ。あなたのそう言う鈍感さが、あなたの良いところであり、同時に悪いところでもあるの。それにきっと彼女の気持ちを変えることができるのはあなただけよ……」


 冴木さんは机の上の鞄を肩にかけると玄関へと歩いていく。


「あの子なら、きっと駅の横に流れている川の橋の下にいるわ。あの子、昔から拗ねたときはあそこに隠れるから」


「あ、ありがとうございます……」


「バトンタッチよ。あなたもあの子の兄妹なんだったら、しっかり彼女の気持ちを受け止めてあげないとね」


 そう言って彼女は背を向けたまま右手を上げると、マンションを出て行った。


 その背中は少しだけ寂しそうで、俺はほんの少し胸が苦しくなった。

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