第二十二話 訪問者
母親と一緒に暮らせるのであれば、それが彼女、
だってそうだろ? 彼女は母親が海の向こうの遠い国に行ってしまうことを寂しがっていた。それは彼女の涙を見ていれば明らかだし、彼女だって現にそう言っていた。
だとしたら、兄になった俺がやるべきことは、彼女の寂しさを取り除いてやること。そして、彼女の寂しさを埋めることができるのはきっと彼女の母親だけだ。
だとしたら、やっぱり俺が彼女にシンガポール行きを提案したのは間違いではなかったと思う……のに。
彼女にその提案をした日以降、数日間、彼女は俺の家には泊まりに来ていない。
別にそれだけならば構わないのだが、学校での会話もあの日以来、ほとんどないし、放送部での活動でも必要最低限以外の会話は交わしていない。会話が減って、俺はそれまでの彼女との会話のほとんどが、彼女発信だったのだということに今更気がついた。
とにかく、この数日間、彼女の様子が少しおかしい。
いくら鈍感な俺でも、その明らかな変化は気にならないわけがないのだが、俺には肝心のその原因がわからないでいた。
日曜日、俺は自宅のリビングで俺は一人、レトルトカレーを食べていた。カレーを口に含んで俺はなんだか懐かしさを覚える。水川が妹になるまで、俺は毎日こんな物ばかり食っていたのだ。彼女が家に来るまでにいかに味気ない食事を口にしていたのか痛感させられる……。
が、それ以上に、食事中に会話をする相手がいないことに、俺は何とも言えない寂しさを覚える。
父親が仕事人間のため、基本的には一人でいることは慣れていたはずの俺が、数日間、一人でいるだけで、寂しさを感じるなんて思ってもみなかった。
が、これからこういう生活が続くのだ。俺は一人日本に残って家を守る。俺は欝々とした気持ちを払しょくしようと、首を激しく横に振ってカレーを口に放り込む。
ピンポーンっ!!
自宅のチャイムが鳴った。しかも、オートロックの我が家ではなく、玄関のチャイムだ。つまりそれは訪問者が自宅のドアのすぐ前にいることを意味する。
俺は慌てて立ち上がって、玄関へと走ったが、その途中で必要以上に慌てふためいている自分に気がついて、努めて平静を装って玄関へと向かう。
水川か?
そう思って、ドアを開ける。
が、そこに立っていたのは、今、最も会いたくない女だった。
「ごめんね、優菜ちゃんだと思った?」
「別に……、ただ玄関のチャイムが鳴ったから少し驚いただけです」
そうだよ、水川だと思ったよっ!! そして、落胆したよっ!!
とは、さすがに口に出来ない。
「一階でチャイムを押そうと思ったら、住民の人が開けたから、つい、足を入れちゃったっ」
「可愛く言っても、不法侵入だよっ」
「あら? あなたにも私を可愛いって思う感情はあるのね」
と、いつもの悪戯な笑みを浮かべるので、思わず赤面してしまう。
「ま、まあ、可愛さだけは認めますよ。内面は学園一のブスだと思っていますけど」
「見た目さえよければ問題ないわ」
「本当に清々しい人ですね……」
「ありがとう」
「いや、褒めてねえよ……」
ダメだ。どんどん彼女のペースに乗せられていっているような気がする。俺は一度、気持ちをリセットするために咳ばらいをすると彼女を見やる。
「で、何の用ですか?」
そう尋ねると冴木さんは相変わらずの笑みで俺を見つめ返してきた。
「恋人の家を訪問するのに理由なんて必要かしら?」
「いや、誰があんたのこいび――」
と、そこまで言ったところで、俺は思い出した。
俺と冴木涼花は付き合っているのだ……。
「あれれ? どうして言葉に詰まるの?」
「付き合っているって言っても、これはなんというかその……建前上というか、水川のためというか……」
そうだ。これが水川のためになると言われたから、俺は冴木さんと付き合うことを了承した。もちろん、俺にはどうして彼女と付き合うことが水川のためになるかなんて、これっぽっちも分からない。が、冴木さんの水川への愛情だけは信頼しているから俺は話に乗った。
それが水川のためになるから……。
「建前上でもなんでも、付き合っていることには変わりないわ。あなただって、どうせ暇なんでしょ? せっかくだから甘い休日を一緒に過ごしましょ?」
冴木さんは可愛らしく小首を傾げて、俺の頬を人差し指でツンツンとつつくと、勝手に家に上がり込む。俺はリビングへと歩いていく彼女を一度眺め、ため息を吐くと、彼女を追うようにリビングへと歩き出した。
テーブルの上には食べかけのレトルトカレー。それを見た冴木さんは何やら信じられないものでも見たように両手で口を覆った。
「休日に一人でレトルトカレーなんて、友一くんはなんて可愛そうな男の子なの……」
「あんたが男だったら、本気でぶん殴ってますよ」
「私が料理作ってあげよっか?」
「結構です。毒とか入ってそうなんで……」
俺は全力でそっけなくそう答えると、テーブルについて再びレトルトカレーを食べる。
「ああ美味い。レトルトカレー超美味いわっ!! サイコーっ!!」
悲しくなるほどに、自分を肯定していると、冴木さんはクスクスと笑ってキッチンへと歩いていく。
そして、俺がカレーを食べ終えたのと同時に彼女はリビングへと戻ってくる。
「食後の紅茶はいかがかしら?」
そう言って、持っていた二つのティーカップの片方をテーブルに置いた。
「あ、ありがとうございます……」
変なところで気が利くのが、さらに腹立たしい。俺は不本意ながらも彼女にお礼を言うとティーカップに手を伸ばす。ありがたく紅茶を頂いていると、隣の椅子に冴木さんが腰を下ろす。
「いいわね。隣にこんなに可愛い女の子が座ってるなんて、数週間前の友一くんには想像もできなかったんじゃない?」
「あんたを不細工にできる人がいたら、俺はその人に言い値を払う自信があります」
本当に自覚のある美人ほど手に負えないものはない……。
「あんまり嬉しそうじゃないわね」
「実際に嬉しくないですから」
「本当は優菜ちゃんがよかった?」
「ゲホッ!! ゲホッ!!」
唐突に飛び出した水川の名前に、思わず紅茶が器官に入った。
「友一くんったら、本当に素直な反応するわね」
そんな俺を見てクスクスと笑う冴木さん。俺は冴木さんを睨む。
「そろそろ何しに来たか教えてくれませんか?」
そう尋ねると、冴木さんは俺の顔を覗き込むように見やった。彼女の顔が間近にせまり、俺はまた頬が熱くなる。
本当に顔だけは可愛いから困る。
冴木さんは何がしたいのか、しばらくじっと俺のことを見つめていたが、不意に口を開く。
「本当は優菜ちゃんから、お兄ちゃんって呼ばれるのが寂しいんでしょ?」
「なっ!?」
思わず反応してしまった。が、同時にどうして自分が冴木さんの言葉に反応してしまったのか不思議だった。
「へぇ……図星なんだ……」
と、冴木さんは何かを納得したように「ふむふむ、なるほどねえ……」と頷く。
「別に、そんなことは――」
と、必死に言いつくろうとするが、冴木さんが真剣な目で俺を見つめるのでそこで言葉が止まってしまう。
「もしかしたら、友一くんのそういう建前が優菜ちゃんを傷つけているのかもしれないわね」
「話が見えません」
「見ようとしていない……の間違いじゃないかしら?」
俺には冴木さんの言葉の意味が理解できなかった。彼女は何を言っているんだ。そして、俺はどうして彼女の言葉をはっきりと否定できないのだ。
俺にはわからない。
「ねえ、友一くん、私とキスしよっか?」
「いや、脈略がなさすぎるでしょっ」
「いいじゃない。私たち付き合っているんだし……」
そう言って、彼女は妙にうっとりとした顔をすると、手の甲で俺の頬を撫でる。
もちろん冴木さんが俺に好意を寄せているわけがない。だとしたら、好きでもない相手にこんな顔ができる彼女は本当に恐ろしい女だ。
「どこまで俺をからかえば気が済むんですか……」
「からかってなんていないわよ。私は友一くんと付き合うと決めた時から、あなたにすべてを捧げる覚悟は決めているから」
そう言って、冴木さんはさらに俺に顔を接近させる。
「あなたには覚悟はあるかしら?」
「それは……」
「それとも後ろめたいの?」
と、そこで冴木さんはわずかに微笑んだ。
後ろめたさ……俺は彼女の言葉を否定できない……。
何故ならば、今、俺の頭に浮かぶのは……。
俺が目を見開いたまま、硬直していると冴木さんは不意にため息を吐いて、俺から顔を離した。
「なんか冷めちゃった……」
「本当に情緒不安定な人ですね……」
「当然よ。他の女のことを考えている男とキスなんてしたくないわ」
「…………」
俺は思わず彼女から目を逸らす。
「何が言いたいんですか?」
「あなたは他人に気を遣いすぎて、自分が何を望んでいるのか見えなくなっているんじゃないかしら」
冴木さんは、何やら優しい笑みを浮かべる。
本当に表情の忙しい人だ。
「どういうことですか?」
「それは自分で考えなさい。私が答えられるのはここまでよ」
そう言って冴木さんは立ち上がった。
「私、そろそろ帰ろうかしら」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
思わず、俺も立ち上がる。
そんな俺を見て、冴木さんはクスッと笑う。
「あれ? さっきまでは私のこと鬱陶しがっていたのに、恋しくなっちゃったの?」
「い、いや、そういうことじゃなくて……」
悔しい……。
本当に悔しい。
俺は彼女のことを心の底から憎むことができないのが、悔しい。
彼女はきっと伝えにきたのだ。
俺が見たくないものから目を逸らしていることを伝えにきたのだ。
いったい俺は何から目を逸らしているんだ? 冴木さんがキスをしようとしたとき、どうして俺は水川の顔を思い浮かべてしまったんだ?
俺にはわからない。
いや、嘘だ。
俺は確かに目を逸らしている。だけど、俺にはわからないのだ。水川から『おにいちゃん』と呼ばれることに寂しさを感じるのか。どうして、彼女にシンガポール行きを提案したことを心のどこかで後悔しているのか。
「冴木さん」
俺は彼女を呼び止める。
「もう、友一くんったら欲しがりね」
「今の俺にはまだわかりません」
俺の言葉に首を傾げる冴木さん。
「俺はまだ自分自身の彼女に対する感情がよくわかりません。俺の中で彼女は妹であり後輩でもあるんです。だから、俺は未確定な感情を口にするつもりはありません」
そう答えると、彼女は少し納得したように微笑む。
「だけど優菜ちゃんがシンガポールに行っちゃったら、確かめられないわよ」
「だから、困っているんです。だけど、彼女にとっては――」
「あなたにとっては……の方が大切じゃない?」
「それは……」
「じゃあ、私、帰るわね」
そう言うと冴木さんは俺に背を向けて玄関へと歩いて行ってしまった。俺は彼女にそれ以上声を掛けることができず、放心状態で腰を下ろす。
彼女が指摘した俺の気持ち……。
俺はそれにはっきりと答えられるような明確な言葉は持ち合わせていない。
本当に自分が情けなかった。
俺はどうしたいのか? それを言葉にするのはあまりにも独善的のように思えた。
と、そこでふと廊下から足音が聞こえてくる。
どうやら冴木さんが戻ってきたようだ。忘れ物でもしたのか?
俺は玄関の方を見やった。そして、目を見開く。
そこに立っていたのは
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