第二十三話 楽しいこと

 水川の突然の登場に、思わず驚きが顔に出てしまった。大きく目を見開く俺に彼女もまた、驚いたように目を見開く。


 なんというか完全に心の準備が出来ていなかった。


 俺と水川はしばらく目を見開いたまま見つめあい、リビングを気まずい空気が覆う。が、不意に彼女は俺から視線を逸らす。


「に、荷物を取りに来ただけです。すぐに出るんで……」


「お、おう、そうか……」


 なんだ、このぎこちなさ極まりない会話は……。


 つい数日前であんなにも自然にできていたのに、どうして今の俺には普通に彼女を見ることすらできないのか。不思議で仕方がない。


 彼女はしばらくそこに突っ立っていたが、俺に背を向けると自室へと歩いていく。


 彼女の背中を眺めながら俺は思う。


 このまま彼女を帰してはいけない。もしも、ここで彼女を帰してしまったら、俺はもう二度と彼女と普通に会話をすることができない気がした。


 けど、どうやって彼女になんて声を掛ければいいんだ。


 その言葉がどうしても出てこない……。


 なんだ? 『今日はいい天気だな』とでも言えばいいのか? いや、それだけは絶対に違う気がする。


「な、なあっ」


 彼女を呼び止める理由なんてわからない。けれど、呼び止めなきゃいけないのはわかった。


 俺の言葉に水川は足を止めて、振り返る。


「な、なんですか……」


「なんというかその……俺にもよくわからない」


「わからない?」


 ぽかんと口を開ける水川。


 しまった。もしかしたら俺は『今日はいい天気だな』以上にわけのわからないことを口にしたかもしれない。


 再び、リビングを沈黙が覆う。


「用がないなら、私、荷物をまとめに行きますけど……」


 ヤバい。なんでもいい。とにかく彼女と会話をしなければ。


「な、なんだ。なんというかその……腹が減ったな」


 と、自分でもわけのわからないことを口にする俺。本当に自分のコミュニケーション能力のなさを恨む。


「お腹減ったって……」


 そんな俺の言葉に水川はテーブルの上の皿を見やった。


「い、いや、そうじゃないんだ」


「そうじゃない?」


「そうじゃなくて、きっと夜になったら腹が減るだろうなと思って」


 言った直後、夕方になれば西に日が沈むぐらい当たり前のことを口にしたことに気がついた。


 当然ながら水川は返答に困ったようで、首を傾げる。


 さすがに三度目の沈黙はやばい。俺はそう思って立ち上がる。とにかく、彼女どこかへ行かせてはいけない。その一心で、彼女に歩み寄る。


「な、なんとういうかその……そうだっ!! そ、そう、俺、料理が苦手で自分でカレーが作れないんだ。だから、なんというかその……水川にカレーの作り方を教えてもらいたい」


「夜もカレーを食べるんですか?」


「ああ、そうだ。俺は毎日カレーを食っても飽きないほどのカレー好きなんだ。だから是非とも水川からカレーの作り方を教わりたいんだ」


 と、そこで俺は水川を見やった。


「俺に教えてくれないか? カレーの作り方……」


「別に構いませんけど……」


 水川は困ったようにそう答える。


 が、一応は了承してくれた。俺はとにもかくにも彼女を引き留めることに成功した。



※ ※ ※



 俺の料理の腕前は、俺の想像をはるかに超えて絶望的だった。


「じゃあ、そこのジャガイモの皮を剥いてください」


 キッチンで俺は隣に立つ水川から教えを乞うていた。俺は水川から包丁とジャガイモを手渡され仁王立ちする。


 ジャガイモの皮ってどうやってむくんだ?


 どうやら、水川が思っている以上に俺は料理の常識を知らない。そう言えば野菜炒めを作るにしても、これまで俺はそのつど手でちぎって適当に炒めていた。


「もしかして、剥けないんですか?」


「え? いや、そんなわけないじゃん。あはは……」


 俺はひきつった笑みを浮かべると、とりあえず包丁の先をジャガイモに突き付けてみる。それを水川は愕然と眺めていた。


「ジャガイモを刺し殺すつもりですか?」


「ほら、まだ息が残ってるかもしれないから……」


「そ、そうですか……」


 どうやら俺の手法は間違っていたようだ。ジャガイモの剥き方は何となくは知っている。母親が昔、リンゴの皮を剥いてくれたのと同じ要領でやればいいのはわかる。けど、俺にはそんな高等テクニックは披露できそうにない。俺はとりあえずジャガイモに刃をあてがうと、記憶を辿りにそれっぽくやってみるがもちろん上手くいかない。


 見かねかねた水川はため息を吐くと呆れた顔で俺を見やる。


「そんなくだらない見栄を張ってどうするんですか? 貸してください」


 そう言って俺の手に自分の手をかぶせるように触れて、包丁とジャガイモを俺から奪い取る。


「先輩はまず包丁を持つ手を間違えて――」


 と、そこで彼女は言葉を止めると、ハッとした顔で俺を見上げた。


「どうしたんだ?」


「油断してました」


「油断? 何の話だ」


「先輩のことをお兄ちゃんって呼ぶと決めていたのに……」


「そ、そういえば……」


 どうやら彼女にとっては俺を先輩と呼ぶのは不服だったようだ。


「なんだか負けた気分です……」


「誰にだよ……」


「と、とにかく、ジャガイモの皮はこうやって剥くんです」


 そう言うと水川は器用にジャガイモを剥きはじめる。彼女の右手からは帯状になった皮が床へと向かってどんどんと伸びていく。


「はい、こうやって剥いてください」


 そう言って水川は皮のなくなったジャガイモをまな板の上に置いた。さすがは水川だ。皮のないジャガイモは、皮を被っていたときの形を完全に留めたままだった。


 俺はとにかく見よう見まねで、ジャガイモを剥いてく。当然ながら水川のようにいくはずもなく、皮を剥くというよりは削るという表現をした方がいいありさまだ。が、なんとか、ジャガイモの皮がない状態へとこぎつけた俺は、水川の剥いたジャガイモの横に自分のジャガイモを置く。


 ひどいありさまだ……。


 俺と水川は、まな板に並ぶ、水川の卵型のジャガイモと、誇張しすぎたゴルフボールのような俺のジャガイモをしばらくじっと眺めていた。


 が、不意に。


「クスッ……」


 水川は突然、口を手で覆った。どうやら、あまりにも無残な俺のジャガイモに笑いが堪えられなかったようだ。


「しょうがないだろ。俺は料理は苦手なんだ……」


「すみません、でも、そのジャガイモ先輩みたいで、なんだか可笑しくって……」


「おい、どういうことだよ。詳しく説明しろっ」


「わかんないです。だけど、そう見えたんだからしょうがないじゃないですか。クスクスッ……」


 ダメだ。どうやら彼女のツボに入ってしまったらしい。彼女は必死に笑いを堪えようとしながらも、やっぱり堪えきれずクスクスと笑う。


 俺はまな板の上のジャガイモを眺める。


 悔しいことに水川の言いたいことは少しわかるような気がした。確かに二つのジャガイモは俺と水川の性格を端的に表しているような気がする。


 不本意だけど……。


「先輩ってホント不器用ですね」


「悪かったな。俺は昔から工作は苦手なんだ……」


 本当に俺は不器用だ。俺は彼女に何か伝えなければならないのに、自分の気持ちもろくに整理できずに、何故か腹いっぱいなのに水川とカレーを作っている。


 俺はどうしたいんだ?


 俺は兄なのか、それとも水川の先輩なのか? そんなことも理解できない。それが俺を苛立たせる。


 俺が言葉にできることなんて精々、


「楽しいってことくらいだ……」


「え?」


 水川は驚いたように首を傾げる。


 しまったまた思考が口に出た。


「こ、これはなんというかその……」


 と、必死に取り繕うとするが、気の利いた言葉なんて出てこない。


「お、俺はなんというかその……楽しい……」


 だから言い繕うことを諦めた。


「楽しい……ですか?」


「そうだよ。楽しいんだよ」


「え?」


 水川は勝手に早合点をする俺を見てポカンと口を開ける。


 そうだ楽しいのだ。俺は彼女と一緒にいると楽しい。そして、彼女がいなくなると寂しい。そんな簡単なことだ。


 俺が水川にとって先輩なのか兄なのか、水川にとって何が良いのか悪いのか、そんなわけのわからないことを考えて答えを求めていた。だけど、これだけは言える。


 俺は水川と一緒にいると、水川と食事をしていると、水川と放送室にいると、水川にからかわれていると、楽しいのだ。


 ホント自分でも頭の悪い結論だとは自覚している。


 だけど、


「俺は水川と一緒にいると楽しい。だから水川がいなくなると寂しい」


 水川は俺の言葉にしばらく、じっと俺を見つめていた。が、不意にまたクスクスと笑う。


「あのなあ、俺は真剣に――」


「わかってます。わかってますよ。だけど、先輩の言葉って小学生の作文みたいで、なんだか可笑しくて……」


 また水川のツボに入ったらしい。水川は笑いすぎたのか、目尻に浮かんだ涙を拭う。


「私も楽しいですよ。先輩といると」


 そう言って水川はジャガイモに包丁を入れ始める。


「やっぱり先輩に包丁を握らせるのは心配です」


「ああ、俺はやっぱり料理に向いてないと思う……」


「本当にこれまでどうやって生活してきたのか不思議です」


「レンジと湯煎が出来れば何とかなるんだよ……」


「先輩、栄養バランスって言葉、知ってますか?」


「それは……」


 どうやら水川を言い負かすのは無理だ。


「なあ、水川……」


「だけど、私、やっぱりシンガポールに行きます」


「え?」


 俺は目を見開いた。そんな俺を見て水川は優しい笑みを浮かべる。


「安心してください。私がシンガポールに行くことと、先輩は関係ないです」


「お母さんのことか?」


「それも違います。もちろんお母さんと離れ離れになるのは寂しいですが、覚悟は決めていますから」


「なら、どうして……」


 俺にはわからなかった。確かに彼女は俺と一緒にいて楽しいと言ってくれた。にもかかわらず、水川はシンガポールに行くと言う。いったい何が彼女をそうさせるのだ。


 だけど、俺には思えなかった。


 彼女が心からシンガポールに行きたいとはどうしても思えない。


 彼女は気遣いのできる女の子だ。そんな彼女がシンガポールに行くというのには、きっとそれは自分のためにではなく、誰かのためになのだ。


 彼女が気を遣う相手……。


 そこまで考えて、俺はハッとする。


「冴木さんのことを気遣っているのか?」


 水川は俺から目を逸らした。きっと図星だったのだ。


「涼花さん、いやお姉ちゃんにこれ以上、気を遣わせたくないので……」


「い、言っとくけど俺と冴木さんのことは」


「先輩とお姉ちゃんが付き合っていないことぐらい、最初から気づいていますよ」


「なっ……し、知ってたのか?」


「そんなの見ればわかります。先輩演技下手なので。きっと、私が後腐れなくシンガポールに行けるように気を遣ってくれたんですよね?」


「…………」


 水川は相変わらず優しい目で俺を見る。


「きっと私が日本にいたら、お姉ちゃんは自分を犠牲にしてでも私のことを気にかけてくれると思うので」


「そ、そうかもしれないけど……」


「きっと私がシンガポールに行けば、お姉ちゃんはもっと自分のことを考えてくれると思います……」


 そう言って水川は切り終えたジャガイモをボールへと移した。

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