第二十一話 先輩とお兄ちゃんの違い
少なくとも、この時の俺は自分の提案が、彼女にとって最良の選択だと思っていた。
だってそうだろ?
彼女は母親の愛情を求めている。そして、水川の母親はまだ生きているのだ。無理に寂しさを克服しなくても、母親とともにシンガポールへ行けば、寂しさを抱く必要すらないのだ。
俺はこの数日間で、勝手に彼女の兄になるなんて息巻いていたが、結局は十数年間ともに生活した母親の代わりなんてできない。
俺は決して自分が間違えたことを口にしたなんて、少なくともこの時は微塵も考えなかった。
「優菜ちゃんなら、早退したわよ?」
放送室に入るや否や、
俺は慌ててスマホをポケットから取り出す。が、ホーム画面には新着メッセージの通知は表示されていない。
「友一くんには、連絡は来ないと思うけどなぁ?」
と、そんなことを言うので、俺は首を傾げる。
「何が言いたいんですか?」
「わからないのかしら?」
「冴木さんのそういう回りくどい言い方は、本当に嫌いです」
「そう、じゃあ鈍感な友一くんのために、はっきり言ってあげるわ」
本当に、回りくどい奴だ。俺はイライラしながら彼女を見つめていると、冴木さんは呆れたようにため息を吐く。
「優菜ちゃんが早退したのはあなたのせいよ」
「こういうときに俺をからかうのはやめてくれませんか?」
「からかう? 私はあなたをからかったつもりはないんだけど……」
冴木さんは真面目な顔で俺を見つめた。その目は確かに冗談を口にしているようには思えなかった。
だから、俺は困惑する。
どうして、俺のせいで水川が早退をするんだよ。少なくとも俺には心当たりがなかった。
「友一くんは、もう少し察しのいい男の子だと思っていたんだけど、私の勘違いみたいね」
「何が言いたいんですか?」
「別に。だけど、本当に優菜ちゃんにシンガポールに行けって言ったのなら、私は友一くんのこと本気で幻滅しちゃうかも……」
「ちょっと待ってください。なんで冴木さんがそのことを……」
そんなことは聞くまでもない。きっと水川が冴木さんに話したのだろう。
が、俺にはわからない。どうして、その言葉が水川の早退につながるのだ。少なくとも、俺は彼女のことを思って、シンガポールに行った方がいいと言っただけだ。
俺が困惑したまま突っ立っていると、冴木さんは顎を人差し指で撫でる。
「ねえ、あなたにとって優菜ちゃんはどういう存在なのかしら?」
「わけわかんねえ……」
「そのわけを私が口にするのはルール違反だと思うから、言わないわ。あなたはただ、自分にとって優菜ちゃんがどんな存在なのかを口にすればいいの」
「…………」
俺にはわからない。冴木さんの質問の意図がこれっぽっちも分からなかった。
ただ、冴木さんの目はいつになく真剣で、それでいて、俺のその答えが何かとてつもなく大きな意味を持つのだということは理解できた。
「大切な妹ですよ……もちろん……俺と水川はまだ出会ったばかりだし、俺が彼女にとって兄の務めを果たしているかと聞かれたら自信はないですけど、少なくとも俺は彼女の兄でありたいと思っています」
俺は冴木さんの目を見てそう答えた。
冴木さんはしばらく俺の言葉の真贋を確かめるように、じっと見つめていたが、不意に笑みを浮かべるとまたため息を吐いた。
「なるほどね。それがあなたの答えなのだとしたら、私はあなたの意見を尊重したいわ」
「なんだか、わけわかんないですけど……それを答えて何か意味があるんですか?」
「ううん、あなたには何も問題はないわ。もしも問題があるとするなら、それは優菜ちゃんの方かもしれないわね」
「何が言いたいんですか?」
「言ったでしょ。それを私が説明するのはルール違反だから、私は絶対に言わないわ」
と、そこで冴木さんはそれまで俺の顎を撫でていた指を、俺の頬へと移動させて、掌で俺の頬に触れた。俺は反射的に頬を朱色に染めてしまう。
「ねえ、友一くん。覚えてる?」
「なんですか……」
「私の恋人になるって話」
「ああ、それなら願い下げですよ。確かに冴木さんは俺には勿体ないくらいの美人だってのは認めます。だけど、俺と冴木さんとでは相性がまるで合わない」
「そうかしら……私と、友一くんはなかなかお似合いのカップルだと思うけどな……」
そう言ってまた悪戯な笑みを浮かべる。
「自分でお似合いとかよく言いますね」
「確かに私みたいな美少女は、友一くんみたいな童貞くんには少し荷が重いかしらね」
本当にこの女の言葉は清々しい。
「だけど、優菜ちゃんのことを思うのならば、私の恋人になったほうがいいと思うわよ? それがたとえ見せかけの恋愛であっても」
冴木さんの目は本気だ。相変わらず悪戯な笑みは浮かべたままだが、その目は真剣だ。彼女の言葉は一見冗談のようだが、そこに明確な覚悟がある……ように思えた。
「私を信じて……なんてことは野暮だから言わないわ。だけど、友一くんだって、私にとって優菜ちゃんがどれほど大切で、たとえ自分を犠牲にしてでも優菜ちゃんの幸せを一番に考えているかは、同じ『きょうだい』として少しは理解できるんじゃないかしら」
そうだ。俺が水川の兄であるように、彼女もまた水川の姉なのだ。しかも、彼女の想いは精々水川と数日間の付き合いである俺なんかよりも、遥かに強いはずだ。
きっと、彼女は水川が傷つくようなことはしない。だとしたら、彼女の冗談のようなその提案も、身を犠牲にしてでも彼女を守るためのものなのかもしれない。
少なくとも俺は冴木さんの水川に対する愛情だけは信用することができた。
「あくまで水川のためだとすれば……」
「交渉成立ね」
彼女はそう言うと、俺の頬から手を放した。
そして、
「ちょ、ちょっと冴木さんっ!?」
彼女は俺の胸に顔を埋めた。俺の腰に両手を回すとぎゅっと俺を体を抱きしめて放そうとしない。彼女の大きな胸は俺の薄い胸板に押し付けられ、彼女の艶やかな黒髪からは、彼女特有のフローラルな香りが漂ってくる。
「友一くん、ぎゅっと私の身体を抱きしめて……」
「いや、でも……」
「覚悟を決めなさい。それが優菜ちゃんのためになるのだから」
冴木さんは本気だ。きっと彼女はこれっぽっちも俺に愛情なんて抱いていない。だとしたら、彼女が俺に体を密着させることは、きっと彼女にとって苦痛以外の何物でもないはずだ。にもかかわらず、彼女は俺に抱き着いている。
だとしたら、俺も彼女と同様に覚悟を決めなければならないのかもしれない。
俺は彼女の腰にゆっくりと手を回す。俺の両手が彼女の括れた腰に触れる。
その時だった。
突然、放送室のドアが開いた。俺は慌てて彼女から体を放してドアへと顔を向ける。
「せ、先輩?」
そこには大きく目を見開いて、俺と冴木さんを見つめる水川の姿があった。そんな彼女の胸にはコピー用紙が抱えられている。
俺は目を見開いて冴木さんを見やる。
嘘だった。そのとき、俺はようやく水川の早退が嘘だったことに気がついた。
「見られちゃったか……」
と、そこで冴木さんが呟いた。
「ごめんね、優菜ちゃん。だけど、友一くんは私のものよ」
冴木さんはそう言って俺の腕に自分の腕を巻きつけた。そんな俺たちを水川は呆然と見つめていた。
※ ※ ※
俺は冴木さんを信じて彼女の提案に乗った。その提案に手を貸した以上、その責任は俺に会って、たとえそれが間違いであったとしても、俺は冴木さんを責めるつもりはないし、すべての責任が自分にあることから逃げるつもりはない。
けど、この俺の判断が正しかったのかは、今の俺にはわからないでいた。
放課後。
「先輩、帰りますよ」
教室を出ると、そこにはいつものように水川が立っていて、笑みを浮かべながら俺にそう言った。
理由はわからないが、俺は水川と会うのが怖かった。なんだか、水川に絶対に見られてはいけないものを見られたような気がしたからだ。俺は冴木さんの水川に対する愛情、その一点においては彼女のことを信頼していたが、それでも、どうしても水川の顔を直視することは憚られた。
が、俺の予想に反して、水川はいつも通り……に、俺には見えた。
俺がやや面喰って黙り込んでいると、彼女は首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「い、いや、何でもない」
「帰りましょ?」
そう言って彼女は歩き出す。俺はそんな彼女の背中をしばらく見つめてから、彼女を追うように歩き出した。
学校を出た俺たちは、そのままスーパーへと向かい夕食の食材を買って帰宅の途に就いた。その間、他愛もない会話を交わしたような気がしたが、あまり覚えていない。
冴木さんとのことを問いただされる。
そう思ってびくびくしていたが、彼女の口から冴木さんの『さ』の字も出てくることはない。
もちろん、彼女があえてそのことを口に出そうとしないのは明らかだった。が、俺からそのことを口にする勇気もなく、俺たちは自宅へと続く公園の遊歩道を歩く。
「そうだ、先輩」
と、そこで水川が何かを思い出したように、俺を見やる。
「そういえば先輩、覚えていますか?」
「覚えてるって……何がだ?」
「先輩の呼び方です。この間は保留にしていたじゃないですか」
「ああ、覚えているよ。だけど、急にどうした」
「私、決めました」
そこで水川は足を止めた。そして、にっこりと笑みを浮かべたまま、俺の顔を見上げる。
「これから先輩のこと、お兄ちゃんって呼びますね? いいですよね。お兄ちゃん」
「…………」
「どうかしましたか?」
「いや、お前がそう呼びたいのならば、文句はないぞ……」
「そうですよね。じゃあそうします。お兄ちゃんっ」
何故だろう。俺は違和感を覚えた。
お兄ちゃんと呼ばれることに違和感はあるが、それは大した問題ではない。自分にもよくわからないが、俺が覚えたのは根深い違和感。
何故か俺をお兄ちゃんと呼ぶ水川が、俺にはどこか遠い存在のように思えた。
「それとお兄ちゃん、今朝の話ですが」
「今朝の話?」
「もう、お兄ちゃんってば、覚えていないんですか? 私がシンガポールに行くかどうかの話ですよ」
「え? あ、ああ……そう言えばそんな話したっけ?」
そう答えると、水川は唇をツンと尖らせる。
「お兄ちゃんってば、物忘れが激しいですよ……」
と、そこで彼女は再び元の笑みに戻る。
そして、彼女は笑みを浮かべたまま俺に告げた。
「私、お母さんと一緒にシンガポールに行くことにしました」
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