第二十話 北風と太陽

 気がつくと家の前にいた。自分が冴木涼花さえきりょうかと間接的にではあるが、姉弟であるという事実は、自宅まで十数分間の記憶を吹き飛ばすには十分すぎた。


「確か……ここだったわね」


「ありがとうございます……そして、すみませんでした……」


 深夜に一人で外を出歩いたことを素直に謝ると、涼子さんは「イヤリング探しを手伝ってくれたから、今日は許してあげる」と、俺の頬をツンツンとつついた。


 それはそうと……。


 俺は彼女の右手に握られたホールケーキを見やった。その視線に気がついた涼子さんは少し寂しげに笑みを浮かべた。


「寄っていきますか?」


「え?」


 俺の提案に涼子さんは少し驚いたように目を見開いた。


「さすがに、こんな時間にお邪魔するのは迷惑じゃないかしら?」


「自分の家に帰るのに、お邪魔するっていうのは、少しおかしくないですか?」


 その言葉に涼子さんはしばらく、じっと俺を見つめていたが不意にクスッと笑みを浮かべる。


「そうよね。じゃあ少しだけお邪魔しようかしら」



※ ※ ※



 こうして涼子さんを自宅へと招き入れた俺だったが、残念ながら、というか知ってはいたのだが、既に水川は自室で静かに寝息を立てていた。


 寝室へと入った涼子さんはベッドわきにしゃがむと、ニコニコと笑みを浮かべながら水川の頬をつんつんとつついた。


「かわいい寝顔……」


「起こしたほうがいいですか?」


 そう尋ねると涼子さんは静かに首を横に振った。


「可哀そうよ。こんなに気持ちよさそうに眠っているんだもん」


 涼子さんは俺に「ありがとう」と言うと、水川の顔を覗き込んで、優しく髪を撫でる。


「ごめんね、寂しい思いばかりさせちゃって……」


 自分の額を水川の額に当てると、少し寂しげにそうつぶやく。


 俺は親子の会話を傍観者として眺めていることしかできなかった。俺に出来ることは彼女の言葉がしっかりと水川に通じていると信じることだけだ。俺はそっと部屋を後にして、お茶を淹れるためにリビングへと向かった。


 それから数分が経ち、ちょうど湯呑に二人分のお茶を淹れ終えたところで、部屋から涼子さんが姿を現した。


「よければお茶でもどうですか?」


 俺の提案に涼子さんは首を横に振る。


「ごめんね気を遣わせて。だけど、会社に戻らなくちゃ……」


「これから会社に行くんですか?」


「あの人は帰っていいって言っていたけど、彼にこれ以上負担を掛けるのは可愛そうだわ。私が手伝ってあげないと」


 そう言うと涼子さんは俺のもとへと歩み寄ってくる。そんな彼女を俺が首を傾げながら眺めていると、不意に彼女は俺を腕を取って自分の方へと引き寄せた。


「っ……」


 気づいたときには、俺の頬は彼女の胸に押し当てられており、彼女はそのまま俺の身体をぎゅっと抱きしめる。


「友一くん、優菜のお兄ちゃんになる子があなたでよかったわ」


 俺は頬がじわじわと熱くなるのを感じる。当たっているのだ。弾力のある大きなものに。が、同時にどこか懐かしさも感じる。


 もう十年以上も感じることのなかった、暖かい包み込まれるような感触が俺を襲った。


 母親に抱きしめられるって、こんな感じだったっけ?


 俺は何も答えられないまま、しばらく彼女に抱きしめられていた。が、彼女はゆっくりと俺から体を放すと、微笑みながら俺を見つめた。


「誕生日ケーキ。優菜と一緒に食べてあげてね」


「あ、ありがとうございます……」


 俺は照れと恥ずかしさを抑えながら何とかそう答えると、彼女は一度俺の頭を優しく撫でて、マンションを後にした。


 閉まった扉を数秒眺めてから、俺は水川の部屋へと戻る。


 豆電球でわずかに照らされた部屋。俺はベッドの縁に腰を下ろすと、お茶を一口する。


「なんで、寝たふりなんてするんだよ……」


 そう尋ねて彼女を見やると、薄暗い中、彼女の瞼がわずかに開くのが見えた。


「気づいてたんですか……」


「当たり前だろ。いつもと寝息のたて方が違う」


「さすがは毎日私の寝顔を観察しているだけのことはありますね」


「隣で寝てりゃ、嫌でも見るだろ……それに……」


 俺は枕元へと手を伸ばすと、ティッシュを数枚、引き抜き彼女に手渡す。


「私にえっちなことでもして欲しいんですか?」


「想像力豊かかっ!! 違うよ。涙を拭けってことだよ」


「涙?」


 彼女はそこで初めて頬を伝う涙に気がついたらしく、俺からティッシュを受け取ると、乾き始めていた涙を拭い取った。


「私、ずっと泣いてました?」


「ああ、お前の母親に頭撫でられてたときからずっとな」


 普段は俺をからかってばかりの水川にしては、あまりにも下手くそな演技だったからすぐにわかった。もちろん、それは涼子さんだって知っていたはずだ。だけど、それを指摘して彼女を無理に起こすのは野暮だと思ったのだろう。


「なあんだ。寝たふりでお母さんを困らせて、仕返ししてやろうと思っていたのですが、失敗だったみたいですね……」


 と、うそぶく水川。


「いいのか? きっとしばらく誕生会は開けないぞ?」


 そう尋ねると水川はのっそりと上体を上げて、俺に微笑む。


「いいんです。私は……。それに本当に寂しがるべき人は他にいるので……」


「そうかもしれないけどさ……。お前だって、なんというかその……寂しがるのは自由だし」


 確かに冴木涼花と比べれば、水川の方が、母親と接することも多かったかもしれないし、母親の愛情を間近で感じてきたのかもしれない。だけど、仮にそうだとしても、水川が寂しがってはいけない理由なんてどこにもないのだ。


 彼女はまだ十六歳なのだ……って、十七歳の俺が言うのも変だけど、十六歳の女の子が、何千キロも離れて生活することになる母親を恋しがるのは当たり前だ。


 それに彼女には甘えることのできる母親がまだいるのだ……。


「先輩は寂しくなったりしないんですか?」


 水川はじっと俺を見つめて首を傾げる。


「なんだよ急に」


「先輩は……幼い頃にお母さまを亡くした先輩は、今でも寂しいって思いますか?」


 と、なかなか難しい質問をぶつけてくる水川。


 彼女が俺の母親の死について触れたのは初めてだった。人一倍気を遣う彼女のことだ。きっと勇気を振り絞って尋ねているに違いない。


「そうだな……寂しくないと言えば嘘になる。お前の母親が、お前を撫でているのを見たとき、少し懐かしい気がして、寂しくなったかもな」


 なかなか恥ずかしい質問をしてくる。が、彼女の真剣な目を見ていたら、素直に答えざるを得なかった。


 いやあ、恥ずかしい……。


「もう、先輩ったら可愛いですねえ……」


 そう言って俺の頬をつつく水川。


 が、いつもの悪戯な笑みはすぐに真剣な顔に戻る。


「寂しいとき、先輩ならどうしますか?」


「そうだな……」


 俺はふと自分の幼い頃の記憶を巡らせてみる。


 思い出すのは病床の母と、母の死が近いことを幼心ながら察して、めそめそしていた俺。


 そんな俺に彼女はどうしてくれただろうか……。


 ベッドにしがみついて泣きじゃくる俺に、母はなんて言ったのだろうか?


「北風と太陽……」


「え?」


「そうだっ」


 不意に記憶の扉が開いた。そうだ。あの時、母親は俺を無理に励ましたりなんてしなかった。


「寂しいって気持ちに逆らうのはよくないんじゃないか?」


「どういうことですか?」


「俺は母親が死んだとき、泣きじゃくった。泣いて泣いて、それでも涙は止まらなくて、何週間も何か月も母親を思い出しては泣きじゃくった」


 俺はそんなことも忘れていた。


 俺の言葉が水川には理解できないようで、不思議そうに俺を見つめている。


「それで本当にいよいよ涙が枯渇寸前になったとき、寂しさは俺に付き合いきれなくなって逃げていったんだよ」


 友一の気持ちとお友達になりなさい。


 これが幼い頃に母親から何度も何度も言われた言葉だ。


 感情ってのは意地悪だ。自分から遠ざけようとすればするほど、近寄ってくるものだ。だから、俺は感情に逆らうことは止めた。悲しいときや寂しいときは逆らわずに友達になった。母親が死んだときも泣いて泣いて、これでもかってくらいに泣いて……そして、腹が減った。


 不思議なことに悲しみにとことん付き合った結果、悲しみは腹が減ったという気持ちに負けたのだ。感情という奴はずっと俺に付き合ってくれるほど、お人よしではない。


 意地悪をする奴ってのは、相手が嫌がるから意地悪をするのだ。相手がそれを嫌がらなくなれば、張り合いがなくなって相手はすぐに飽きてしまう。


「なんだ……俺にもよくわからないけど、要するに寂しいときは泣きたいだけ泣いてしまえってことだ……」


 本当に俺は不器用だ。言いたいことの半分も言葉に出来ない。


 水川はそんな俺のことをじっと見つめていた。


「悪いな。俺はお前を慰めてあげられるほど、人間が出来てないんだ……」


 そう言った瞬間に、水川は耐え切れなくなったようにクスッと笑った。


「先輩って、どこまでも不器用ですね……」


「お前に言われなくても、自覚してるよ」


「だけど、正直な人です……」


 と、そこで水川は俺の腰に手を回して、俺の背中に顔を埋めた。


 彼女の身体がわずかに震えているのが分かった。


 やっぱり俺はすぐに彼女の兄になれるほどの器はないし、人間も出来ていない。


 だから、ただ彼女の弱さを受け入れてあげることしかできない。今は彼女を慰めることもせずに、ただただ、そこでじっと彼女の気持ちが落ち着くのを待ってあげることしかできない。



※ ※ ※



 翌朝、寝ぼけ眼を擦りながらリビングへと向かうと、制服にエプロンを付けた水川が「おはようございます」とにっこりと笑みを浮かべた。


 結局、昨晩、水川はずっと俺の背中で泣いていた。けど、一時間ほど経ったところで、鳴 泣き声はぴたりと止んで、代わりに小さな寝息が聞こえてきた。


 彼女の感情は眠気に負けたのだ。


 俺は「おう、おはよう」と乾燥した喉で返事をすると食卓に就く。


「先輩、食べてください」


 水川はニコニコしながらそういうので、テーブルに目を落した。


 そして、絶句する。


「なんじゃこりゃ……」


「見てわからないですか? ケーキですよ」


「いや、そんなもん見ればわかるよ」


 驚いているのはそこじゃない……。


「この量を食えって言うのか?」


「はいっ。だって足が早いので、今食べてしまわないと捨てることになりますし……」


 そこに鎮座していたのは、おそらく彼女が食ったであろう一ピース分だけを除いた、ホールケーキ。切り分けたら軽く五人分はいけそうな大きさだ。


「いや、さすがにこの量は無理だろ」


 やはり涼子さんは、なんというか頭のねじが少し緩んでいる。俺が呆然としていると水川は呆れたような顔で「もう、しょうがないですねえ……」とフォークを手に取った。


「わかりました。私も手伝います。私がイチゴを食べるので、先輩はスポンジを食べてください」


 そう言って彼女はイチゴにフォークを刺すと、そのまま自分の口に放り込んだ。そして、いつもの悪戯な笑みで俺を見つめる。


 きっと、寂しさというやつは一晩泣いただけでは、音を上げてはくれない。


 俺の言葉で寂しさが簡単に吹き飛ぶのであれば、彼女は苦しんだりはしない。


 だけど、ほんの少しでも彼女が自分の感情と友達になる方法を知ってくれたとしたら……。


 俺は彼女にイチゴをすべて取られてしまわないように、生クリームの上に鎮座したイチゴに手を伸ばすと、指でつまんで口に放り込む。


 甘酸っぱい……。


「先輩、素手は反則ですよ」


 水川はむっとむくれっ面で俺を睨む。


 そうそう、俺は昨晩、一晩考えてある答えを導き出した。


 彼女には俺と違って母親が手の届く場所にいる。そもそも彼女は俺みたいに寂しがる必要もないのだ。


 だから、


「なあ、水川」


「なんですか?」


「お前、母親と一緒にシンガポールに行くか?」

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