第十二話 不安

 結局、その後もしばらく撮影が続き、俺たちがスタジオを後にする頃には、日はすっかりと西の空に沈んでいた。廣神さんに自宅近くのスーパーまで送ってもらい、夕食の買い物を済ませた俺たちは、二人並んで自宅へと歩いていく。


 なんだか今夜は少し肌寒い。


「なんだか今日は疲れました……」


 俺たちはしばらく黙って歩いていたが、不意に水川がそう呟くと、隣を歩く俺の顔を見上げて微笑む。


 そりゃそうだ。急に撮影見学が決まったと思ったら、実際に撮影に参加までさせられたのだ。初めてのことばかりで、体力的にも精神的にも疲れているに決まっている。


 俺は水川の頭にポンと手を乗せると、彼女の頭を撫でてやる。すると、何が可笑しかったのか水川はクスクスと笑う。


「何が可笑しい」


「別に、なんでもないです。だけど、なんだか少し先輩との距離が近くなったと思っただけです」


 俺が首を傾げていると、水川はほんの少し頬を赤らめる。


「先輩が、意識せずに私に触ってくれるようになりました」


「なっ……」


 と、その不意打ちな指摘に俺は思わず手を引っ込める。何気なく、彼女を労わるために撫でてやったつもりだったが、意識した瞬間、急に恥ずかしくなってくる。


「クスクスっ……。もう、なんでやめるんですか? もっと私のこと、撫でてください」


「そう言われると、急に撫でたくなくなる」


「先輩って、なかなか意地悪なお兄ちゃんですね……」


 水川はムッと頬を膨らませる。が、不意に彼女は俺の手をぎゅっと握りしめる。


「な、なんだよ。いきなり……」


 突然、手を繋がれ動揺する俺に水川は例の悪戯な笑みを浮かべる。


「わかんないですか? 手を繋いでいるんです」


「いや、そういうことを聞いてるんじゃなくて……」


「手、繋いじゃダメですか?」


 が、俺の言葉とは裏腹に、水川は握っていた手をさらにギュッと握りしめる。彼女はそのまま俯くので、俺には彼女の表情は読み取れない。


「いや、別にダメじゃないよ」


 そう答えると水川は「じゃあ繋いでいます……」と小さく呟いた。彼女は俺に寄り添うように体を密着させる。


 彼女の体温を感じながら俺は思う。


「今日はなんだか、らしくないな」


「そうですか? 私はいつもの私ですよ?」


 そう言って顔を上げると水川は首を傾げる。


「先輩は勘違いをしているかもしれませんが、私は結構、甘えん坊です。今日は先輩に甘えたい気分なんです」


 そう言って頭を俺の肩にぐりぐりと押し付けた。


 やっぱり今日はらしくない。


 が、俺自身も今日はらしくないのか、そんな水川から逃げるわけでもなく、彼女のやりたいようにやらせてやる。そんな彼女を横目に眺めながら、俺は空に浮かぶ下弦の月を見上げた。


「どうだった? 楽しかったか?」


 俺の藪から棒な質問に、水川は「え?」と俺の二の腕に寄りかかりながら、わずかに俺を見上げた。


「撮影のことだよ。最後の方はなかなか慣れてきていたみたいだったけど」


 そこまで言って水川はようやく「あぁ……」と俺の質問の意味を理解した。


「楽しかったですよ……。最初は少し恥ずかしかったですが、慣れてきたら、私にもできるんだって思えるようになって、楽しくなってきました」


 そう言って彼女はわずかに笑みを浮かべる。


「それに憧れの片岡紗々ちゃんとも一緒に撮影できましたし……」


 どうやら、感触は良かったようだ。彼女の言う通り、始めは恥じらいを見せていた水川だったが、カメラマンの乗せ方が上手いのか、少し自信をつけた彼女は最後にはしっかりと、カメラマンの指示通りに表情を作っていた。


 そう思うと、廣神さんの作戦は大成功というわけだ。


「せ、先輩はどう思いますか……」


「どうって何がだよ」


「私が芸能の仕事をすることですよ……」


 なんだか漠然とした質問だ。だが、彼女もいろいろと悩んでいるのは容易に想像できる。


「俺はあくまで素人だから、お前に才能があるかどうかは客観的には判断できない。だけど……」


「だけど?」


「だけど、今日の水川はすげえ輝いていたと思う。撮影をしているときのお前はすげえ楽しそうだったし、なんていうかその……かわいかったと思う」


 妹がしっかりとしっかりと判断できるように、俺は思ったことを包み隠さず口にした。が、やっぱり恥ずかしい。言った直後、俺の頬が火照りだす。


 そんな俺を見た水川はクスクス笑う。


「先輩がそんな顔をするってことは、嘘はついていないみたいですね。ありがとうございます……」


「だけど、これはあくまで俺の考えだ。大切なのはお前がどう感じたかだ」


 水川は少し考え込むように眉を潜めた。そして、何故か俺の二の腕に頬を擦りつける。


「なんだよ……」


「なんでもないです……」


 そう言って黙り込む水川。本当に今日の水川はらしくない……。


 そう感じながらも歩いていると、水川は口を開く。


「楽しかったですよ、とっても……。先輩に嘘を吐いてもしょうがないですから白状しますが、本当は幼い頃からああいうのには憧れていたんです。まるで夢が叶ったみたいでした」


「だったら……」


「だけど、不思議なんです」


「不思議?」


「幼い頃から憧れていたはずなのに……撮影はすごく楽しかったはずなのに……」


 水川の表情がわずかに曇る。


「私は、先輩と一緒にいたいです……」


 水川はそう呟いた。


「どういうことだよ……」


 唐突にそんなことを言う水川に、俺は首を傾げる。


「私もよくわからないです……。だけど、芸能界のお仕事を始めたら、先輩がどんどん遠い存在になってしまうような気がして、怖いんです……」


「…………」


 どうやら、彼女も気づいているようだった。もしも彼女が事務所に所属するようになって、本格的に仕事を始めるようになったら、きっと俺たちの生活は大きく変わる。それが怖いのだろう。


「先輩……」


 と、そこで水川は足を止めた。


 そして、


「なっ……」


 何を始めるかと思えば、彼女は俺の腰に手を回してぎゅっと俺の身体を抱きしめた。


「なんだよ、いきなり……」


「言ったじゃないですか、今日は甘えたい気分なんです……」


 そう言って彼女は俺の胸に顔を埋める。そのあまりにも不意打ちな彼女の行動に一瞬動揺するが、彼女の体のわずかな震えから、彼女の不安が体に伝わってくる。


 俺はそんな彼女の身体を軽く抱きしめると、しばらく彼女の頭を撫でてやった。

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